新世代コーチ、林舞輝の挑戦。前例なき23歳GMの誕生秘話
【新生・奈良クラブが目指す「サッカー」と「学び」の融合 Chapter 3】林舞輝(奈良クラブGM)インタビュー 前編
英国チャールトンのアカデミーコーチを経て、2017年より指導者養成の名門ポルト大の大学院に在籍しながらポルトガル1部ボアビスタのBチーム(U-22)のアシスタントコーチを務めた林舞輝。欧州の最先端で学んできた23歳が“就職先”に選んだのは、奈良クラブのGM(ゼネラルマネージャー)だった。前例のない挑戦に至った背景、これからの展望を前・後編に分けてお届けする。
『商店が僕に? 何ですか、それ?』
―― そもそもの話をまず教えてほしいのだけれど、どうして奈良クラブでやることになったのでしょうか?
「もともと『そもそも』と話すほどに深い縁があったわけではなく、僕にとっても突然の話でした。『中川政七商店の中川さんが連絡先を知りたがっているのだけれど、教えてもいいですか?』という問い合わせが来まして、恥ずかしながら何も知らなかったので『商店が僕に? 何ですか、何の用ですか、それ?』という感じでした。中川政七商店を検索してみて、『ついに僕にもファッションモデルの話が来たのかな?』と思いましたね(笑)」
―― まあ、それはあり得ないわけで、サッカーの話でした。
「そうですね。ただ、その時は中川さんが奈良クラブの社長になるという話は特になく、ただ奈良クラブに関わっていく予定で、また帰国した時に話をさせてくださいというくらいでした。で、帰国してからあらためて矢部さんと玉田さんも交えて話してみたら、『君に奈良クラブのサッカー部門を任せたい』と」
―― また唐突に。
「何らかのオファーをしていただけるのかなとは思っていたので、例えば育成のアドバイザーとかそういうことかな、と。あるいは大きな可能性でもアカデミーダイレクターとかかな、と。しかし、サッカー部門の責任者ということで、想像していたよりもずっと大きな話で……。本当にビックリしましたね」
―― じゃあ、二つ返事でOK、と?
「いや、そうではなかったです。他からもいくつか声をかけていただいていたので、その方たちとしっかり話す前に『やります』というのはフェアじゃないですから。二つ返事したい気持ちもありますけれど、他にオファーをいただいている方たちの話を聞く前に承諾してしまうのはフェアじゃないので、ちょっと待ってくださいと、そこは素直にそう伝えました。中川さんにはそういう態度を逆に気に入っていただけたみたいです」
「タイヤ」ではなく「エンジン」になる
―― つまり選択肢がある中で奈良クラブを選んだわけですよね。どうしてですか?
「大きな理由は2つありました。やっぱり中川さん、矢部さんと話をさせてもらう中で『この奈良クラブが一番僕を必要としてくれているクラブだ』という感覚があって……。だって、23歳にクラブのサッカー部門を託したいなんて普通は考えないじゃないですか。しかも奈良クラブがここまで来るまでにどんな苦労があって、どんな思いでこのオファーに至ったのかをうかがって……。もう話を聞きながら鳥肌立ちっぱなしで。ポルトガルに残る可能性もありましたし、日本国内でいただいた話も本当にありがたいものだったんですけれど、でも奈良クラブの『林舞輝が必要だ』という思いがきっと世界で一番だ、と。JFLのクラブだからとか、そういうのは全然関係なかったですね」
―― 林舞輝だからやれることが奈良にある、と?
