欧州でプレーするブラジル代表選手たちが、シーズンオフでブラジルに帰国し、それぞれの休暇を過ごした。
ユベントスでプレーする右SBのダニーロもその1人。ケガのため6月6日の日本戦には招集されていなかったが、若手の急成長で注目を集めるブラジル代表の攻撃陣を安定した守備力で支えるという、この国の歴代SBとは違った特徴を持つ彼は、ワールドカップカタール大会でもスタメンとしてプレーすることになるはずだ。
抱き続ける故郷への想い
そのダニーロの休暇は、故郷のミナスジェライス州ビッカスで長期間を過ごす、素朴で温かい日々となった。多くの選手たちと同様、彼もサッカーのために10代半ばに故郷を出た。アメリカ・ミネイロ、サントスを経て、2012年からはポルト、レアル・マドリー、マンチェスター・シティ、現在のユベントスと、欧州でのプロ生活が続く。それでも、彼はその人口1万3000人の小さな街との繋がりが、今もとても強い。
昨年、新型コロナウイルスのパンデミックのため、アルゼンチンとコロンビアがコパ・アメリカ共同開催を返上し、急きょブラジルで行われることが決まった時のことだ。賛否両論が渦巻く中で大会が開幕し、6月12日の初戦ベネズエラ戦を終えた後、ダニーロは自身のSNSに、勝利報告とともに「6月12日、新型コロナによる犠牲者2037人。ご家族への祈りを込めて」という一文を添え、試合のプレー写真と、試合前、国歌を斉唱する自身の写真を投稿した。
当時、彼にその真意を聞くと、こう語ってくれた。
「多くの場合、僕ら選手というのは自分自身で決断を下すことができないものなんだ。あの文を書いた時は、僕らがブラジル代表にいても、多くの人たちの苦しみに鈍感なわけではないことを示したかった。僕もまさにあの日、故郷ビッカスにいる28歳の友達を亡くしたんだ。小さな街が、コロナによって多くの人を失っていた。僕らは大会に集中していたし、国を代表する選手としての義務を理解していた。でも、僕らもみんなと同じ心を持つ人間だということを示したかったんだ」
その日から、彼は大会中の試合ごとに、その結果報告とコロナの犠牲者への祈り、そして「Força Brasil(頑張れブラジル)」の言葉を書き続けた。
無観客で行われたそのコパ・アメリカから8カ月を経て、新型コロナの沈静化とワクチンの普及により、3月24日南米予選チリ戦では、マラカナンに6万2000人の観客が入場した。
ダニーロはそこに観光バスを手配し、故郷ビッカスの人たちを招待した。4-0で快勝した試合後、スタンドのビッカスの人たちを探す彼は幸せな笑顔に満ちていた。
多くの子供たちと交流
そして今回の休暇だ。すでにマスクは義務ではなくなり、小さな子供たちを思い切り抱きしめることのできる状況で、彼は実に多くの子供たちと触れ合った。
その中でも、彼自身が2015年にビッカスの街で創設したプロジェクト「Futuro Re2ondo(=丸い未来)」がある。これは、スポーツを通して7歳から17歳の青少年が人として成長することに貢献し、将来、職業人として夢を実現するための手助けを目的とした施設だ。スポーツの指導者や教育者、健康面のプロフェッショナルたちとともに手がけ、現在140人を受け入れている。
ダニーロはそこで子供たちに語りかけた。
「ここでは思い切り楽しんで欲しいし、学んで欲しい。僕にとって、ここでみんなと一緒にいられるのはすごく感動的なことなんだ。このプロジェクトは僕の夢だった。それが今、実現している。みんなだって夢を実現できるんだよ」
歓声をあげ、拍手喝采する中には、感動がこみ上げたのだろう、泣きながらダニーロに抱きついて離れない子供たちもいた。彼も抱きしめ、頭をなで、涙を拭いて、子供たちの思いに笑顔で応えていた。
そうやって、彼が主催するプロジェクトはもちろん、彼自身が卒業した小学校、街の小さな少年サッカー大会、そしてブラジル各地にある同様の小さな施設の数々を訪問して、多くの子供たちと出会った。
休暇の多くの時間を注いで子供たちにモチベーションを与えたダニーロは、彼自身もエネルギーを充電し、ユベントスでの新たなシーズンと、4カ月半後に迫るW杯を戦い抜くことだろう。
Photos: Lucas Figueiredo/CBF
Profile
藤原 清美
2001年、リオデジャネイロに拠点を移し、スポーツやドキュメンタリー、紀行などの分野で取材活動。特にサッカーではブラジル代表チームや選手の取材で世界中を飛び回り、日本とブラジル両国のTV・執筆等で成果を発表している。W杯6大会取材。著書に『セレソン 人生の勝者たち 「最強集団」から学ぶ15の言葉』(ソル・メディア)『感動!ブラジルサッカー』(講談社現代新書)。YouTube『Planeta Kiyomi』も運営中。