2006年オシムから始まった「日本オリジナル」を探す旅(前編)
対談『フットボリスタと日本サッカーの10年』前編
川端暁彦(元エル・ゴラッソ編集長)× 浅野賀一(フットボリスタ編集長)
「世界の強さを裸にしてやろう」(創刊号の巻頭言タイトル)。
06年のドイツW杯で日本代表が惨敗した直後に創刊されたフットボリスタは、欧州サッカーを追い続け、いつか追い越すことを宣言してスタートした。あれから10年、日本と世界の距離は縮まったのか――『エル・ゴラッソ』元編集長で国内サッカーのスペシャリスト、川端暁彦氏と、本誌編集長・浅野賀一が日本サッカー10年の歩みを徹底的に語り合った昨年12月号の創刊10周年対談を、日本サッカーの命運が懸かったオーストラリア戦を前に特別掲載。
2006年のフットボリスタ創刊時
浅野 『戦術はこれ以上進化しない。個の時代』と言われていた
川端 『素のままでは無理なんじゃね?』というのはあった
浅野「06年にフットボリスタが創刊されたわけですけど、今回は当時のヨーロッパサッカーと日本サッカーの状況を照らし合わせて話をしていきましょう。06年はドイツW杯に大敗して、オシムが登場したタイミングでした。エポックメイキングだったのが、今までのオフトやトルシエの頃は海外のスタンダードを学ぶというフェーズだったと思うんですが、オシムが初めて『日本サッカーを日本化する』というオリジナルなスタイルを作ることを掲げた監督だったことです」
川端「オシムの影響自体は凄くあってそこは否定しないんですけど、同時に日本サイドからも『世界の追っかけ』に満足できなくなってきている雰囲気もありました。05年に城福浩監督がU-15~17の日本代表監督になるのだけど、彼はまさに『日本人らしいサッカーをやりたい』というコンセプトを出した。ムービングフットボールと彼は言っていましたけど、機動力で勝負するサッカーが日本の生きる道なんじゃないかと。だからオシム就任というのは自然な流れでもあったと思います」
浅野「一方、その頃のヨーロッパサッカーはハッキリとした傾向がなかった。一つ言えるのはモウリーニョのチェルシーが全盛期で凄く強かった。この時期は『もう戦術はこれ以上進化しないんじゃないか』と盛んに言われていたと記憶しているんだけど、その中でロナウジーニョらの『個』がフォーカスされていた。戦術的にはライカールトのバルセロナでハイプレスとポゼッションを組み合わせたようなサッカー、今グアルディオラがやっているスタイルの原型が出てきつつ、モウリーニョのチェルシーに代表されるカウンターで勝つサッカーと拮抗した勝負を繰り広げていた時期でした」
川端「06年のドイツW杯もそういう大会でしたもんね」
浅野「なので、そういうリアリスティックで組織的な守備がフォーカスされていた時代でもあって、だから日本はそことは別の方向に行こうとしていたのかな」
川端「組織守備もそうなんだけど、当時は個の守備、カンナバーロなんかが典型ですけど、新しい戦術的な発想が出てきたというより、とんでもないディフェンダーの個の能力がクローズアップされていたと思います」
浅野「戦術がもうこれ以上発展しないんじゃないかと言われていた中で、逆にこれからは個がフォーカスされるのではという流れは確かにあって、日本人がそこを真似するっていうのは難しいんじゃないかというのもあったかもしれない」
川端「そして個の力で素のまま勝負したジーコジャパンがああいう結果だったので、『素のままでは無理なんじゃね?』というのは、割とみんな腑に落ちていたところはあると思います。あのメンバーがスペシャルな世代というのは認識としてみんな持っていたので」
2008年ペップ・バルセロナ登場~2010年W杯
浅野 支配率勝負で勝つこと。そこで負けると何もできなくなってしまう
川端 日本の育成年代は理解しやすかった。『あ、これ吉田達磨のサッカーだ』と
浅野「だからこそ世界の流れを追うんじゃなくて、日本独自のやり方を考えようとなったと思うんですよ。そうしたら、08年に一気に世界のサッカーの流れが変わる出来事が起こってしまった(笑)。EUROでスペインが優勝して、08-09にグアルディオラがバルセロナの監督になりCL制覇、ここが世界のサッカー史においてもターニングポイントになりました」
川端「支配率勝負みたいな時代でしたよね」
浅野「グアルディオラ以降の流れとして間違いなくあったのが、小兵で技術のある選手をできるだけたくさんピッチに送り出して、支配率勝負で勝つこと。自分たちがボールを持つ前提ですべてを組み立てているから、そこの勝負に負けちゃうと何もできなくなってしまう。あれだけ強かったドイツがEUROやW杯でスペインと戦った時に、何もできないまま相手にボールを持たれてゲームセットですからね」