「そうです。よく『やりたいことをやりなさい』とか言うじゃないですか。でも僕ってやりたいことが本当にたくさんある人なので(笑)。ポルトガルのボアビスタで指導できたのもホントに凄い経験で続けたかったですし、日本でJクラブのアカデミーの指導もやってみたいと思いましたし、フィジカルコーチとしてやってみるのもいいなと思ったことありますし、川端さんが高校サッカーの現場に連れて行ってくれた時に『高校サッカーいいな! ここで指導してみたい』とも思いました。フットボリスタで記事を書かかせていただいていることも、凄く刺激的で楽しくて……。もう僕がTwitterで発信を始める前には考えられないことばかりですよね。ちょっと前まで僕がやりたかったのは英語の先生とカステラカフェだったんですよ(笑)」
――(だから太ったのか? と思いつつ)なるほど。
「だから、自分にとっては『自分がやりたいことをできる』ことよりも『自分ができることをすべてできる』方が大事だったんです。やりたいことはたくさんあっても、自分が今できることを全部やり切ろう、出し切ろうと思ったら、その場は奈良クラブなんじゃないかな、と。コーチング以外で僕が学んだ栄養学や心理学、コンディショニング理論、トレーニング理論、リハビリなんかの知識や経験もすべて活かしたい。でも、例えばJクラブのアカデミーでコーチをやっているというのでは、そうしたモノを使い切れないし、できることをやり切れないんじゃないかなと思ったんです。それこそU-13のコーチになって、その年代で僕だけ一人で戦術的ピリオダイゼーションやりましたとかいっても、何の意味もないじゃないですか(笑)。自己満足になっちゃうのは嫌でしたし、今自分ができることをやり切りたかったんです」
―― だから奈良クラブなんですね。
「自分の5、6年の間にヨーロッパで養ってきたことを全部やり切れる、ぶつけられるところなのかなと思って決断しました。それでダメなら、もうサッカー界から引退するだけです。サッカーに関することを全部任せてもらえる場所となれば、何一つ言い訳できないということですから。ここでうまくいかなかったらもう確実に次はないです。そういう意味で、奈良クラブが僕に未来を託してくれたのと同じように、僕も自分のサッカー人としてのキャリアをすべて奈良クラブに託しました」
―― 意地悪な言い方ですが、日本で指導者としての出世を図るなら、Jクラブのアカデミーから叩き上げていく方が近道だったかもしれませんよ。
「そうかもしれません。本当にありがたい話をいただいていたということもわかっています。ただ、そういう意味で僕は一つのことへのこだわりが薄かったのかもしれません。いろいろやりたいことは見つかりましたが、『絶対にフィジカルコーチをやりたい』とか『絶対に子供たちを教えて過ごしたい』とか、そういう強い気持ちになり切れなかった。そしてここで日本へ帰ってJクラブのアカデミーコーチとして指導の現場に入っていくとなると、『サッカーだけの人』になってしまうのかなという怖さもありました。すごく楽しそうだな、きっと充実する毎日を送れるだろうなとは思ったのですが、このままじゃ自分はどんどんサッカーだけの人間になっていく、本当にそれでいいのかなという気持ちもあって……」
―― その上で奈良クラブのGMを選んだわけですね。
「今の奈良クラブのGMとなれば、絶対に自分が触れてこなかったような世界も拡がると思いますし、自分の可能性を広げられると思ったんです。矢部さんの話をうかがって、ここまでの奈良クラブの歩みについて学ばせてもらって、『このクラブを自分が引き継いでいいのか!?』というプレッシャーも感じましたけれど、でもだからこそ、やってみたい、と。本当に矢部さんがゼロから作ってきたクラブで、僕には想像もできないような努力や忍耐があって、理不尽な目にもあう中でそれでも立ち向かって、乗り越えて今を作ってきたクラブなんです。それに加えて中川社長のブランディングやビジネスの才覚と人を巻き込んでいく力も肌で感じさせられる中で、ここならサッカー以外のこともたくさん学べる、サッカー人として以上に人として学ぶことがたくさんある、だからここで挑戦したいという気持ちが先に来ましたね。だって、サッカーに関わりながらも、ビジネスや経営についてド素人の23歳が中川さんと同じ土俵で働けるんですよ?『絶対にこれをやってみたい』という強い気持ちを持ち切れていなかった僕に、それを持たせてくれたのが奈良クラブからのオファーだったんです。これを断ったら絶対に後悔するぞ、と」
―― JFLというカテゴリーに抵抗はなかったですか?
