創業300年の中川政七商店十三代。奈良の改革に挑む「工芸界の救世主」
【新生・奈良クラブが目指す「サッカー」と「学び」の融合 Chapter 1】中川政七(奈良クラブ社長)インタビュー 前編
新生・奈良クラブ構想の中心人物は、創業300年の中川政七商店に工芸業界初となる製造小売業態(SPA)を導入し、業界の発想を根本から変えた十三代・中川政七だ。「工芸界の救世主」と言われる男が、なぜサッカー界に参入したのか? そこには彼のライフワークとも言える「奈良」と「教育」というキーワードがあった。
工芸界の危機。「街づくり」に挑む理由
―― 今回のインタビューのテーマは『新生・奈良クラブが目指す未来』です。まず、中川さんと奈良クラブの関わりから教えてください。
「(NPO法人奈良クラブ理事長の)矢部さんと最初に会った2010年のW杯が始まりですね。南アフリカW杯初戦のカメルーン戦、あの日に初めて会ったんです。地元なので存在は知っていたんですけれど、なんか若くてちょっと男前な元Jリーガーだからチャラついているに違いないと思って近づいていませんでした(笑)。そんな中である人が会わせたいということで、一緒にご飯に行って。ただ、その人がサッカーに全然興味のない人なのでW杯の大切な日本戦の日に会食を入れられて、矢部さんも僕も気が気じゃなくて、早く試合を見たいと思って(笑)」
―― それはそうですよね。運命の日本戦なので(笑)。
「それで会食が早めに終わって、じゃあ一緒に試合見ますか、ということで奈良のスポーツバーに行ったのが最初ですね。当然W杯初戦だから集中して静かに座って見ていたら、矢部さんも横で静かに座ってボソボソと解説してくれて。前半にボールが繋がらなかったんですけど、これは別にいいって言って。長いのを蹴って、まずこうやって試合を落ち着かせていくんだ、みたいな。それがすごく楽しくて。プロの解説を聞きながらW杯の初戦を見られるなんて」
―― 贅沢な機会ですよね。
「これは最高だなと思って、そこから仲良くなりました。それで話を聞くと、当時の奈良クラブ(関西1部リーグ)の状況は、矢部さんが選手兼監督兼GM兼経営みたいな状態で、これはもう無理だなと。だから手伝えるところはアドバイスレベルで手伝うよと言って経営のアドバイスとか、事務所の場所を貸したりしていました。あとブランディングは専門なのでお手伝いできるから、奈良クラブのブランドマネジャーという肩書きの名刺をもらって活動していました。具体的にはユニフォームのデザインですね。当時サッカーチームのユニフォームは、デザインでマッピングすると一部に固まっているんですね。で、それはちょっと面白い状況だなと、『他が全部空いてるやん』と思って。だから他と同じことをしても仕方がないから、違うアプローチの立ち位置を示せればそれだけで際立ちますよね。奈良クラブってガンバ大阪みたいにマスコットになりそうなデザインや言葉がないから、もう奈良しかないわけですよ。だから奈良をリソースに何かを表現しようと考えて、奈良伝統正倉院文様を思いついて、じゃあ正倉院とか奈良の伝統文様からユニフォームデザインを考えようと思って初年度作ったのが2011年の蔦唐草デザインだったんですね」
―― かなり話題になったアレですね(笑)。
「でも最初は矢部さんをはじめ選手たちからは本当にブーイングで。こんなの着たくない、これ本当に着なくちゃいけないんですか?みたいな感じだったんですけど、『まあまあまあ』と無理矢理着させて。で、2年目が霰小紋という水玉の大きさがランダムにあるカラフルなやつにしました。これがまた賛否両論がすごく沸き起こって、Twitterのトレンドワードに入るくらいでした。『寝巻きかよ!』みたいなツッコミもあり(笑)。すごい大激論になったんです。結果、これ誰がやってんだみたいなことになって『犯人はアイツか!』みたいな流れになりましたね。でも結果的には翌年から奈良クラブのユニフォーム発表はめちゃくちゃ注目されるようになりました」
―― さすがですね(笑)。
「ただ最近は慣れてしまったのか、賛否の『否』が少なくなっちゃって。そういう意味では最大の盛り上がりは2年目でしたね。そういったお付き合いがずっと続いてきた中で、JFLに無事に上がり、でもそこで苦しんでいるのを横で見ていて、ちょっといろんな意味で限界だろうなと。それと僕自身も次のステップに行きたいという想いがありました。キーワードとしては『奈良』と『教育』を考えていて、新しい事業を始めようと思った時に転職先として奈良クラブはありだなと」
―― それは本業の中川政七商店の文脈と繋がってくる話ですよね。サッカーファンのためにあらためて中川政七商店について説明してもらっていいでしょうか?
