ロベルト・エンケ。隠された心の病との闘い、その途中
心を病み、さらには最愛の娘の死という悲劇に遭いながらも復活。ところが、2009年11月10日、自宅近くの踏切に飛び込み32歳の若さで命を絶った。男の名はロベルト・エンケ。
このインタビューは、ドイツのカルチャーマガジン『エルフ・フロインデ』誌の2008年12月号に掲載されたものだ。ところどころジョークを交えながらの語り口に、2010年南アフリカワールドカップに向けた力強い決意――インタビューから1年後、自ら死を選ぶ人間のものとはとても思えない。であればこそ感じられる、GKが背負う責の重さ、そして心の病の底知れない闇の深さを少しでも知ってほしい。
【12/12(水)発売】うつ病とサッカー―元ドイツ代表GK #ロベルト・エンケ の隠された闘いの記録https://t.co/L6Tp8JpSAU
— footballista (@footballista_jp) 2018年12月7日
模範的なエリートアスリートであり成功の絶頂にいた彼は、なぜ自ら命を絶ったのか――心の病は誰にでも襲いかかる。これは悲劇の物語ではなく、#うつ病 の啓蒙書である
エンケのこと
少なくとも、サッカー選手のステレオタイプには当てはまらないですね
── ロベルト、あなたは犬を9匹に猫を2匹、そして馬を1頭飼っていますが、どんな生活をしているのですか?
「僕にどうしろって言うんですか? 妻が動物好きなんですよ(笑)。冗談はさておき、良い生活ができていますよ」
── あなたは妻のテレーザさんとともに、たくさんの動物を飼育しながらドイツの伝統的な、昔ながらの木造の家で暮らしています。自宅はハノーファー近郊にありますね。こうした生活は、典型的なプロサッカー選手の暮らしぶりとは言えません。
「少なくとも、サッカー選手のステレオタイプには当てはまらないですね。それどころか、僕らは芸術家のジャック・ガスマンと一緒に生活していました。今の家に越してくる時、僕らの前に住んでいたジャックと話し合って、彼が落ち着いて新しい家に移れるよう、しばらく共同生活をしながら準備を整えてもらうことになったんです」
── 一緒に暮らしていたんですか?
「そういうことです。その生活の中には、彼が作る詩や芸術家仲間も含まれます。いつだったか、義母が『今夜あなたの家で作品の展覧会があるのね。素敵だわ』と電話してきてビックリしたこともありました。ジャックは僕らには何も話していなかったんですから(笑)。振り返ってみると、とても興味深い経験でしたね。カオスな状況もあったけれど、とても魅力的な時間でした」
── あなたは、自身の職業である『サッカー選手』という役割と、どのように折り合いをつけていますか?
「この職業を、とても楽しんでいます。でも、まあ、サッカー界のあれこれや、メディアからの取り上げられ方には慣れることも必要ですが。同僚の記事が新聞に載って村じゅうの噂になってしまうような時は、心だけでなく身体的にも苦痛に感じられるほどです。他方では、サッカー選手は本当に多額のお金を稼いでいます。ですから、もし自分自身についてゴミみたいな記事を書かれても、それに耐えられるような強さが必要なのかもしれません」
── あなた自身、サッカー選手であることで、日常生活でも特別な待遇を受けていますか?
「ひとたびプロサッカー選手として定着して、その生活を楽しめるようになってしまうと、手放すのは難しいですね。でも、常に自分に言い聞かせないといけません。例えば、もしケガをして病院に行っても、普通の人はすぐに治療を受けることなんてできないんだ、とか。通常なら3、4週間は治療日を待たないといけませんからね」
── あなたの人生は、まさに夢のような人生ですか?
「いや。これは僕自身の人生です。僕は夢想家ではありません。この生活を手にするために、僕はたくさんのことをしなければならなかったし、たくさんのことを我慢しなければならなかった。僕の普通の練習日の生活だけを見れば、明らかに一般の人たちの方が働いているでしょう。その代わり、僕は週末に移動が多くて妻のための時間が取れません」
こころのこと
試合後の夜に死ぬほど落ち込んで家に帰って、翌朝にはベッドから這うように起き上がる
── あなたはかつて、次のように言いました。「エンケが厳しい批判にさらされたことにも、意味があったんだろうね」と。
「それは僕が無職で半年間過ごした後、スペイン2部のテネリフェのベンチに座った時に言った言葉ですね」
── 約4年前のことになりますね。今なら、この言葉の意味を説明してもらえますか?