「いや、それはまったくないですね。むしろ、自分のできることを全部やれると感じられたのはそういうカテゴリーのクラブだからというのもあったと思います。これがJリーグの大きなクラブだったら、どんな肩書きがあろうと、社長がどう言おうと、外から来た23歳の僕のやりたいようにはできるはずもないということはさすがに想像できます(笑)」
―― いろいろな意味で前例のないパターンですよね。
「ヨーロッパで学んできた人がJクラブに就職するということ自体はこれまでも普通にありますよね。ただ、どうしても回されるタイヤの側になっているという印象もありました。ロアッソ熊本の北嶋秀朗さんとお話させていただく機会があった時に、『そうではなく、回すエンジンの方になってほしい』という話もされまして、そういう意味でも価値のある挑戦なのかなと思っています」
23歳のGM、最初の仕事は「監督探し」
―― 海外とか関係なしに、そもそも『23歳のGM』ということ自体に困難は感じませんでした?
「いや、そこも想像しようと思ってはみたものの、まったく前例がないですよね。だから難しいのかどうかもわからないですよね(笑)」
―― 確かに(笑)。
「例えば、23~25歳のGMが過去にもいて、選手から舐められまくって失敗していますとかいう前例がいくつもあるということなら断っていたかもしれないですね(笑)。でも誰もやったことないなら、怖がりようもないですよ。どうなるんだろう? という疑問はありますが(笑)、不安というのとは少し違いますね」
―― その覚悟が決まっているとなると、次なる疑問は一つ。「林舞輝にGMとしての才能はあるのか?」ということですね。
「その疑問は当然ですよね。何の実績もないわけですから。だから自分の最初の仕事は、GMとして最も重要な仕事の一つである『監督探し』ということになりました。その仕事によって自分で自分を試す気持ちでしたね。ただ、そうなると当然、『23歳の若造である林舞輝の存在を受け入れて一緒にやってくれる監督なんているのかな?』という話にもなるわけですよね。だから僕は『時間をください。探します』と回答しました。これで探せないようなら自分のGMとしての才能はないと思いつつ、死ぬ気で探すことになりました」
―― 体制としては林さんもベンチに入って直接の指導もする感じなんですよね。監督の上のGMとしてやりながら、監督の下の補佐役も務める?
「そういうことですね。ピッチの外ではGMが上ということになりますし、クラブのサッカー部門に関する最終決定権は僕が持ちます。一方、ピッチの中では逆に選手起用や戦術、練習メニューなどの最終決定権はあくまで監督です。そこの意思決定権を託せると思った人を連れてきているのだから、それは当然ですね。僕はあくまで助言役としている形になりますし、僕が欧州で学んできたトレーニング理論やスポーツ科学の知識などもそういう形で活かせればと思っています。逆に監督にもGM補佐のような形で強化部門にも関わってもらおうという話はしています。ここは完全に意思統一されてなければならないですし、そもそも小さなクラブなので、総力戦の体制ですね」
―― ややこしくならないですか?
「まあ、周りから見ればややこしい感じになるのかもしれないですね。でも中でちゃんと回っていればいいと思っています。選手にもコーチングスタッフにも、万が一ピッチの中で監督と僕が違うことを言ったら必ず監督の方を聞いてくれ、僕の言うことは全部無視していい。とハッキリ伝えるつもりです。僕がピッチの中で監督と違ったことを言うことは絶対ないとは思うのですが、選手にもスタッフにもそこはクリアに理解してもらいたいので」
―― 逆に言うと、その体制でやれそうな監督を選んできたということですよね。
「まさにそういう人を探すところがポイントだと思います。『23歳のGM』を許容できて、なおかつ現場にタッチすることも許してもらえる人ですね。そして、僕が作っている奈良クラブのゲームモデルに合うようなサッカーを実践でき、それを一緒に作り上げられるような監督」
―― 年齢関係なく他人から学ぼうとするような人じゃないと難しいですね、それは。
「だからそこに関しては、僕のGMとしての最初の仕事にして、最大の仕事だと思って取り組みました。そこをすべて話した上で『ぜひ一緒にやろう』と言ってくれたので、問題はないと思っています。Jクラブからもオファーがある中で、こんな若造がGMをやる奈良を選んでくれた方なので」
―― 交渉事はどうでしたか? 当然、間に入る人もいるだろうし、一筋縄ではなかったと思いますが。
「いやまあ、確かに大変だぞとは思いましたけれど、でも決まったので大丈夫だったかな、と(笑)。僕は駆け引きとかもわからないですし、率直に話をさせてもらっただけですしね。そこでまた『23歳でこれだけの経験をさせてもらえる』ということも、奈良クラブに対してあらためてありがたいと思ったのも確かですね。これはボアビスタでいくらやっていてもわからないことですしね」
―― コーチングスタッフはどうするんですか?
