1950年代、最盛期にあったウルブズ
今夏、およそ40年ぶりに欧州カップ戦に出場しているウォルバーハンプトンだが、彼らほど国際舞台が似合うクラブもない。なにせ、彼らなくして「チャンピオンズリーグ」は誕生していないのだ。
昨季ウルブズは、プレミアリーグ復帰1年目で7位に入り、2次予選からとはいえ、見事にヨーロッパリーグ出場権を獲得した。彼らが欧州の舞台に立つのは1980年のUEFAカップ以来のこと。7月25日に行われた2次予選のファーストレグでは、北アイルランドのクルセイダーズに2-0で先勝した。
そして、その会場となったウルブズの本拠地、モリニュー・スタジアムこそ、チャンピオンズリーグの前身であるヨーロピアンカップが誕生するきっかけとなったスタジアムなのだ。
1954年のことである。当時は“マジック・マジャール”ことハンガリー代表が黄金期を迎えており、1953年に6-3、翌年には7-1でフットボールの母国を粉砕していた。当然、同代表のエースであるフェレンツ・プスカシュが所属するブダペスト・ホンベードも向かうところ敵なしだった。
一方、イングランドではウルブズが最盛期にあった。彼らは1953-54シーズンの初優勝を皮切りに、1950年代に3度のリーグ優勝を果たす。残念ながら、それ以降は一度も優勝できていないのだが、世界で初めて代表100キャップを記録するイングランド代表DFビリー・ライトを擁する彼らは、50年代を代表するチームだった。
さらにウルブズは、1953年に大金を投じてモリニュー・スタジアムに照明を設置し、国内では数少ないナイトゲームを開催できる設備が整っていた。ウルブズはその設備投資の費用を回収するために、海外の有名クラブを呼び寄せてミッドウィークに「照明フレンドリー」を開催し始めたのだ。
CLを生み出した泥まみれの男たち
そして迎えた1954年12月13日、イングランド王者となったウルブズは、ハンガリー王者のブダペスト・ホンベードを迎えて親善試合を行った。世界最高峰のフットボールが見られるとして、この試合は大いに国民の注目を集めた。その注目度の高さから、それまでFAカップ決勝など限られた試合しか中継していなかった『BBC』が試合後半をライブ中継するほどだった。
試合は、ウルブズが開始14分で2点のビハインドを負いながらも3-2で逆転勝利。ハンガリー代表を6名も擁するホンベードを見事に下してみせた。ウルブズのスタン・カリス監督とイングランドのメディアは「世界王者だ」(『デイリー・メール』紙)と胸を張った。しかし、試合内容は王者に相応しくなかったようだ。当時ウルブズの練習生で、後にマンチェスター・ユナイテッドの監督になるロン・アトキンソンは、自叙伝でこう振り返る。雨が4日間降り続いた上に、「監督から水をまくように言われた」というのだ。ロングボール主体のウルブズは、華麗なサッカーを繰り広げるホンベード対策として、ピッチを泥まみれにしたのだ。「僕らが水をまかなければ0-10で負けていたかも」とアトキンソンは明かしている。
だから海外メディアが「世界王者」の主張に異議を唱えたのも当然だ。特に元フランス代表選手で仏紙『レキップ』の記者となったガブリエル・アノは、同紙にこうつづった。
「世界王者を名乗る前に、まずは敵地で再戦すべきだ。それにミランやレアル・マドリーといったクラブもある。ヨーロッパのクラブ大会が発足されるべきなのだ」
アノは数年前から欧州のクラブ大会の発足を訴えていたが、最終的にはウルブズの試合がきっかけとなり、1955年3月のUEFA総会で提起され、翌シーズンからヨーロピアンカップが始まったのだった。
そして、その試合が生んだのはチャンピオンズリーグだけではない。のちの英国フットボール界の英雄も育んでいたのだ。当時まだ子供だったマンチェスター・Uの英雄ジョージ・ベストや元イングランド代表GKゴードン・バンクスなどは、知り合いの家に駆け込んでTVにクギ付けになるほど、このウルブズの国際親善試合に熱中していたという。
Photos : Getty Images
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Profile
田島 大
埼玉県出身。学生時代を英国で過ごし、ロンドン大学(University College London)理学部を卒業。帰国後はスポーツとメディアの架け橋を担うフットメディア社で日頃から欧州サッカーを扱う仕事に従事し、イングランドに関する記事の翻訳・原稿執筆をしている。ちなみに遅咲きの愛犬家。