アーセナルの英雄は、「フットボールに救われた人生」で受刑者も救おうとしている。
イアン・ライトはアーセナルのレジェンドである。イングランド代表としても活躍したストライカーは、1991年から7シーズンに渡ってノースロンドンのクラブで得点を積み重ねた。185ゴールというのは、ティアリ・アンリに次ぐクラブ歴代2位の偉大な記録だ。輝かしい現役生活に別れを告げたあとは、ユーモアある明るい口調で解説者として活躍している。
19歳で経験した32日間の収監生活
60歳になった今でも陽気なキャラクターでフットボール界を盛り上げているライトだが、彼にもつらい過去があった。子どもの頃は義父から虐待を受け、若い頃にはブライトンのトライアルに落ちて挫折。ノンリーグのクラブを経て、ようやくクリスタルパレスに引き抜かれて表舞台に立つのだが、19歳の時には過ちを犯して刑務所に入れられた。無保険運転に対する罰金を支払わず、32日間、塀の向こう側で過ごしたのだ。
「私はフットボールに人生を救われた」とライトは英紙『The Times』に語る。「真っ当な道を生きろと言うが、先が見えない刑務所の中にいると、本当に難しいんだ」
そのつらい経験があるからこそ、彼は過ちを犯した者に手を差し伸べる。ライトは先日、アーセナルのスタジアムから2kmほどの場所にある、自身も過去に収監されていた刑務所を訪れて受刑者にメダルを配った。これは、受刑者にサッカーコーチの資格を取らせるという、クラブと刑務所が協力して行っているプロジェクトの一環である。再犯防止を目的に2018年に始まったプロジェクトには、チェルシーやマンチェスター・ユナイテッドなど今では73クラブが参加しており、これまで2500名近くの受刑者にコーチングの授業を行ってきたという。
このプロジェクトをライトとともに立ち上げたのは、アーセン・ベンゲルを日本から呼び寄せたことで知られる元アーセナルの副会長、デイビッド・ディーン氏だ。「今回15名がレベル1の資格を取った。彼らが出所したあと、前へ進んでくれることを願う」と、1991年にクリスタルパレスからライトを引き抜いたディーン氏は希望を口にする。
刑務所での日々が人生を変えた
今回、ノースロンドンの刑務所では、アーセナルの財団法人からインストラクターが来て6週間のコーチングコースが開かれた。受講した受刑者にはイングランドサッカー協会が認めるレベル1の資格が与えられる。そのコーチライセンス証明書とメダルを15名の受刑者に手渡したのがライトだった。
フットボールに救われたと語るライトだが、人生を変える転機になったのは刑務所での時間だったと振り返る。「こんなの自分の人生ではない」と感じたライトは出所後、すぐに左官の見習いを始めた。「何かやらないといけないと思った。それがフットボールだとは、まだ分からなかった」と話すライトは、一歩前に進んだことで人生が好転したという。
そんなライトからメダルを受け取った受刑者の1人は、誇らしいが、それ以上に家族が喜んでくれるのがうれしいと語ったそうだ。新たな一歩を踏み出すきっかけとなる式典だったが、ちょっとした問題も発生した。資格を取得した15名の中に、アーセナルの宿敵であるトッテナムのファンがいたのだ。
それを知ったライトは「そうだね、ようやくトッテナムのファンにメダルを届けることができたね!」と、60年以上もリーグ優勝から遠ざかるライバルクラブを揶揄しつつ、いつもの陽気なキャラで笑いを誘ったという。
つらい過去を乗り越えて、満面の笑みで周りを明るく照らすイアン・ライトだからこそ、誰かに希望を与えることができるのかもしれない。
Photo: Getty Images
Profile
田島 大
埼玉県出身。学生時代を英国で過ごし、ロンドン大学(University College London)理学部を卒業。帰国後はスポーツとメディアの架け橋を担うフットメディア社で日頃から欧州サッカーを扱う仕事に従事し、イングランドに関する記事の翻訳・原稿執筆をしている。ちなみに遅咲きの愛犬家。