女子サッカー界にエージェントが増加。先駆けは元ミスの女性エージェント
ここ最近、男子サッカーのエージェントたちが続々と女子サッカー市場に参入している。
現フランス代表監督のディディエ・デシャンを筆頭に、フランク・リベリやフロリアン・トバンら新旧フランス代表選手を多数抱えるジャン・ピエール・ベルネス、アーリング・ホーランドやポール・ポグバ、ズラタン・イブラヒモビッチら世界的スター選手を顧客にもつミーノ・ライオラといった、業界のトップランナーたちもその一角だ。
そこには、以前はアマチュアだった女子サッカーのプロ化が進み、移籍金を含めた交渉を行う機会が増えたという背景がある。
フランスでは、以前はプロクラブがリヨンのみだったが、現在は昨シーズンそのリヨンの15連覇を阻みリーグ優勝を遂げたパリ・サンジェルマンのほか、女子クラブの老舗であるパリ近郊のジュビジーもリーグ2所属のパリFCの女子部となっている。また、代表クラスの選手や海外組といった一部の選手がプロ待遇という「セミプロ」クラブもある。
今では代表クラスの選手なら男子のリーグ2並み、さらにはリーグ1クラスのサラリーを要求できる選手も出てきている……という表現からしてすでに顕著な男女差がある証拠だが、それでも10年前と比べたら大きな進歩だ。
そんな女子選手の移籍金を伴っての移籍などまだなかった時代に、突破口を開いた1人の女性エージェントがいる。世界的なスポーツエージェント&マーケティング会社『CSM Sport & Entertainment』に所属し、フットボール部門を担当しているソニア・スイドだ。
将来のプランが二転三転
スイドがエージェントのライセンスを取得したのは、25歳だった2010年。400人の受験者で合格者はわずか18人という難関を突破した。女性は彼女だけだった。
そこから干支がくるりと1周した今では押しも押されもせぬ第一人者となっているのだが、そんなスイドの一風変わった経歴が『ウエスト・フランス』紙の人気コーナー、『サッカー界で輝く女性』シリーズで取り上げられていたので紹介したい。
身長1m81cmのスイドは、ティーンエイジャーの頃は将来を嘱望されるバレーボール選手で、プロの道も真剣に考えていた。しかしある日、所属していたクラブにいた東欧出身の35歳の先輩プレーヤーから絶望的な話を聞かされる。
「あのね、ソニア。私は今35歳なんだけど、体はあちこち痛くて60歳のように感じるの。貯金もないし、学もない。バレーボール人生が終わったら何をすればいいのかもわからない。私にできることはこれしかないんだもの」
明るい将来を夢見る10代後半の女の子にとっては、厳し過ぎるリアルな現実である。スイドはそこから一念発起し、医者を目指すことにした。母は数学教師という家庭に育った彼女は文武両道だったのだ。
しかしそんな時、ひょんなことから地元オーベルニュ地方の『ミス・オーベルニュ』に選ばれる。自動車学校の女性教官が「教え子に可愛い子がいる」と応募したのだった。しかし地方のミスに選ばれるとミス・フランス選抜に向けた合宿などで拘束されてしまい、その年の医学部入学試験に落ちてしまう。翌年も再チャレンジしたが希望していた学部には受からず、ここで彼女の心は折れた。
一時は絶望して鬱状態にもなり、ミスコン仲間と小さなアパートをシェアしながら展示会のコンパニオンやモデル、不動産屋の事務など、とにかく手当たり次第にもらえる仕事をやるという日々が続いたという。
エージェントは、もともとスポーツ好きだったスイドがそんな日々の中でたどり着いた先だった。
転機となった2つの移籍
ライセンス取得後、フィジカルトレーナーだった父がその時に勤めていたアラブ首長国連邦へと渡ったスイドに、その後のキャリアを好転させるチャンスが訪れる。2012年冬のメルカートで、UAE男子代表DFハムダン・アル・カマリのリヨンへのレンタル移籍をまとめたのだ。同国の選手で初の欧州クラブへの移籍は話題になった。