川端「その頃から日本でも、特に育成年代でスペインのスタイルを真似するチームが増えてきました。これには伏線があって、吉田達磨という良い意味でぶっ飛んだ人がいて、03年に柏レイソルのアカデミーで指導を始めて、その時に彼がまさに後のバルセロナの革命的な考えを持ち込み、大きく流れを変えていきました。なので08年以降のバルセロナブームは、日本の育成年代を見ている人にとって理解しやすかった。『あ、これレイソルのサッカーだ。吉田達磨がやっているやつだ』と」
浅野「アンダーの吉武博文監督はいつでしたっけ?」
川端「吉武さんはその後ですね。彼がU-15~17の監督に就任したのが09年です。ただ、最初はまだ明確にバルセロナスタイルでやっていないんですよ。もちろんポゼッションを意識したサッカーではあったのですけれど、ゼロトップのスタイルになるのは11年です。11年のU-17W杯が始まる年に、これにチャレンジしてみようということで始めます。その11年に次のU-17代表になるU-15代表もすでにスタートしていて、そこはチーム立ち上げと同時にバルセロナスタイルをトライするという形です」
浅野「吉田さんは03年で、吉武さんは09年でしょ。だから必ずしも上辺だけ真似していたってわけじゃなくて、日本人の良さを追求しようという流れの中で出てきたのが吉田さんや吉武さんのサッカーですよね。さらに言えば城福さんの05年のサッカーもゼロトップみたいな感じでしたし」
川端「日本人の中で自然発生的に出てきたアイディアでもあると思いますよ、僕も。日本サッカー全体として意図して取り組んだわけではないですけど、でもそれはスペインも同じでしょう。よく『日本の育成年代はこんなサッカーやってる、クソだ』みたいな話は出ますけれど、そんなにみんな画一的じゃないし、いろいろな指導者がいるわけです。そこはもうちょっと知ってほしいなと思いますね」
浅野「で、本丸のA代表ではオシムさんが病気で急に辞めることになってしまって、07年12月に岡田監督が就任することになったわけですけど、その時に岡田監督も日本オリジナルのスタイルを目指すために『接近・連続・展開』というコンセプトを出した。前に人数をかけることによってそこに密集地帯を作り、それを利用してプレスをかけて、奪ったら素早くオープンスペースに展開していく。結果的にはバルセロナの思想に凄く近い。吉田さんや城福さんなど多くの人が日本人の特徴を出すにはどうすればいいかを試行錯誤して、岡田監督もまさに同じプロセスだと思うんだけど、この時代は図らずも世界のサッカーの最先端のトレンドが日本サッカーが目指す方向性と合致していた時代だったんですよね。ただ、ボールを持つことが前提というのはなかなかハードルが高い。相手がアジアだったらいいけど、世界の強豪国になった時は特に」
川端「ボールを持つ方はできなくもないと思うんですけど、奪い返す方ができないですよね。そこは凄く感じます。最近の日本サッカーでも、やっぱりそこですよね。バルセロナがなんでボールポゼッションを高く維持できたのかと言ったら、失った後すぐに奪い返せるから」
2010年W杯~2014年W杯
浅野 オランダやベルギーにギリギリ勝てるくらいまではいっていた
川端 コンフェデ杯が日本にとってターニングポイントだった
浅野「日本サッカーの中でもいろんな動きがありつつ、その中でバルセロナに近い動きをしていた人たちもいた」
川端「バルセロナに近い動きをしていた人はむしろ多かったでしょう。みんな影響は受けていた」
浅野「ただ、10年W杯は岡田監督が直前になって現実的なサッカーにシフトして、ベスト16という大変立派な結果を残した。ここから最先端のトレンドに合致している日本人選手がどんどん海外に出て行くフェーズになって、香川がドルトムント、内田がシャルケ、長友がチェゼーナからインテル、本田がCSKA、岡崎がシュツットガルト……レギュラーの過半数がヨーロッパの結構いいクラブでプレーしているという、今までには考えられない状況になった。そこで日本代表はザッケローニが監督になってあらためてボールを持つサッカーをしましょうという方向に舵を切ったよね」
川端「舵を切ったのかどうかはちょっと際どくないですか。僕がずっと大きな疑問だったところだけど、ザッケローニがやりたかったのは本当にポゼッションサッカーだったのかなって」
浅野「それはありますよね。ただメンバー選考が攻撃型に偏っていた」
川端「メンバー選考は就任半年後の(11年)アジアカップで固まっちゃった感じありましたからね」
浅野「この頃の世界のサッカーでは何が起きていたかというと、10-11シーズンはグアルディオラが2度目のCL制覇をして、このバルセロナとマンチェスターUの決勝がかなり衝撃的だった。中盤に下がる“偽9番”メッシ、他にも全盛期のシャビとイニエスタがいて本当にまったくボールが取れなくて、マンチェスターUはピッチ上にいないのと同じだった。大人と子供みたいな勝負になっちゃって。ファーガソン監督もショックが大きかったみたいで、ここから方針転換したよね。これは何回やっても勝てないと」
