プレミアリーグ歴代最多得点記録を持つ元イングランド代表FWアラン・シアラーが、マンチェスター・ユナイテッドに移籍しかけたエピソードを英国『BBC』の番組内で明かした。
キーガン、ファーガソンと同日に面談
シアラーはサウサンプトンでプロキャリアをスタートさせた後、1992年から4年間ブラックバーンで活躍し、1994-95シーズンには34ゴールを挙げて得点王に輝き同クラブをプレミアリーグ初制覇に導いた。
そして1996年に生まれ故郷のクラブであるニューカッスルに引き抜かれたのだが、その際に名将サー・アレックス・ファーガソン率いるマンチェスター・ユナイテッドからもオファーを受けていた。
なぜニューカッスルを選んだのか。シアラーはその時のエピソードを、番組内で司会のギャリー・リネカーに語った。実はシアラーは、ニューカッスルのケビン・キーガン監督(当時)、そしてマンチェスターUを率いていたファーガソン監督と「同じ日」に面談したという。
「同じ日にキーガン、そしてサー・アレックスと会ったのさ。(代表でチームメイトだった)デイビッド・プラットの義理の母の自宅でね」とシアラーは当時を振り返った。「午前中にキーガンと会い、非常に有益な話し合いを持てた。そしてニューカッスルの関係者が去った後、サー・アレックス御一行が来たのさ」
ファーガソン監督は真っ先に、誰と最初に会ったかを確認したという。シアラーが既にニューカッスル陣営と会ったことを明かすと、ファーガソンは「我々にはチャンスがないということだね」と肩を落としたという。それでも話し合いはとても良い雰囲気で進み、シアラーもユナイテッドに心を引かれたそうだ。
その中で、シアラーはある条件を確認したという。「PKを蹴らせてもらえますか?」と質問すると、サー・アレックスは「それはエリック(カントナ)の担当だからね」と答えたという。それでもシアラーが「分かっていますが、僕に任せてもらえますか?」と再度確認すると、それは無理だと言わんばかりの冷たい視線を送られたという。
「後悔は微塵もない」
ファーガソン御一行が去った後、シアラーは人生最大の決断について慎重に考え、一度はマンチェスターUに決めかけたという。「90%は決心したが、1、2日後に再びキーガンから電話をもらった」と説明する。もう一度会いたいと言われ、シアラーは再考した結果、ニューカッスルを選んだのだ。「昔からサポートしてきたクラブ、子供の頃から憧れだったクラブを選ぼう」と。
結局、シアラーは96年7月に、当時の移籍金世界最高記録(1500万ポンド)でニューカッスルに移籍した。そして10年間でクラブ歴代最多となる206ゴールを決めるのだが、彼が再びタイトルを手中に収めることはなかった。
一方で、ユナイテッドは同夏、ヨハン・クライフの息子であるジョルディ・クライフや、まだ無名だったオーレ・グンナー・スールシャールを補強。それから10年間で5度もプレミアリーグを制するのだった。そして1999年には三冠を達成。その時のFAカップ決勝では、シアラーを擁するニューカッスルを退けている。
番組内でシアラーは「次の質問は分かっている。『後悔しているか』だろ?」と語りだした。「後悔は微塵もない。あの瞬間に戻ったとしても、全く同じ選択をする」と、生まれ育った街との絆の深さを強調した。
最後に「サー・アレックスには自ら断りを入れたのか?」とリネカーに質問されたシアラーは、こう答えた。「電話をかけたが応答がなかった。留守電に入れるのは失礼だと思い、再びかけ直したけど応答なし。3回目にかけた際に、仕方がないので留守電に入れたよ。もちろんサー・アレックスから折り返しの電話がかかってくることはなかった」
もしあの時シアラーがマンチェスターUを選んでいたら……おそらく彼は数多くの栄冠を手にしただろう。そして今、同クラブを率いているのも“ベビーフェイスの暗殺者”ではなく、イングランドの英雄になっていたかもしれない。
Photo: Getty Images
Profile
田島 大
埼玉県出身。学生時代を英国で過ごし、ロンドン大学(University College London)理学部を卒業。帰国後はスポーツとメディアの架け橋を担うフットメディア社で日頃から欧州サッカーを扱う仕事に従事し、イングランドに関する記事の翻訳・原稿執筆をしている。ちなみに遅咲きの愛犬家。