「コンパクトに言うと、創業から300年の老舗で、もともとは奈良で奈良晒と呼ばれた麻織物を扱う問屋業から始まりました。ここ20年で自分たちのお店を持つようになって、今では全国55店舗あります。工芸をベースにしたSPA(小売業が製造の分野まで踏み込み、自社のオリジナル商品の開発を行い、自社で販売する方法)モデルがこの世界にはない中で、それを導入することで生き抜いてきたんですね。工芸業界はもうピーク時の5分の1まで落ち込んでいて、本当にモノが作れなくなってきているんですね。僕らも何百という職人さん、工房さんが後ろにいるんだけど、それがどんどん潰れていく。『なんとかしなきゃ』ということで、2008年から『日本の工芸を元気にする!』というビジョンを掲げてコンサル事業も始めて、他メーカーの再生を含めてやってきました」
―― 十三代社長の中川さんの代で売上高を10倍以上にして、工芸界の救世主としてTV含め多数のメディアに出演されていますよね。
「大きなビジョンを掲げた以上、やり切らないといけないですから。工芸を元気にするという中で、産地というのが1つの単位としてあるんですね。モノを作るのって結構分業になっていて、ある工程がなくなると産地が崩壊するんです。だから産地を守るためには垂直統合しなきゃいけない。でも、この儲からない世界で誰が垂直統合の投資をしますかと。なかなか難しい中で、じゃあ垂直統合の投資を意味あるものにするための何か、そこを結びつけるアイディアがいるなと思って、そこで出てきたのが産業観光だったんです。要は一番伝統工芸の価値が伝わるのは直接見てもらうことなんです。今までだとそこが見させられる状況にないから、誰にも見てもらえなかった。それをみんなが見られるように平屋の建物に統合していくと、見てもらえるようになりますよね。ただそうなると、その産地まで人を引っ張り込まなきゃいけないけど、モノづくりだけでは観光客は来てくれないので、まずホテルなどの宿泊先が必要になってきます。さらに地元の野菜を使ったレストランとか特色のあるイベントがないと人がそこへ行く動機を作れないですし、そういうことをひっくるめて都市としての魅力を上げていかなければ、人は引っ張り込めない」
―― もはや街づくりですよね。
「そうです。街づくりをやらなきゃいけないって言い出したんですね。そのために日本工芸産地協会という、産地単位で考えていかないと滅びるよというのを啓蒙する団体も作りました。僕は言い出しっぺなのでまずは自分でやって見せなきゃいけないから、2016年の襲名式の後に『これから10年は奈良をやります。奈良という街のブランド化に本気で取り組みます』と宣言をしたんですよね。だから奈良がキーワードなんです」
―― なんとなく繋がってきましたね。
「結局奈良にいいコンテンツがいっぱいあれば、奈良の街は自然とブランディングされていくんですけど、じゃあ誰が良いコンテンツを作るかという問題があるわけで。その誰かを育てないと、全部中川政七商店の系列にしても面白い街にならないじゃないですか。そういう人づくりが必要という観点から『教育』がもう1つのキーワードだなと。実際に工芸でもいろんな産地で半年間の講座をやらしてもらっていて、これはサッカーにも繋がるんですけど、経営者とクリエイティブ系の人の両方がうちの講座には来るんです。なぜ両方を呼ぶかと言うと、共通言語を作りたいからです。デザイナーはデザイナーの言葉をしゃべり、経営者は経営者の言葉をしゃべっていて、これ同じ日本語なんですけど通じていないんですよ。だから産地でのブランディングが全然上手くいかないという事例がいっぱいある。そのやり方を整理しつつ体系化して共通言語にするというのを半年間やってるんですね。そこで学んだ経営者とクリエイティブは同じ言葉がしゃべれるし、同じやり方を身につけているから話が早い。
これと同じことをサッカーの文脈でもやりたいです。サッカーというものの体系を解き明かし、共通言語にして、選手とマネジメント側がやっていく。それは選手と監督もそうだし、サッカーの現場とマネジメントもそう。共通言語を作りながら、大きなビジョンのもとに進めていく。サッカーチームはサッカーの強さだけを競っていると思われていて、マネジメントは縁の下の力持ちという認識が主流ですよね。マネジメントは現場が活動するための資金を確保するだけの人、いわゆるバックオフィスみたいな立ち位置ですよね。でも本来はそうじゃないはずです。この関係だと両者が本当の意味で絡んでいないんです」
―― 今、ヨーロッパサッカーは極端な話リーグが開幕する前に優勝クラブが決まっている状態です。よほどのことがない限り、セリエAはユベントス、リーグ1はPSGが勝つでしょう。バイエルンは“よほどのこと”が起こっていますが(笑)。要はピッチ上の勝負の前にバックオフィスの時点で勝敗が決まってしまっているんです。もちろん、マネジメントと現場の方針が乖離すれば巨大戦力を抱えていても空中分解してしまいますが。
「そこは両輪だと僕は思っていて、僕らの世界で言うとモノづくりとマネジメントが完全に分離することはあり得ない話ですから。今回の取り組みの最大の目標は、ちゃんとビジョンを掲げて、そのビジョンのもとに現場とマネジメントが両輪としてちゃんと機能していく、普通の会社で当たり前にやらないといけないことをやり切ることです」
『サッカーを変える、人を変える、奈良を変える』
―― その奈良クラブ構想の具体的な話に移りましょう。「日本の工芸を元気にする!」というのが本業のビジョンですが、奈良クラブのビジョンは?