「監督に一人連れてきてもらうことになっています。これは、コーチングスタッフの層を厚くすることに加えて、必ず自分の味方になってくれる人がいれば監督も新しい環境で仕事をする上で心強いと思うからです。僕の役割は監督、選手、コーチングスタッフ、全員がなるべく気持ち良く働ける環境を作ることでもありますので。奈良クラブにいる今のメンバーは全員残ってほしいと思っています。アカデミーのスタッフについてもそうですね」
―― 誰か連れてくるのかと思っていました。
「いや、1年目は僕が奈良クラブに適応するターンだと思っています。ここまで奈良クラブが歩んできた中で、パッと来た男が何もちゃんと見ないうちから『あなたはいらない』などと誰かを切ったりはできないでしょうし、外からたくさん人を連れてくるなどは、やるべきでもないと思います。まず1年やってみたいと思っています。僕は一人で何か革命を起こそうとか、破壊してやろうとか思って奈良に行くわけじゃないですから。もちろん非情にやらないといけない時があるのもわかっていますが、ろくに何も見てもいない、理解していないうちにやるのは違うだろうと思っています。だから最初の1年は、まず僕が奈良クラブに適応するべきなんです」
―― 性急にやるつもりはない、と。
「これは僕が奈良クラブのGMになると聞いたユベントスのアカデミーダイレクターから言われたことなんですが、『焦るな。急ぐな』と。『焦って土を盛って、土台のゆるい家を建ててもすぐに倒壊するだけだ。3カ月で建てられるような家はプレハブしかないぞ』と。彼はユベントスのアカデミーを本当に抜本から改革した方でして、何しろユベントスのアカデミースタッフの部屋にクライフのユニフォームが飾られるぐらいの改革をしたんです(笑)。ただ、その彼にしても、急いで全部を変えるんじゃなくて、徐々に変えていったんだという話で、『だから急ぐな』と言われたことは肝に銘じておきたいなと思っています。もちろん1年目は何もしないと言っているわけではなく、変えられるところを見つけたらどんどん変えていくし、どんどん良くしていきたい。そのために僕が呼ばれたわけですから。ただ、同時に何を変えるか以上にどう変えるかの見極めを大事にしていきたいと思っています」
―― それは金言をもらいましたね。ただ、性急に破壊するつもりはなくとも、新しくやりたいことも多々あるのかなと思います。後編では、奈良クラブで考えている具体的施策について聞いていければと思います。
「それはもう、いろいろと考えています。もう考え過ぎています(笑)。これに関してはしゃべり出したら止まらない気がしています(笑)」
――それでは、強い気持ちで期待しておきます(笑)。
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Photos: Michio Katano
Profile
川端 暁彦
1979年8月7日生まれ。大分県中津市出身。フリーライターとして取材活動を始め、2004年10月に創刊したサッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』の創刊事業に参画。創刊後は同紙の記者、編集者として活動し、2010年からは3年にわたって編集長を務めた。2013年8月からフリーランスとしての活動を再開。古巣『エル・ゴラッソ』を始め各種媒体にライターとして寄稿する他、フリーの編集者としての活動も行っている。著書に『Jの新人』(東邦出版)。