「当時は、すべてが順調に進んでいました。カール・ツァイス・イェーナからボルシアMGに移籍して、そこからベンフィカ、そしてバルセロナとステップアップしました。でも、そこで突然、苦境に陥ってしまった。この厳しい状況は1年半も続きました。バルセロナから戦力外にされて、フェネルバフチェに移籍しましたが、そこでプレーした最初の1試合が酷い出来でした。試合後には、空き瓶やライターを投げつけられるような有様でしたからね。そうして、半年間の失業期間がやってきた。僕がテネリフェにチームを見つけて合流した時に、この苦しい時間に味わった経験の意味をすぐに悟りましたよ。このような苦しい経験をした後では、プロ選手として生活できる素晴らしさをすぐにでも感じられるようになるものです」
── それは、注目を集めるということですか?
「いや、単純に、サッカー選手としての日常生活そのものが恋しくなるということです。朝早く起きて、トレーニングに行くのが待ち遠しくなるんです。チームの一員として行動することとか、ロッカールームでのくだらないやりとりとか。そういった日常の些細なことが、とても貴重なものなんだということを学びました。テネリフェでの時間は、僕にとって良い療養期間になったんです」
── プロとして本当に素晴らしいサッカー選手になるために、そうしたどん底に沈むような経験も必要でしょうか?
「たぶんね。でも、僕が味わったどん底は、とても深いものでした。5、6回セービングミスをするような、GKなら誰でも経験するスランプなどではなく、もっと自分の存在そのものを脅かすような“危機”でしたから」
── フェネルバフチェで契約解除された後、二度とチームを見つけられないという恐怖を覚えましたか?
「僕は、二度と這い上がれないんじゃないかと思うようなカテゴリーまで落ちてしまいました。他のクラブの監督たちが『アイツの頭は大丈夫か?』と思わざるを得ないほどにね」
── その影響を実際に感じるようになったのはいつ頃のことですか?
「2004年の1月です。新しい契約を結べるようになりましたが、オファーがきたのはデンハーグ(ADO)、ケルンテン、そしてテネリフェの3クラブからだけ。あの時は、本当に深い奈落の底まで叩き落とされそうな気分でした」
── あなたは、プロサッカー選手としては繊細過ぎるのでしょうか?
「イスタンブール(フェネルバフチェ)からの逃走は、プロフェッショナルと言えるものではなかったですね。(熟考した後で)おそらく、フェネルバフチェでもバルセロナでも、ベンチに座って給料をしっかりもらってから移籍した方が『プロサッカー選手』にふさわしかったかもしれません」
── それは、あなたにとって抵抗感のあることだったのでしょうか?
「自分が住んでいる国での生活を心地良く感じられなくて、集中できずに必要なパフォーマンスを発揮できないのであれば、そこでプレーを続けたいのかどうか、考えないといけません。それ以外に、クラブに対する責任もあります。僕(の決断)はフェネルバフチェに、できるだけ早く後釜のGKを獲得するチャンスを与えました。ですが、彼らはそうしなかった。にもかかわらず、彼らはあの年リーグ優勝しました。だから、僕もその一員なんです(笑)」
── イスタンブールでは、人として精神的に壊れてしまう不安も感じましたか?
「それだけではありません。トルコの熱狂は、僕にとって本当に危険なものになる可能性すらありました。サッカー選手なら、似たような状況を経験することもあるでしょう。試合後の夜に死ぬほど落ち込んで家に帰って、翌朝には苦しみながらベッドから這うように起き上がる。そうして半年間、どうにか選手としてやり過ごす……僕には、それができませんでした」
── その時の経験は、あなたにどのような影響を与えていますか?
「イスタンブールでの経験は、僕の人生の大きな曲がり角になりました。2年前、娘が亡くなった時と同じようにね。ですから、今の僕にとって、サッカーは以前とはまったく違った意味を持っています。サッカーは、今でも僕の人生の中心ではあるけれど、何よりも重要というわけではありません」
── よりリラックスして受け止められるようになったということですか?
