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“上手い系”ミッドフィルダーの三男が帝京高校に進学するまで。「僕はエリートでも何でもないですし、底辺に近いところで頑張っていた感じでした」いわきFC・田村雄三監督インタビュー(前編)

2024.09.03

【特集】いわきメソッドの正体#8

「日本のフィジカルスタンダードを変える」――2016年から始まった革命は、瞬く間にJ2までたどり着いたピッチ上の成果、インテンシティが重視される世界のサッカートレンドの後押しも受け、日本サッカー界で独自の立ち位置を築きつつある。現在はレンタル選手の武者修行先としても評価を高めている「強く速いフィジカルを作る」メソッドの正体に、様々な関係者への取材を通じて迫っていく。

第8~10回はいわきFCの革命を先導してきた田村雄三監督の、キャリアと人生に迫ったインタビュー。前編ではサッカーを始めた小学生時代を皮切りに、クラブチームでのプレーを選択した中学生時代、高校サッカー界の超名門・帝京高校へと進学した高校生時代を紐解いていく。

秀一、晃二、雄三。地元では有名だった『田村三兄弟』

――サッカーを始められたのは6歳ですね。最初のキッカケから教えてください。

 「単純に2人の兄がやっていたからですね。2人の試合にずっと付いていったりしていたので、それがキッカケだったと思います」

――長男が秀一さんで、次男が晃二さんで、三男が雄三さんと。田村三兄弟ですね。

 「そういうことです」

――地元の渋川(群馬県渋川市)あたりで『田村三兄弟』と言えば、誰もが知っているような感じでしたか?

 「サッカー界ではちょっと有名だったかもしれないですね。群馬でも有名だったのかなあ」

――一番上の秀一さんが前橋商業ですか。大野敏隆さん(現・前橋ジュニアU-15監督/元・柏レイソル、東京ヴェルディほか)と同期ですね。

 「はい。12番目や13番目ぐらいの選手だったと思います。一桁の背番号をもらってきて喜んでいる姿はちょっと記憶にあるんですけど、試合には出ていなかったかなと」

――晃二さんは関東でも有数の選手だったと、田村監督のあるインタビュー記事で拝見しました。

 「関東選抜まで行きましたし、その代の群馬ではナンバーワンだったと思います」

――中学時代のチームは田村監督と同じ前橋ジュニアですか?

 「いえ、普通に渋川中学校のサッカー部です」

――ああ、そうなんですね。高校年代はどちらでプレーされていたんですか?

 「ジェフのユースに行きました」

――そうなんですか!

 「そうなんですよ。当時は大木誠さん(現・向上高校監督)が監督をされていて、兄を獲りに来た時になぜかウチの実家に二泊ぐらいしていたと思います。僕は『この人は誰なんだろう?』って(笑)」

――そんなことあるんですね。渋川にもホテルはあるでしょう(笑)。

 「たぶん『ウチに泊まっていけばいいじゃないですか』みたいな感じだったんですかね。よくわからなかったですし、今でも不思議ですけどね」

――当時の群馬でJクラブのユースからスカウトが来て、実際に行く選手は相当珍しいですよね。

 「そうですね。そのあとに小松原さん(小松原学/元・湘南ベルマーレ、ヴァンフォーレ甲府ほか)がベルマーレのユースに行ったぐらいなので、やっぱりあの年代では相当いい選手だったんでしょうね」

――しかも晃二さんは健大高崎高校の篠原利彦監督(※前橋育英高校が初めて全国ベスト4に入った時のレギュラー選手)と中学の同級生なんですね。渋川界隈はかなりサッカー人を生んでいるんだなと。

 「そうですね。篠原さんは僕もよく知っています。ただ、良くも悪くも昔の時代だったので、長男が前商(前橋商業)に行ったことによって、次男は(前橋)育英には行けなかったんですよ」

――ああ、なるほど。良い悪いではなくて、確かに当時はそういう時代でしたよね。

 「僕も覚えているぐらい育英の山田耕介監督からラブコールを受けていましたし、前商からもオファーがありましたけど、たぶん行けなかったんです。それで外に出るというか、ジェフに行くという形を採ったんだったと思います。僕は兄と2人で成立学園の学校説明会に行っていますから。ジェフユースの選手はみんな成立学園に通っていたんですよ」

――成立学園の校長先生(福田浩平さん)は元ジェフの社長でしたからね。

 「そうなんですよ。それで成立に行ったんです」

兄・晃二さんがユース時代を過ごした千葉と対戦したJ2第27節のハイライト動画

小学生時代はスルーパスが得意な“上手い系”のミッドフィルダー!

――そもそも田村監督は豊秋サッカークラブでサッカーを始められたということですが、この頃のポジションはどこだったんですか?

 「ミッドフィルダーでした。上手い系だったと思いますよ」

――どういう“上手い系”ですか?

