東京五輪で金メダルを獲得。ブラジルが進める強化のための長期的プラン
U-24ブラジル代表が東京五輪の男子サッカー競技で2大会連続の金メダルを獲得した。オリンピックでのブラジルは、1984年のロサンゼルス大会以降、銀メダルを3度、銅メダルを2度獲得し、自国開催の2016年リオデジャネイロ大会で悲願の金メダルに輝いた。
そうなると、東京大会での連覇はサッカー大国の名誉を賭けた使命。それを実現したことで、国中が大いに盛り上がった。
ブラジルサッカー連盟も決勝翌日、本部社屋の外壁いっぱいにチームの歓喜の様子と金メダルを描いた巨大ポスターを飾り付け、その勝利を祝った。
ブランコが施した改革
ブラジル下部年代代表の全カテゴリーを統率しているコーディネーターのブランコは、1994年ワールドカップ優勝メンバーであり、11年間に渡ってフル代表で活躍した元選手だ。
2003年〜2007年にも同じ役割を務め、2003年のU−17とU−20W杯優勝を始め、各年代の南米選手権など、数多くのタイトルに導いた。2018年に復職した後も、2019年U−17W杯を始め、再びタイトルを積み重ねている。
一方、ブラジルは世界で唯一、W杯で5度の優勝を達成している国だが、2002年大会を最後に、王座を奪還できずにいる。その復権のためにブラジルサッカー連盟が取り組んでいるのが、フル代表への最大限のサポートと同時に、下部年代からの見直しだ。
ブランコをコーディネーターに招聘した際、連盟は2つの目的を提示した。それは、才能ある少年や若手をフル代表に送り込むため、効果的に準備すること。そして、下部年代はもちろん、その先にあるフル代表が、ブラジルにふさわしいタイトルを獲ること。
ブランコはこう言っていた。
「すべての年代のあらゆる大会を観察しながら成長を続けよう。ブラジルの財産となる若い才能たちに、代表のユニフォームを着る機会を与えるために。そして、勝者のメンタリティを持つ選手たちを育成するために」
ブランコは就任後、その長期的プランに取り組むため、いくつかの改革を行った。
その1つが、既存のU−15、U−17、U−20、五輪(および候補)代表に加え、新たにU−16、U−18代表のカテゴリーを創設したことだ。そのための専属の監督と技術委員会を構成し、合宿や親善試合を重ねるようになった。
次のカテゴリーに繋げるための選手の観察を、より細かくできるのはもちろん、選手自身の代表経験を増やすとともに、意識を高めることにも繋がっている。
また、U−15から全カテゴリー代表の監督が、連盟本部のあるリオデジャネイロに住み、代表チームの活動がない時も、本部の同じ部屋で仕事をするようにした。以前は地方在住の監督は、必要な時だけリオに来ていたのだ。
同時に、フル代表チッチ監督と技術委員会スタッフも含めて、全カテゴリー合同のミーティングを定期的に行い、情報を共有するとともに、ブラジル代表としての1つのアイデンティティや、試合における哲学などを構築できるようにした。
また、1994年W杯優勝監督のパレイラを招いてディスカッションするなど、選手よりまず下部年代のスタッフに、ブラジル代表のスピリットを浸透させるための試みも行った。
その中で今回、優勝監督となったアンドレ・ジャルジーニは、2019年4月にU−20代表監督に就任していた。その1カ月後、U−23代表監督のシウビーニョがリヨンの指揮を執るために連盟を去った。
そこで、同年6月にU−22代表で臨んだトゥーロン国際大会は、ジャルジーニが指揮を執って優勝。そして、8月に正式にU−23代表監督となったのだ。
適任者ジャルジーニの存在
ジャルジーニはその20年間の指導歴において、グレミオやサンパウロFCで、プロチームの代行監督を務めたことはあるが、大半はクラブ下部組織で仕事をしてきた人物だ。育成のスペシャリストだが、国際的には無名だった。
オリンピックの約1カ月前、ジャルジーニを選んだ理由を聞くと、ブランコはこう説明してくれた。
「2年前、彼を含む4人を検討したんだ。彼があらゆる面で適任だと分析した中でも、決め手となったのは彼のロッカールームでのマネージメント力だった。代表チームというのはクラブとは違い、日々をともに過ごすわけではないから、限られた時間での選手との信頼関係作りが重要になるからね」
「その後も、彼は試合のスタイル、アイデア、メンタリティなどを含め、我われの求める道程に非常に良く当てはまり、結果を出してくれた」
ブランコはまた、国内外のクラブとの関係作りにも大きな力を発揮した。もちろん所属選手の五輪招集を拒否するクラブは多く、簡単ではなかった。しかし、彼の現役時代の経歴と、下部年代代表コーディネーターとしてのこれまでの手腕が、各クラブからの信頼獲得に繋がったとともに、日頃からの丁寧で根気強いやりとりが奏功した。
スポーツ専門チャンネル「SPORTV」解説者のパウロ・セーザル・バスコンセロスは、今回のブラジルの勝因について語る中で、こんなエピソードを披露していた。
「今年3月にブランコが新型コロナウイルスに感染し、重症化した際、連盟の中では『彼だからこそ進行している交渉の数々が、この後、どうなってしまうのか』と心配する声もあったほどだった」
五輪が選手たちの夢の舞台に
選手たちの意識も変わってきた。リオ五輪優勝の影響も大きかったのだろう。ここ数年、東京五輪出場と金メダルがW杯への夢の過程であるだけではなく、それ自体を大きな夢だと語る選手が非常に多かった。
その1人がブルーノ・ギマラエンス(リヨン)。五輪予選ではキャプテンを務め、本大会でも全試合でスタメンを務めた彼は、アトレチコ・パラナエンセからリヨンに移籍した2020年1月、「東京五輪代表に招集された場合、クラブがその招集に応じる」ことを契約に盛り込んだと言っていた。
彼の代理人アレクシス氏に聞くと、当時、リヨン、アトレティコ・マドリー、ベンフィカの3クラブと契約交渉が行われた中で、リヨンだけが五輪招集に応じることを保証したため、それが決め手となって移籍を決めたそうだ。
代理人は「それがブルーノの夢だったからね」と語っていた。この2大会連続優勝で、選手たちの歓喜を目に焼き付けた次世代の少年たちにとっても、五輪は大きな夢の1つであり続けるに違いない。
8月13日、9月の南米予選に向けたフル代表の招集メンバーが発表された。東京五輪組からも6人が選ばれた。下部年代からの改革をW杯優勝に繋げることは、当初からの目標の1つだった。
さらに、ブランコと連盟は今週末にも、五輪3連覇を目指した新たなサイクルのプロジェクトを練り始める予定だ。2022年カタールW杯、2024年パリ五輪へと、ブラジルの挑戦は続く。
Photos: Lucas Figueiredo/CBF, Thais Magalhaes/CBF
Profile
藤原 清美
2001年、リオデジャネイロに拠点を移し、スポーツやドキュメンタリー、紀行などの分野で取材活動。特にサッカーではブラジル代表チームや選手の取材で世界中を飛び回り、日本とブラジル両国のTV・執筆等で成果を発表している。W杯6大会取材。著書に『セレソン 人生の勝者たち 「最強集団」から学ぶ15の言葉』(ソル・メディア)『感動!ブラジルサッカー』(講談社現代新書)。YouTube『Planeta Kiyomi』も運営中。