「試合に負ければ、相変わらず頭にきますよ。ただ、数年前ならそれで1週間は酷い気分で過ごしていたけれど、今はせいぜい2日間で済みます」
── そのようなどん底の経験をする前には、ベンフィカで3年間プレーしていました。世界で最も会員数が多いクラブです。にもかかわらず、あなたはドイツ代表の選考から外れていましたね。
「当時、僕にとって代表はどうでも良かったんです。僕は4番手か5番手ぐらいで、大きな期待も抱いてはいませんでしたから。それに、ポルトガルリーグは欧州の中では比較的小さなリーグという認識も受け入れなければなりませんでした。ポルトガル開催のEURO2004の予選の時に、僕も代表に招集されるかもしれない、とようやく考え始めるようになりました。だから、バルセロナからオファーが来た時にはすぐに受け入れました」
── その頃の数年間、あなたは自身のことをどのように評価していましたか?
「僕自身は、ドイツ代表でプレーできるだけの能力が十分にあると思っていました。でも、当時そんなことを言ったらクレイジーだと思われていたでしょう。EURO2004の前には、僕はテネリフェで控え選手としてベンチに座っていたんですから」
欲していたこと
僕は、競争に身を置く必要はないですね。僕には、信頼が必要です
── ベンチと言えば、EURO2008前のイェンス・レーマンも座っていました。
「レーマンがプレーできたのは、確かにあまり見慣れない状況でした。アーセナルで控え選手でしたからね。でも、彼はEURO予選で、重要なすべての試合でゴールを守っていました。彼が本大会でもゴールを守るのは明らかでしたよ」
── その一方で、レーマンの後を継ぐ選手はまだ決まっていません。クリンスマンは、GKのポジションでは競争が成長の助けになると話しています。本当にそうですか?
「それは、GKのタイプによりますね。競争に身を置いた方が良い選手もいれば、定位置を保証してくれることを好む選手もいます」
── あなたは、どちらのタイプですか?
「僕は、競争に身を置く必要はないですね」
── では、何が必要ですか?
「僕には、信頼が必要です。チームや監督が『お前がゴールを守るのなら、自分たちには大したピンチはやってこない』と感じていることを、僕に伝えてくれることが重要なんです」
── 今の代表での定位置争いでは、どのように過ごしていますか?
「今のところ、定位置争いは起きていません。アドラーか僕のどちらか一方がケガをしていましたから。実際、プレーできる状態の選手は誰もがプレーしたいもの。でも、いつだってお互いに最低限、必要なリスペクトを示し合わなければなりません」
── あなたは、オリバー・カーンとレーマンの確執も見ていますね。そこから、何か得ることがありましたか?
「もしかしたら、彼らは再び復帰してくるかもしれません。どうなるかわからないでしょう?(笑)いや、アドラーと僕はとても友好的な関係を築いています。2人とも、リスペクトがどういうものかを心得ているし、お互いの接し方もよくわかっています。敵対心を公表することは、僕にとっては定位置争いとは何の関係もありません。カーンとレーマンの時代には、不必要な発言が多過ぎました。そうした発言は、彼ら2人にとっても意義のないものばかりでしたからね」
── アドラーを最大のライバルと見ていますか?
「僕らはブンデスリーガで、しっかりとしたパフォーマンスを見せましたからね。レーマンの後釜としてプレーする候補に値すると思っています」
── 代表選手の中には、EURO2008でのアドラーはトレーニング後「常に疲弊していて、限界に達していた」と話す選手もいました。彼はほぼ毎日、フィジオやドクターに治療してもらわなければならなかったそうです。あなたもそう思いますか?
「いや。アドラーがレーマンより厳しいトレーニングを行っていた可能性があるかもしれません。もちろん、トレーニングはそれぞれのコンディションに合わせて調整するものですが。いずれにせよ、僕自身はそれを評価する立場からはかけ離れています」
── あなたとアドラーでは、GKとしてのクオリティの面でどのあたりに違いがありますか?
「違いはもちろんありますが、本当に小さなものです。いくつかの部分ではレネの方が優れているし、他の部分では僕の方が優れていると感じるところもあります」
── では、あなたの前任者であるアンドレアス・ケプケ、カーン、レーマンとの違いは?