「『サッカーを変える、人を変える、奈良を変える』を掲げます。『変える』がキーワードで、それを分解していくと、変わるには変わり方を学ばなければいけない。だから1つは『学び』なわけですね。もう1つは学んでできるようになったら、100人いて100人変われますかと言ったらやっぱり変われない。それはやっぱり怖いから。変わるには勇気が必要なんです。だから『変わる』の分解は、『学び』+『勇気』。だから奈良クラブの目標は、自分たちの活動を通じて学びの型と一歩踏み出す勇気を体現していくこと。そして、それが多くの人に波及して街が変わっていくことが、奈良クラブがやるべきことだと思うんですね。だからサッカーが起点にはなるけれども、結局は今の選手が今できないことができるようになって、勇気を持ってやれるようになっていくことを通じて、多くの人に影響を与え、ゆくゆくは奈良という街が変わっていくところまで広がっていくきっかけになりたいっていうことですね」
―― 先ほどマネジメントと現場が共通の言語で話せていないとおっしゃっていましたが、奈良クラブではそこをどう変えていこうと考えていますか?
「例えばサッカークラブは午前中練習で午後はフリー。フリーって何なん?と。日本のサッカーを背負って立つと期待されている人間が、午後は何も教えてもらっていない。そこを疑ってみることも必要なんじゃないでしょうか。本来もっと教えることがあるはずで、でもそれが体系化されてないし、教えることがないからフリーになる。だから教えるべきことをちゃんと体系化しなきゃいけない。体系的にまず全体を理解する、まず森を見るから始まって枝葉の葉っぱがあるわけですよね。それって当たり前なんですよ、学ぶことに関しては。でもなぜかそれがスポーツになると、そういうことがすっ飛ばされていきなり枝葉の話になるけど、それじゃあ学びのスピードが遅いと思うんですよね。
僕は素人ですけど、海外でサッカーを学んでいる人は日本のサッカーは今戦術的に世界から遅れていると言っています。だったら、そこを埋めていくことが絶対に必要。それって新しい学びじゃないですか。学びの型の中でまず一番最初にやらないといけないのは、体系化するってことなんです。1から100のトレンドがあったとしても、それが1から100バラバラにあっても意味がない。それだけでは覚えられないし、何も学べない。そこに体系があって初めて頭に入っていくんです。そして、理解の先にピッチ上での体現があるので、理解なくしてピッチ上での体現はないわけですよ。だから1番最初に座学的なことが必要だと思うんですよね。でも座学するにも頭の中に体系がないコーチだとしゃべれない。試合を見てその場で思いついたことはしゃべれるけど、体系立てて説明ができない。そのサッカーにおける体系をまず作らないといけなくて、だから林舞輝を呼んできました」
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Photos: Yoshie Torikai
Edition: Baku Horimoto
Profile
浅野 賀一
1980年、北海道釧路市生まれ。3年半のサラリーマン生活を経て、2005年からフリーランス活動を開始。2006年10月から海外サッカー専門誌『footballista』の創刊メンバーとして加わり、2015年8月から編集長を務める。西部謙司氏との共著に『戦術に関してはこの本が最高峰』(東邦出版)がある。