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2年で燃え尽きかけた大学時代、ベルマーレで短くも太く駆け抜けた6年間のプロキャリア。いわきFC・田村雄三監督インタビュー(中編)

2024.09.04

【特集】いわきメソッドの正体#9

「日本のフィジカルスタンダードを変える」――2016年から始まった革命は、瞬く間にJ2までたどり着いたピッチ上の成果、インテンシティが重視される世界のサッカートレンドの後押しも受け、日本サッカー界で独自の立ち位置を築きつつある。現在はレンタル選手の武者修行先としても評価を高めている「強く速いフィジカルを作る」メソッドの正体に、様々な関係者への取材を通じて迫っていく。

今回はいわきFCの革命を先導してきた田村雄三監督の、キャリアと人生に迫ったインタビュー。中編では中央大学で中村憲剛とも一緒にプレーした大学生時代、偶然が重なって入団へとこぎつけ、幾度となくケガに見舞われながらも、6年間に及ぶプロ生活をまっとうした湘南ベルマーレ時代を振り返ってもらう。

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思い出す中村憲剛像は「ゲーマーでドリブラー」

――中央大学に入学すると、いきなり関東大学リーグの開幕戦でベンチに入り、第2節で途中出場を果たしてリーグデビュー、第3節で初スタメンを飾った上に、いきなりレッドカードで退場と、ちゃんとステップを踏んでいたようですね(笑)。

 「そうでしたね(笑)。僕の印象では高校より大学の方がレベルの差をハッキリ感じました。3つ上だった国士舘大の山根さん(山根伸泉/元・浦和レッズ、SAGAWA SHIGA FCほか)はよく覚えていますし、『ちょっと大学は違うな』と思いましたね。

――何が一番違ったんですか?

 「全部ですね。帝京ではいわゆるサッカーは習っていなかったので、自分たちの身体能力と頑張りで勝ててしまっていましたし、『局面で負けるな』というようなことしか言われていなかったのかなと。でも、大学は違いました。1年生の時にチームとして30年ぶりぐらいに2部に落としてしまうんですけど、完全に自分のせいだと思いましたね。何もできなかったなって。自分を使い続けてくれた監督とコーチには凄く感謝していますし、必死に4年生に食らい付こうとは思っていましたけど、レベルが全然違ったと思います」

――そんな中央大には中村憲剛さん(元日本代表/現・川崎フロンターレFRO)がいたわけですよね。2歳年上の先輩ですか。

 「あの人はゲーマーですから(笑)。憲剛さんは確かに上手かったですけど、3年までそんなにスーパーではなかったですし、今はパサーみたいなイメージで捉えられていますけど、本来はドリブラーなんです」

――みんなが思っている中村憲剛像と、自分が思っている中村憲剛像は違うぞと。

 「大学時代の憲剛さんを知っている人は、やっぱりドリブラーというイメージだと思いますよ。パサーになったのはフロンターレに行ってからだと思います。憲剛さんが4年の時の最終節の日大(日本大)戦も、1人退場してウチの人数が少ない中でも、憲剛さんが相手を5人ぐらい抜いて点を決めてしまって、『うわ、この人凄いな』と思いましたからね。僕の中での中村憲剛はドリブラーであって、ゲーマーです(笑)」

――ゲーマーというのはウイイレをやっていたということですか?

 「そうです。ウイイレをやっているイメージしかないです(笑)」

――今おっしゃった日大との最終節は、勝った方が1部昇格というシビアな試合だったんですよね。これは大学生活の中でもかなり重要な試合でしょうか?

 「そうですね。僕とボランチを組んでいた人が前半で退場して、もうそこからは中村憲剛オンステージです。本当に凄かったですよ」

2022シーズンからテクニカルアドバイザーとして中央大学に帰還している中村

「『もうサッカーやめたい』と思っていました」 燃え尽きかけていた3年時の苦悩

――最近の『中大スポーツ』の記事を拝見したんですけど、3年生になった時に“燃え尽き症候群”みたいになってしまっていたと。

 「そうです。『もうサッカーやめたい』と思っていました」

――かなり唐突過ぎる感じもしますが、どういう流れでそうなったんですか?

 「やめたいというか、1年生の時にボロボロだったんでしょうね。先ほども話しましたけど、自分が足を引っ張っている感覚もありましたし、自分が2部に落としてしまったなと18歳、19歳で感じて、それでも使われている責任もありますし、『1年で1部に戻らなくちゃいけない』というのがチームの合言葉で、最終節で劇的に勝って昇格が決まって、疲れちゃったんです」

――サッカーに疲れちゃったんですか?

 「サッカーになのかなあ……。とりあえず『あと2年もあるのかよ……』と思ってしまったんです。『もう憲剛さんと一緒に卒業したいな』って。それで佐藤健さん(現・中央大学総監督)に呼び出されて、渋谷で朝方の4時まで飲むんですけど(笑)、『オマエがやらなくちゃダメだろ』というようなことを懇々と言われて、それでようやくスイッチが入ったんです。でも、そのスイッチの入り方は1年生や2年生の時とは違ったんですよね。本当に疲れちゃったんだと思います」

――でも、大学が4年間あることはわかって入学しているわけですよね。

 「そうなんですよ。そうなんですけど、本当に疲れちゃったんです。もう2部に落ちた感じと、1部に上がった感じのアップダウンが激し過ぎちゃって、2年間で両方を味わい過ぎて、『あと2年もあるのか……』って。『ここからオレの時代が来るぞ!』とは思えなかったなあ」

――そう考えると、逆によくそこから2年も頑張りましたね。

「だから、その頃の自分はプロというものをそこまで意識していなかったんですよね」

――ああ、なるほど。

 「憲剛さんもギリギリでフロンターレに引っ掛かったわけで、『憲剛さんでギリギリなの?』とは思っていましたよね。『そんな世界だったら自分には無理だろ』と。1個上のGKの植村慶さん(現・産業能率大学GKコーチ)がベルマーレに行っていますけど、あの人はマジメ過ぎる人で、後輩の我々からしても『頼むからプロに行ってくれ』と。『こういう人が行かなかったら報われないよ』と思うぐらいサッカーに懸けていたので、その2人を見ていることもあって、『自分には無理かな。どうしようかな』と思っていましたね。親からは『留年はないよ』と言われていたので、しっかり単位を取って、とにかくサッカーを頑張って、就職活動はせずに、卒業してから今後のことは考えようかなという感じでした」

現役引退後は地元に戻って実家の仕事を手伝うはずだった!

――そんな人が何で湘南ベルマーレに入ったのかという経緯は非常に気になりますね。……

Profile

土屋 雅史

1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!