「彼らと比べると、僕には足りない部分がありますね。彼らは多くの代表戦を経験しているし、欧州王者や世界王者に輝いている。もし僕が2010年のワールドカップでGKとして活躍してタイトルを獲得できたら、それについてもう一度話をしましょう」
── ケプケ、カーン、レーマンは代表選手としての全盛期を30歳になってから迎えています。代表のGKとして、成熟することはどれほど重要でしょうか?
「成熟することは、もちろん重要です。当然ですよ。僕も、GKとしての理想的な年齢は29歳を過ぎてからだと思っています。一番良い例はエドウィン・ファン・デル・サールです。彼は今38歳になるけれど、いまだに信じられないようなセーブを見せていますからね」
── それはなぜでしょうか?
「年齢を重ねるごとに“見世物”のようなプレーをすることが少なくなります。今では、試合中に僕の仕事が少ない方が良いことだと思えるようになりました。昔は、ゴールに向かってたくさんボールが来れば良いな、と願っていた時期もありました。目立つことができますから。チームが0–2で負けても、僕自身が素晴らしいセーブをできてさえいれば、それで満足だった。今はそんな考え方から大きく変わりましたけどね」
── では、31歳のエンケは、21歳のエンケとどのような点で違っていますか?
「昔は1対1の状況になると、早い段階で地面に滑り込んでいました。FWにとっては、信じられないほど楽だったでしょうね。僕がバルセロナにやって来た時、トップレベルのFWたちが僕の動きをあまりに簡単に読み切ってしまうことに気づきました。僕は、あまりに頻繁に勘に頼って飛び出していたんです。そういう状況では、自分の守備範囲を広げるためにできるだけ長く立ち続けることが重要です。当時、自らが思っていたほどのレベルに達していなかったことに気づかされましたよ」
目指していたこと
僕にとって、初めてのワールドカップです。ベンチに座ることにならないよう、全力を尽くします
── ブンデスリーガに戻って来てから、犯したミスについて思い出せますか?
「僕のミス? ないかな(笑)。もちろん、違った対応をしていれば防げた失点はあったでしょう。でも、誰もが驚くような酷いミスは……(考え込んでから)ああ、僕はなんて優れたGKなんだ!(笑)」
── 言い換えると、GKとしてのミスはないと?
「多くの人々は、最後の決定的な瞬間にシュートのコースが変わっても見逃すことが多いんです。例えば、ボールが目の前で大きくブレたりすることもあります。そういったボールを思わず後ろにこぼしてしまった時には、GKの酷いミスに見える。でも、本当はそうではないんです」
──(代表の)GKコーチのケプケにとっては、とても際どい判断になりそうですね。どちらが優れたGKかを決めなければなりません。
「そういった状況では、ミスに対してどう対応するのかが重要になります。いかに素早く再び試合に集中して、ナーバスにならないようにするかが大事です」
── アドラーは、ケガをしたあなたの代わりに出場しました。そうして、その活躍によってメディアは彼が正GKだと見なすようになりました。
「ケガでプレーできない時は、常に不利な状況で見向きもされません。僕が彼のパフォーマンスについて評価するのは、遠慮しますよ」
── EURO予選のロシア戦の出来についてもですか?
「テレビの実況も、彼のプレーについてはなかなか言葉を見つけられませんでしたからね……。(深く考え込んで)レネは間違いなく素晴らしいプレーをした。でも……彼のプレーについてコメントするのに、適した言葉を見つけるのは難しいです」
── 2年半前のインタビューでは、『何年も経験を積めば、メディアを煙に巻くことも覚えるよ。たくさん喋るけれど、中身はないんだ』と話していますね。
「日刊紙に対してはたいていそうです。本当に思っていることを正直に話すことなんて、あまりない。自分の考えが一般の世論と合致していない時は、直接その人の耳に向けて言いますよ」
── もし、あなたがジャーナリストになったらどんなことを変えますか? 試合直後のインタビューを禁止にしますか?
「それは仕事の一部です。試合直後、僕はほとんど同じことを毎回話しているけど。僕の場合は『幸運な勝利』『妥当な勝利』『幸運な引き分け』『妥当な引き分け』、そして『敗戦』のそれぞれに1フレーズずつ言うことを用意してあるんです。あの場で、深い分析なんてできますか? 僕がジャーナリストなら、選手の発言を正確に引用することを心がけるかな」
── あなたのメディア露出は、カーンのそれとは違うと感じていますか? それはあなたがハノーファーでプレーしていて、バイエルンでプレーしていないからでしょうか?