川端「何回やっても勝てないというのはグアルディオラのやり方を象徴する表現で、偶然を排除するサッカーでしたよね。吉武さんもよくそういう話をしていたけど、90分間ボールを支配し続けてロスタイムに1点取って勝つのが究極の理想だと」
浅野「『それって面白い試合なの?』というのはありますよね。ここからはボールポゼッションを守備に使う流れが出てきて、EURO2012のスペイン優勝も10年W杯もそう。めちゃくちゃボールポゼッションは高いんだけど、最終スコアは1-0。ボールを支配することで1チームしかプレーしてない状態にしちゃって、後は最低限の点を取って勝つ。スペイン代表はそれが勝ちパターンだったし、ボールポゼッションさえ取ればほとんど勝てる。なので、ますますボールポゼッションの争いも過熱した。中盤の争いに加勢する“偽9番”も増えたし。バルセロナの試合ではボールポゼッションが80%超えることすらあったからね。相手チームは存在していないも同然。ちょっと異常な状況でした」
川端「その異常さに対してアンチポゼッションみたいな流れが新しく出てくると」
浅野「そう、それが12-13のCLがドイツ勢対決になったんだけど、クロップのドルトムントのゲーゲンプレッシングとか、あと13-14のCL決勝に行ったシメオネのアトレティコ・マドリーもそう。クロップのドルトムントはボールを繋ごうとする相手に前からどんどんプレスをかけて奪ったら早く縦に蹴って、高い位置で再度ボールを奪還すればいいというサッカーでした」
川端「意図的にカオスを作り出すというか、バルセロナのサッカーがカオスを限りなくゼロに近づける方向であるとしたら、その逆ですよね。できるだけカオスを作り出しちゃって、カオスに強い選手を並べることによってそこで勝つみたいな」
浅野「そういった対バルセロナ戦術が洗練され始めてきたのが12年以降。それに対抗するように、ポゼッション派のペップもバイエルンの監督になって両SBをボランチの位置に上げる“偽インテリオール”を使うようになった」
川端「カウンターはまず真ん中を突き抜けるのが究極の理想だけど、じゃあ中央を厚くしてしまおうというアイディアですよね」
浅野「あとはDFラインからのビルドアップの時に前線からハメてくるプレスを回避するための一石二鳥の方法ですよね。だからポゼッション側も対ポゼッションの戦術が洗練されてくる対策を練っていたのが12年~14年くらいの頃」
川端「アンチアンチポゼッションみたいな(笑)」
浅野「そう。あえて言えば、ザッケローニのサッカーはその流れにちょっと遅れたかなっていうのはあったかもしれない。ただ、代表シーンでそこまで進んでいるチームはなかったけど。結局14年W杯で優勝したドイツは今までこだわってきたゲーゲンプレッシングを封印して、SBも本来CBのヘベデスを使う方向に直前で転換したし、ベルギーもカウンターサッカーで結果を残した。そういう現実路線で戦ったチームの方が14年W杯は結果が良かったんですよね」
川端「他ならぬバルセロナの原型であるオランダがカウンターサッカーですからね。オランダにそういう決断をさせたのは、日本がオランダ相手にそこそこやれちゃったせいという話もありますよね。『これはダメだ』と思ったんじゃないか、と」
浅野「結構衝撃だったみたいですよ、オランダでは」
川端「日本相手にこの体たらくでは、『俺たちこのサッカーでは無理じゃね?』というのは納得感としてあった」
浅野「当時の代表チームは攻めることを前提に組み立てている国が多くて、ポゼッションを握るか握られるかの戦いが代表シーンではずっと続いていた。14年W杯の直前までそうでした。ドイツはゲッツェの“偽9番”にこだわっていたし。そういうポゼッションに向いた攻撃的な選手を多数起用してポゼッションで勝負するというサッカーは代表シーンではずっとトレンドとしてあって、日本もそこの勝負の土俵に乗っていて、結構オランダやベルギークラスでもギリギリ勝てるんじゃないかくらいのところまではいっていた」
川端「そうだね、だから13年のコンフェデ杯が日本にとってターニングポイントだったとは思うんだけど、あれをポジティブに評価するのか、このままだと本番は厳しいぞと判断するのか、そこの差はあったのかなと」
浅野「イタリアもね、ちょうどポゼッションに転換してる頃で」
川端「で、イタリアに勝てそうなゲームをしたっていうその経験、ただ、『あの守備じゃ無理でしょ』と思ったかどうかは凄く気になりますね」
