『もっと来いよ、若者よ』のマインドを携えた41歳。サガン鳥栖・岡本昌弘が『チームのために』を続けてきた23年間の軌跡
【特集】チームを陰から支えるベテランGKの矜持#4
岡本昌弘(サガン鳥栖)
GKは1人しかピッチに立つことができない特殊なポジションだ。注目されるのは、ピッチ上で輝く正守護神。それ以外のGKたちにスポットライトが当たることは少ない。1つのクラブにすべてを捧げ続けてきた者、数多くのクラブを渡り歩いた経験を持つ者、常に上を目指し続ける向上心を忘れない者……チームを陰から支えるベテランGKの矜持をぜひ知ってほしい。
第4回は、サガン鳥栖の最年長選手としてチームを盛り立てている岡本昌弘。ジェフユナイテッド千葉と愛媛FCでは正守護神として長く活躍してきた一方、試合出場がなかなか叶わない中で新たな心境を迎えているというベテランGKのプロキャリアを、千葉時代から見守り続けてきた杉山文宣の筆が熱く振り返る。
ユース時代に帯同したトップのキャンプでプロの過酷さを知る
プロ23年目、公式戦の出場数は400試合を超える。今年41歳を迎えてなお、岡本昌弘はJ1の舞台に身を置いている。ただ、その立ち位置は第2GK。20年の加入以来、リーグ戦全試合でゴールマウスを守る、朴一圭という絶対的守護神の存在もあってサガン鳥栖ではリーグ戦での出場はなく、カップ戦で数度の出場機会があっただけ。それでも、いまなお日本最高峰のリーグで戦うだけの水準を保つ理由がどこにあるのか。岡本のキャリアを振り返りながら探っていきたい。
「いや~、どうだったかなぁ」
岡本のキャリアを振り返ってもらおうとすると、本人はまずはしっかりと考え込んだ。23年というキャリアは年月で考えても、生まれた子どもが社会人となって働いているだけの年齢に到達するし、岡本自身のユースのころの話を聞こうとすれば実に四半世紀も前のこと。岡本が記憶を呼び起こそうと考えるのも当然のことで、それだけキャリアが濃密であることが伝わってきた。
ジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド市原・千葉)ジュニアユースからユース、そして、トップ昇格とエリートコースを歩んだように見える岡本だが、ユース時代は決して順風満帆ではなかったという。
「僕の先輩では一つ上に高木(貴弘)がいたし、太(洋一)もいて、2人ともプロになった人たちですけど、そういう人たちがいたのでたまに出させてもらう、それくらいの感じでした」
後にプロに進む先輩2人の存在は分厚い壁だったが、岡本自身も高校2年、3年次にはトップチームの練習に参加する機会もあり、開幕前のキャンプに帯同したこともあったという。しかし、そこでプロの過酷さを肌で知ることになる。
「そのときのGKコーチの芦川(昌彦)さんが鬼なんですよ(笑)。プロと一緒に練習してみて自信を持つとか持たないとかそういう次元の話じゃないんですよ。完全に打ち砕かれました、そういうのは。でも、そこでGKとはなんぞやみたいなものを、いわゆる根性論なんですけど、そういうものを気づかされました。それまではユースで技術的なところをやってきたけど、芦川さんに『GKってそれだけじゃないよね』っていうふうに叩き込まれました。しんどかったけど、刺激は受けましたね」
転機はイビチャ・オシムの監督就任。湧き始めた公式戦のイメージ
高校3年ではいわゆるレギュラーポジションをつかむとトップチームに昇格したが、当時の市原のGK陣は立石智紀と櫛野亮が在籍するレベルの高い陣容。ユースでは岡本の分厚い壁だった先輩の高木がリーグ戦、ナビスコカップともにベンチ入りの機会すら得られない状況だった。
「僕は試合に出れるとかそんなレベルじゃなかったです。そういうのはもはや、目標にすらしていなかったと思います、当時は。タテさん(立石智紀)がいたし、クシくん(櫛野亮)もいた。上手な先輩たちを見て『こういう人たちがプロなんだな』って刺激を受けるばかりでした。とりあえず『うまくなりたいな』って思い続けて、試合に出るっていうよりは練習を一生懸命やるっていう毎日でした。高木と一緒に毎日、必死に練習していたのは覚えています。芦川さんも練習に付き合ってくれるので、自分のスキルを高めることに必死でした。練習はきつかったですけど(笑)」
レベルの高い先輩たちを前に自分のスキルを高めることに必死だった。立ち位置としてはGKの4番手。高卒1年目のルーキーとしては当然の立ち位置だったが、”何番手“と言えるようなスタートラインにすら立つことができていなかった。だからこそ、岡本は自分がうまくなろうと毎日をがむしゃらに過ごしていた。
そんな岡本に転機が訪れたのはイビチャ・オシムの監督就任だった。後に千葉に初タイトルをもたらした名将が指揮を執り始めたころから岡本も徐々にベンチ入りする機会が増えていった。しかし、岡本自身はそこに喜びを感じることはなかったという。
「とにかく忙しいサッカーをしていたので、練習がすごく緊張感がありました。日々、すごく緊張感のある練習をこなしていって、その流れのままに試合に行く。試合が練習の延長みたいな感じだったと思います。まず、予定表が存在しないですから。1日ずつ、前日に翌日のスケジュールが伝えられるだけで1ヶ月オフなしとか普通にありました。毎週、水曜日に90分の練習試合が2本入っていて、全員が90分やるんです。当時の千葉は自分たちだけセルフで毎週中3日の連戦をやっていたんです(笑)。
そこでやれない選手は週末の試合に出られない。だから、みんな休まないし、休めない。ベテランだから休ませるとかそういうのは一切なかった。だから、若い選手たちはみんな生き生きしていましたよ、みんながしっかり走ってちゃんとやればオシムさんは試合に使ってくれたので。それで結果も出ていたから、若くて勢いのあるチームにどんどん変わっていった。当時の阿部(勇樹)くんとかいま振り返ってもすごかったなって思います」
試合よりも緊張感のある練習をこなしていたことで実際に公式戦でベンチに入ってもどこか現実感がなかった。しかし、それでも、少しずつ、公式戦のピッチに立つことのイメージが湧いてくるようになった。……
Profile
杉山 文宣
福岡県生まれ。大学卒業後、フリーランスとしての活動を開始。2008年からサッカー専門新聞『EL GOLAZO』でジェフ千葉、ジュビロ磐田、栃木SC、横浜FC、アビスパ福岡の担当を歴任し、現在はサガン鳥栖とV・ファーレン長崎を担当。Jリーグを中心に取材活動を行っている。