来月6日に開幕するUEFA女子欧州選手権イングランド大会には、特別な思いを持って参加する女性審判がいる。それがマリーナ・ストリレツカさん(38歳)だ。母国が戦火に巻き込まれたウクライナの副審は、『BBC』のインタビューで大会への特別な思いを語っている。
夫を残し4日間かけてスイスへ
ロシア軍によるウクライナ侵攻は2月下旬に始まった。夫や娘と母国ウクライナで暮らしていたストリレツカさんは、その日のことを決して忘れないという。朝起きると愛犬が鳴いており、夫も侵攻を伝えるテレビの前で涙していたという。そしてロシアとの国境から30kmに位置するストリレツカさんの村を、ロシア軍の車両が通ったという。
「当初、ロシア軍は友好的でキーウへの行き方を聞いてきた」とストリレツカさんは『BBC』に語る。「彼らは助けに来たつもりかもしれないが、私たちが助けを求めていないことを知り、彼らは怒って民間人の車を撃ち始めた。そのときに私は、村を出なくてはいけないかもしれない、と思い始めた」
普段は女子チームのコーチをしながら週末にウクライナリーグで審判を務めるストリレツカさんは、11歳の愛娘のことを考えて3月中旬に戦火を離れる決意をした。家を守るために母国に残った夫のセルギーさんを置いて、娘や友人家族とともに親族が住むスイスに向けて出発した。車での長い長い旅の始まりだった。
戦車が行き来する中、隠れながらスイスを目指し、18時間運転してから仮眠を取るといった日々。教会の床で寝たこともあったという。4日間かけてようやく国境に辿り着いた後、17時間も列に並んで姉妹が待つスイスに入国した。
スイスが全面的にサポート
サッカーチームのコーチを務める夫が戦火に残ったのには理由がある。ストリレツカさんたちは以前、ドンバス地方に住んでいたことがあり、2014年に始まった内戦ですべてを失ったのだ。彼らは一度も会えないまま両親を亡くしたという。「夫は家を守ることにした。これが2度目だから」とストリレツカさんは『BBC』に説明する。
スイスに入ってからも頭の中は夫と戦争のことでいっぱいだった。「3週間は泣き続けた」というストリレツカさんだが「自分がサッカー界で生きていることを忘れていた。だからこそ、審判業を再開しないといけないと思った」と再び前を向いた。そしてスイスサッカー連盟の協力で、男子のスイス3部リーグで審判を務めるようになった。
ウクライナからの避難民を受け入れてくれたスイスには感謝しかないという。審判業の機会を与えてくれただけでなく「電車やバスの公共交通機関の無料化」や「無償での語学コース」を用意してくれたというのだ。そしてストリレツカさんは来月から、主審を務めるカテリーナ・モンズールさんとともにウクライナ審判団の一員としてイングランドでの女子欧州選手権に臨む。
「大切なのは人との絆」
モンズールさんたちは昨年10月、イングランド男子代表のW杯予選のアンドラ戦を担当した。女性審判団がイングランド男子代表を担当するのは史上初めてのことだったという。今はモンズールさんも戦火を逃れ、イタリアで審判を続けているそうだ。
「戦争のことを忘れて(モンズールさんと)再び一緒に仕事ができるのが本当に楽しみ」と、自身2度目の女子欧州選手権に臨むストリレツカさんは語る。「私たちは小さな家族と同じ。まるで姉妹のようなもの。でも戦争が始まってから、審判界というもっと大きな家族がいることに気づいた。みんなが助けてくれている」
ストリレツカさんの夫が住む村は、まだ爆発音が聞こえることもあるが以前ほどではなく、徐々に日常が戻ってきたそうだ。ストリレツカさんもオンラインで地元の女子チームの練習を再開し始めた。今回の経験を受け、ストリレツカさんは人生において何が大切か学んだという。
「あまり多くのことは必要ないと気づいた。お金は重要ではない。大切なのは人との絆。みんなが支えてくれる。話しかけてくれるし、娘に果物を持ってきてくれる人もいる。小さなことだけど、とてもありがたいわ。人生において大事なのはそういったことだわ」
来月の女子欧州選手権では、大勢のサッカーファンがストリレツカさんたちウクライナ審判団を大歓声で迎えるだろう。そして遠く離れたウクライナでは、最愛の人が妻の勇姿を画面越しに見守るはずだ。
Photo: Getty Images
Profile
田島 大
埼玉県出身。学生時代を英国で過ごし、ロンドン大学(University College London)理学部を卒業。帰国後はスポーツとメディアの架け橋を担うフットメディア社で日頃から欧州サッカーを扱う仕事に従事し、イングランドに関する記事の翻訳・原稿執筆をしている。ちなみに遅咲きの愛犬家。