ディウフ元会長がコロナの犠牲に。多くの人に愛された名物会長
とても悲しいニュースが飛び込んできた。
マルセイユの元会長パプ・ディウフ氏が3月31日、新型コロナウイルスに感染して亡くなったのだ。
セネガル国籍のディウフ氏は、セネガル滞在中に感染し、フランスのニースで処置を受けるべく搬送しようとしていたところで息絶えた。享年68歳だった。
ディウフ氏は2005年から2009年まで、マルセイユの会長を務めていた。彼のことをよく覚えているのは、ちょうど中田浩二さん(現鹿島アントラーズ クラブ・リレーションズ・オフィサー)がマルセイユに移籍した時の会長だったからだ。
真摯で誠実な人柄
アフリカのチャド共和国で生まれ、セネガルで育ったディウフ氏は、18歳で単身マルセイユに渡った。政治学を学んだ後にスポーツ紙のジャーナリストとなり、当時はマルセイユを取材する側だった。それから選手のエージェント業を始め、バシール・ボリやマルセル・デサイー、若き日のサミル・ナスリなど、多くのトッププレーヤーのキャリアをサポートした。
マルセイユのフロントに入ったのは2004-05シーズンから。当初はGMだったが、前任者のクリストフ・ブシェ会長がシーズン途中に辞任したため、彼が後任に任命された。
まだGMだった2004年11月、リーグ戦とカップ戦で宿敵パリ・サンジェルマンに2連敗し、サポーターの怒りも爆発してジョゼ・アニゴ監督が辞任すると、ディウフ氏は元日本代表監督のフィリップ・トルシエ氏を後任に招いた。
中田浩二さんの獲得はトルシエ監督が切望したものだったが、中田さんと鹿島との契約がちょうど2005年1月に切れるということで、移籍金の発生をめぐる交渉は難航した。
広報担当者からは明確な情報を伝えられず、ダメ元でディウフ会長を直撃したところ、会長は彼自身の携帯電話の番号を私に教えてくれた。
そしてその後は進展がないかと電話するたびに、ディウフ会長はその時点で答えられる範囲のことを真摯に話してくれたのだった。
クラブ間の交渉の末に中田浩二さんの移籍は成立したものの、その後マルセイユ側の書類の記入ミスであわやリーグから移籍の認可が下りない、というピンチに陥ったため、状況を確認するべくディウフ会長に 逐一、 電話連絡する羽目になったが、留守電にメッセージを残せばコールバックしてくれるなど、ビックリするほど誠実な方だった。
憶測で書かれるより正確な情報を与えた方が良いと思ったのだろうし、自身もかつてスポーツ紙のジャーナリストだったから、こちらの状況を理解してくれていたのかもしれない。
会長就任後、チームは成績が安定
ディウフ氏にまつわるエピソードとしてしばしば語られるのは、2006年のパリSGとのクラシコだ。当時はサポーター同士の衝突が激化していたが、パリSG側のパルク・デ・プランスでの警備が十分でないことに不信感を抱いたディウフ会長は「それならば1軍は派遣しない」という英断を下し、ユースチームのメンバーを試合に出した。すると、若手選手たちは0-0で引き分けるという大奮闘をしてみせたのだった。
ディウフ氏が会長としてフルで率いた05-06シーズンから08-09シーズンまでの4季の成績は、5位、2位、3位、2位。トロフィーこそ獲得していないが、近年でもっとも安定してポディウム(3位以内)入りを実現した時期だった。
とりわけディウフ氏が招聘したエリック・ゲレツ監督(07~09年)は、サポーターから大人気を博し、いまだに監督交代の時には後任候補名前が挙がる。
そしてディウフ氏が離脱した翌年の09-10シーズン、マルセイユは18年ぶりの優勝を果たすことになるのだが、采配を振るったディディエ・デシャン監督をマルセイユに引き抜いたのはディウフ氏であり、この優勝はデシャンとの契約をまとめた後にクラブを去った彼の“置き土産”のようにも思えた。
会長職を辞した後は、マルセイユに設立したジャーナリスト養成スクールの運営に携わったり、アフリカとも行き来したりと、精力的に活動を続けていた。
選手たちも続々と弔意を表す
今回の悲報に寄せられたコメントを見ていると、マルセイユサポーターの多くが「歴代で最高の会長だった」と嘆いているだけでなく、宿敵であるはずのパリSGのサポーターたちからも「自分はパリのファンだが、ディウフ氏は非常に尊敬できる会長だった」「サッカーをよく知る、数少ない会長の1人だった」という書き込みが多いのに驚いた。
2006年から14年までマルセイユに在籍したマテュー・バルブエナは「とにかくカリスマ性のある人だった」と話し、ディウフ氏を代理人につけていたママドゥ・ニアングは、「厳しいが常にフェアな人だった」と早すぎる死を惜しんだ。
ジブリル・シセは「契約がまとまった後に大ケガを負った時に『ケガのことは気にしなくていい。君の素質を見込んでサインしたのだから』と電話をもらったことが忘れられない」と思い出を明かした。
また、ナスリはまだティーンエイジャーの頃、「『君が努力を怠れば、君より劣る選手に追いつかれる。そして2人が同じレベルに並んだ時、クラブが選ぶのは努力して上がってきた方だ。だから絶対に手を抜かず、努力を続けろ』と教えられたことを胸に刻んでこれまできた」と話した。
選手OBや、生前ディウフ氏と関わった多くの人たちが、セネガルからニースへの医療用飛行機のチャーターの費用を出すと申し出たとも報じられた。
当時、ヨーロッパの主要クラブで初のアフリカ系会長だったディウフ氏は、その意味でもパイオニアだったが、裏表のない誠実さと知性、リーダーシップ、そして絶大なカリスマ性で、尊敬を勝ち取った。彼はマルセイユだけでなく、アフリカ系の選手たちにとって心強い存在でもあった。
外国人記者の目から見ても、ディウフ氏はここ数年のマルセイユではダントツで威厳がある“会長らしい会長”だった。眼光が鋭く強面だったが、笑うととたんに柔らかい表情になった。
パプ・ディウフ氏の思い出は、マルセイユサポーターをはじめとする多くの人々の胸に、永遠に刻まれている。
どうぞ安らかに――。
Photo: Getty Images
Profile
小川 由紀子
ブリティッシュロックに浸りたくて92年に渡英。96年より取材活動を始める。その年のEUROでイングランドが敗退したウェンブリーでの瞬間はいまだに胸が痛い思い出。その後パリに引っ越し、F1、自転車、バスケなどにも幅を広げつつ、フェロー諸島やブルネイ、マルタといった小国を中心に43カ国でサッカーを見て歩く。地味な話題に興味をそそられがちで、超遅咲きのジャズピアニストを志しているが、万年ビギナー。