 「スルーパスを通すのがメチャメチャ上手かったです」

――意外ですね(笑)。

 「いや、自分でも意外なんですけど(笑)、1個上に凄く足の速い先輩がいて、僕がディフェンスラインの裏にスルーパスを通したら、その人が点を獲るみたいな感じでした」

――小学生時代に好きだった選手としてローター・マテウス(元ドイツ代表)を挙げてらっしゃいますね。

 「たぶん一番最初に見たワールドカップがイタリア大会だったんでしょうね。ボールもドイツ代表のモデルを買ってもらいましたから。もちろん攻撃的なスーパースターも知ってはいましたけど、好きなのはそういう選手でしたね。たぶん当時から変わっていたんですよ」

EURO1980で19歳にして欧州王者の一員となったものの、その後のW杯では2大会連続で準優勝の屈辱を味わっていたマテウス。主将として臨んだ1990年のイタリア大会で悲願の世界制覇を成し遂げ、ドイツ代表で歴代最多の150試合キャップを刻んでいる

――もちろん北毛選抜(※群馬の地域区分。“北毛”は渋川を含む地域)には入っていたと思うんですけど、県選抜にも入っていましたか?

 「入っていました。でも、県選抜ではサイドバックをやらされていましたね。子どもながらに『ああ、みんな上手いな』とは思っていました。確かその県選抜に入るぐらいの頃だったと思うんですけど、6年生の大会が終わった時に、図南サッカークラブに体験入部みたいな感じで行ったんです。僕らの時代の群馬でジュニアユースがあったのはまだ図南だけで、前橋ジュニアが作られるという頃だったんですよ」

――確かに当時の群馬に中学年代のクラブチームなんてなかったですからね。

 「そうなんです。そこで沼田に富澤兄弟という双子がいたんですけど、2人に誘われて中学に上がるギリギリまで図南でやっていたんですよ。ただ、そのタイミングで前橋ジュニアができるということになって、そこで勉さん(小林勉/現・バニーズ群馬FCホワイトスター監督、前橋ジュニアの創設者)と出会うんです。勉さんはウチの長男の代の前商の臨時コーチをやっていて、兄が『オマエの弟、前ジュニに連れて来いよ』と言われたらしく、そこから僕は前ジュニに行き始めたんです」

青木剛に中島俊一。好選手を輩出している前橋ジュニアの同世代

――まさにそこはお聞きしようと思っていたところで、当時の群馬の中学生にクラブチームでプレーするという文化がない中で、何でわざわざ渋川から前橋ジュニアに通っていたんだろうというのは、ずっと不思議に思っていたんです。

 「やっぱり当時はクラブチームに通っているヤツなんていなかったですし、二重登録ができないから中学のサッカー部では試合に出られないんですよ。だから前ジュニを選んだ時に、父は『いいんじゃない?オレが送り迎えするわ』みたいな感じだったんですけど、母に『小学校から一緒にやってきたみんなを裏切るの?』みたいなことを言われたのは、いまだに覚えています。『ええ?だって真剣にサッカーやりたいし』って(笑)。

 中学のサッカー部には3年に次男がいたんですけど、1年生の頃は兄と一緒に公式戦に出ていた記憶もあるんですよね。その夏が終わったぐらいから、前ジュニで本格的に活動し始めた気がします。たぶんそこが初めて親に自分の意見を通した体験でしたね」

――中学の入学当初はサッカー部に入っていたんですね。

 「そうですね。それで夏過ぎに親に話をして、サッカー部をやめて、前ジュニに行き始めました」

――渋川から前橋の練習場までは決して近い距離ではないですよね。

 「そうですね。車で3、40分は掛かっていました。ウチは親も一生懸命仕事をしていましたし、いわゆる家族旅行の記憶はあまりないんですよ。年に1回ぐらい海に行っていたような感じですけど、子どももみんなサッカーをやっているので揃わないじゃないですか。だから、週に3回ぐらい前ジュニに送り迎えをしてもらう車の中が、唯一父と2人きりで一緒になる時間なんですよ。それで帰りはお腹が減っているから、ラーメンと餃子を食べに連れていってもらうんです」

――ああ、いい話だなあ。

 「そのラーメン屋はなくなっちゃったんですけど、そこの味噌ラーメンと餃子がメッチャ美味くて(笑)。それが今から思うとメチャメチャ嬉しかったんです。そのラーメンと餃子は良い思い出ですね」

――『北の国から』みたいな良いエピソードですね(笑)。これも前から疑問に思っていたことで、当時は県内にクラブチームがほとんどないわけじゃないですか。前橋ジュニアはどこと公式戦を戦うんですか?

 「図南です。図南に勝ったら全国というイメージですね。だから、練習試合はずっと育英の1年生とやっていました。その代は茂原さん(茂原岳人/元・ヴィッセル神戸、ヴァンフォーレ甲府ほか)とか松下さん(松下裕樹/現・前橋育英高校コーチ)みたいな凄いメンバーが揃っていたんですけど、互角にやれてしまうぐらいだったので、『オレたち結構能力あるんだな』と思っていましたね。確かに練習試合は同じ年代とはあまりやっていなかった気がしますけど、なぜかイタリアには2回行きました」

プロとしてサンフレッチェ広島(2000-04)、アビスパ福岡(2004-06)、川崎フロンターレ(2006)、ザスパ群馬(2007-12、2015-18)、横浜FC(2013-14)を渡り歩いた松下コーチとも中学時代に対戦していた田村監督。栃木シティ(2019)で現役を引退した後は、母校の前橋育英で指導者の道を歩んでいる

――イタリアに2回!うらやましいなあ。……

Profile

土屋 雅史

1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!