そしてフランスに戻った2013年、モンペリエで宇津木瑠美のチームメイトだった元フランス女子代表FWマリー・ロール・デリーのパリ・サンジェルマンへの移籍を5万ユーロで成立させる。日本円にして600万円ほどの金額に驚きはないかもしれないが、金銭を伴う移籍自体が皆無に等しかったフランスの女子サッカー界においてこれはセンセーショナルであり、1つの大きな転換期となるほどの出来事だった。
また、2014年にはポルトガル人のエレナ・コスタがクレルモン・フットの監督に就任し、フランスの男子プロクラブで初めて女性監督が誕生して世界的に大きな話題となったが、ここにもスイドが絡んでいた(編注:エレナ・コスタは開幕前に退任。現フランス女子代表監督のコリーヌ・ディアクルが後任となり、3シーズン率いた)。
スイドはクレルモン・フットの本拠ガブリエル・モンピエのすぐ近くで生まれ育っており、クラブの会長であるクロード・ミシーとはすでに情報提供できる関係にあった。ミシー会長は「20人以上いた候補者の中から厳正に精査した結果」とコメントしたが、その候補に女性監督を加えることになったのは偶然ではない。
しかし、そんなミシー会長とも彼の侮辱的な発言をめぐって裁判沙汰に発展したことがある。「ソニア・スイドには魅力があるが、彼女は女性である。彼女らはいつも自分たちができることを誇示したがるのだ」のような、スイドの弁護士が「時代遅れのマッチョ」と評した発言の数々だったらしいが、そういえば日本でも昨年あたり、五輪関連で同じような失言騒ぎがあった。どこの国も似たり寄ったりだ。
「何があってもとにかく前に進む」
実際、「これだから女は〜」というのはよく聞くセリフだが、駆け出しの頃のスイドにも、いつもこうした言葉がつきまとっていたそうだ。
第1子を出産後は、会議の合間に授乳していたというワーキングママで、そういうシーンでは案外、偉大なクラブ会長たちの普段は見えない素が見られたりするのだそうだ。例えば、攻撃的で「戦闘機」の異名を取るリヨンのジャン・ミシェル・オラス会長は、彼女が業務に追われている間ベビーシッターを買って出てくれたそうだ。
現在スイドはフランス女子代表キャプテン、アマンディーヌ・アンリといった国内外のトップ選手を手がけ、「女子選手ならスイド」という不動のポジションを築いている。
そんなスイドに憧れる学生などにこの職業について質問される時、彼女は「難しい仕事。女性だからではなく、男性にとっても」と答えるのだそうだ。「ライセンスを取得したばかりのエージェントはコンタクトがなく、ゼロから構築しなければならない。どれだけ時間がかかっても、時に逆風が吹いても決して諦めない粘り強さなど、ブレないキャラクターが不可欠だ」と。
同時に、若い頃に将来のプランが二転三転する経験をしている彼女は、今でも「今日エージェントだからといって、明日もそうだとは限らない」という、ある種の危機感を持って仕事に取り組んでいるというが、それは必ずしも悲観的な意味ではない。
スイドの頭の片隅には「いつかクラブ幹部に」という考えもある。「人生をありのままに受け入れて、何があってもとにかく前に進むこと」が彼女のモットーだ。
ちなみに「元ミス」の肩書きは、今では場を和ませるジョークになっているんだそうだ。
Photo: Getty Images
Profile
小川 由紀子
ブリティッシュロックに浸りたくて92年に渡英。96年より取材活動を始める。その年のEUROでイングランドが敗退したウェンブリーでの瞬間はいまだに胸が痛い思い出。その後パリに引っ越し、F1、自転車、バスケなどにも幅を広げつつ、フェロー諸島やブルネイ、マルタといった小国を中心に43カ国でサッカーを見て歩く。地味な話題に興味をそそられがちで、超遅咲きのジャズピアニストを志しているが、万年ビギナー。