「たぶん、そうでしょうね」
── 移籍について考えることはありますか?
「ヨアヒム・レーブやケプケからは、移籍を薦めるようなシグナルは送られていませんよ」
── もし、そのようなシグナルが送られたら?
「そうなったら、集中的に考えることになるでしょうね。僕はここハノーファーの人たちに、5年も留まるなんて約束していませんでしたから。それで、今が僕にとって5年目のシーズンです。でも、今のところ他のクラブとのコンタクトはありません。もし、僕が再び(身体的に)健康に戻ったら、それについても考えることになるでしょうね」
── バイエルンのGKコーチを務めているバルター・ユングハウスは、あなたがベンフィカでプレーしていた頃のコーチでした。いまだに連絡は取り合っていますか?
「ああ、あなたは裏道から近づこうというわけですね(笑)。2、3カ月に一度の頻度で連絡を取り合っています。たまにはバイエルンについて話題になることもあるけれど、移籍の話ではありませんよ」
── あなたは31歳です。ドイツ王者になるための時間は、それほど残されていません。
「プロサッカー界の時間の流れは、速い。その通りです。もちろん、僕も上位を争うクラブへの移籍を考える時もありますよ。一度はタイトルを獲得してみたいですしね。ですから、僕はクラブでの目標を毎年、DFBポカールの決勝をベルリンで戦うことに設定しています」
── 2010年の夏には、世界王者になれるかもしれません。
「それまでに、何が起こるかわからないですよ。2カ月前まであったアドバンテージは、なくなってしまいましたから。今はアドラーが有利な状態にある。僕にとってワールドカップまでの時間は、そのアドバンテージを取り戻すためにあるんです。それはとても難しいことだけれど、可能性は残されている」
──『ロベルト・エンケが現代表の正GKで、アドラーは将来の有望選手だ』と言う気はありませんか?
「その“現代表GK”は、手に赤いギプスをはめている。2009年の2月までに、アドラーと僕の間で本格的な定位置争いが起こることを願いますよ。これまで一度もありませんでしたからね。そうした後で、2010年の南アフリカワールドカップではふさわしい活躍をした選手がプレーすべきですね」
── ベンチに座ることを受け入れますか?
「おそらくね。単純に、それは大きな出来事になるだろうから――僕にとって、初めてのワールドカップです。とはいえ、自分がベンチに座ることにならないよう、全力を尽くしますよ」
── それがあなたの“夢”ですか?
「(笑)。そう書きたいのなら、どうぞ。ええ、それが僕の夢です」
Robert ENKE
ロベルト・エンケ(元ドイツ代表)
1977.8.24-2009.11.10(享年32) GK GERMANY
出身はイェーナ。17歳で地元のカール・ツァイス・イェーナとプロ契約を結び、95年11月にトップチームデビューを飾る。ボルシアMG、ベンフィカと順調にステップアップしていったが、02年に移籍したバルセロナでレギュラー争いに敗れたことなどが遠因となり、この時期に初めてうつ病を発症。一時はプレーすらできない状態にまで追い込まれた。しかし、04年に加入した母国のハノーファーで復活を遂げる。06年には最愛の娘の死という悲劇に見舞われるも、それも乗り越え07年に29歳でA代表デビュー。EURO2008後には代表の正GKの座をつかんだ。しかし09年夏、うつ病を再発。同年11月に自ら命を絶った。優秀なGKであるだけでなく、慈善活動や動物愛護を熱心に行い、敵・味方問わず思いやる温かい人柄で知られた人格者の早過ぎた死を多くの人が惜しんだ。
PLAYING CAREER
1995-96 Carl Zeiss Jena
1996-99 Borussia MG
1999-02 Benfica (POR)
2002-03 Barcelona (ESP)
2003 Fenerbahçe (TUR)*
2004 Tenerife (ESP)*
2004-09 Hannover
*on loan
Photos: Bongarts/Getty Images, Getty Images
Translation: Tatsuro Suzuki
Profile
エルフ・フロインデ
「クラブの垣根を超えたファンジン」というアイディアの下、2000年に創刊。ユーモアを交えて文学的、文化的な側面からサッカーを描写。メディアの“演出”から離れたサッカーを伝え続ける、オルターナティブなファンカルチャーマガジンだ。