浅野「イタリアもそうだし、他の代表チームも『総ポゼッション化』しようとしてたんですよね、あの頃って。だからイタリアも『このままじゃヤバい』ってことでプランデッリを監督にして、ポゼッションサッカーへ舵を切ったんだけど、そこで日本と対戦して、日本にポゼッションで負けてしまいましたみたいな(笑)。それじゃあまずいですよね」
川端「まずいし、当時は日本の方がポゼッションに関してはイタリアより一日の長があったのかもしれない」
浅野「ただ、そこからクラブシーンは先に変化してたし、代表シーンも変わりつつあったのが14年のW杯だったのかなと。結構はっきりと対ポゼッションの守備の進化を感じました」
川端「シメオネのアトレティコが13-14の決勝に進んだことが各国の代表監督を刺激させるものがあったんじゃないかな。ザッケローニについて僕はそこまで『ポゼッションサッカーで勝つ』というイメージは持ってなかったんじゃないかと思いますね。ずっと彼は『もっと縦に速く攻めろ』と話していたし、ただ選手側がバルセロナを目指したいという想いが強かった」
浅野「あれは単なるトレンドだけじゃなくて、日本人の良さを追求する中で自発的に出てきたスタイルでもあったわけじゃないですか。だからこだわりは強いですよね」
川端「やっぱり憧れるものがあったんだろうな。大多数の日本人にとって」
浅野「ああいう結果に終わったのはいろんな要因があったと思う。まずコンディション調整に失敗したとかね」
川端「単純にブラジルが暑かったっていうのもある」
浅野「同じサッカーをごり押ししたスペインも沈みましたからね。まさにオランダのカウンターサッカーにやられて、チリの前からどんどんプレスに来るようなサッカーにもやられて、2戦でジ・エンド」
川端「方針転換したイタリアも然りだよね」
浅野「ポゼッションに鞍替えしたイタリアもGS敗退。だから、そこのトレンドに日本代表も乗っているんだよね」
川端「負ける側のトレンドに乗っちゃったのは否めない(苦笑)」
浅野「もちろんコンディションの問題はあったし、それが良かったらどういうサッカーをしていたかは気になるけど、ただ他の代表チームの結果を見る限りだと相当厳しかった。結果的にザッケローニがどこを目指していたかはわからないけど」
川端「ボールを持って勝つという方向性自体はなかなか厳しい大会だった」
浅野「それは日本に限らずそうだった。なので反省として、一つのサッカースタイルだけだとなかなか難しいよねというのは、僕も終わった後の総括で書きました」
川端「だからザッケローニが本当にやりたかったのはそっちなのかなとも思っていて」
浅野「[3-4-3]とか他のオプションもテストしてきたもんね」
川端「そうそう。だからドルトムントとバルセロナのいいとこ取りじゃないけど、そういうイメージを彼は本当のところ持っていたけど、結局選手側がそっちじゃないってなったんで、良くも悪くもザックはそこで選手を尊重する監督だったのだろうなと」
浅野「縦に速いインテンシティを上げるドルトムント的なサッカーと、テンポを下げてゲームをコントロールするバルセロナ的サッカーのバランスを見出せなかったですよね。ザックがインテンシティを強調していたから、余計ややこしかった」
川端「ザックはもっと激しく速くという方向性をやりたかったんだと思いますけどね」
浅野「それこそ日本人に向いてると思っていただろうし」
川端「日本人の献身性と持久力の部分を評価してたからね」
浅野「だからビエルサみたいなサッカーなんだろうね。チリがやっていたようなサッカー」
川端「そこはもうわからない。推測はできるけど、そうなのかなって」
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Akihiko Kawabata
川端暁彦
1979年8月7日生まれ。大分県中津市出身。フリーライターとして取材活動を始め、2004年10月に創刊したサッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』の創刊事業に参画。創刊後は同紙の記者、編集者として活動し、2010年からは3年にわたって編集長を務めた。2013年8月からフリーランスとしての活動を再開。古巣の『エル・ゴラッソ』を始め、各種媒体にライターとして寄稿する他、フリーの編集者としての活動も行っている。2014年3月に『Jの新人』(東邦出版)を刊行。
Photos: Getty Images
Profile
浅野 賀一
1980年、北海道釧路市生まれ。3年半のサラリーマン生活を経て、2005年からフリーランス活動を開始。2006年10月から海外サッカー専門誌『footballista』の創刊メンバーとして加わり、2015年8月から編集長を務める。西部謙司氏との共著に『戦術に関してはこの本が最高峰』(東邦出版)がある。