作陽高出身の「外の選手」青山敏弘が広島のレジェンドに至った始まりの物語
【特集】ワンクラブマンの価値 #1
青山敏弘(サンフレッチェ広島)前編
移籍ビジネスが加速している昨今のサッカー界で、クラブ一筋のキャリアを築く「ワンクラブマン」は希少な存在になっている。クラブの文化を体現するバンディエラ(旗頭)はロッカールームにとって大きな存在であることはもちろん、クラブとファン・サポーターを結びつける心の拠り所にもなる。あらためて彼らの価値について考えてみたい。
第1回は、Jリーグのワンクラブマンと言えばこの人、広島一筋でプロ21年目の青山敏弘。前編では、作陽高出身の「外の選手」が広島のレジェンドに至った始まりの物語を伝えたい。
青山敏弘は断言した。
「移籍を考えたことなんて、1度もない」
2024年4月30日、21年目の春。18歳の時に広島に来てからずっと通い続けた吉田サッカー公園で、青山はいつも通り、明確に答えた。
「自分の意志は代理人にも伝えています。だからなのか、移籍のオファーも受け取ってはいないです(笑)」
「嘘でしょ」
「いや本当に。マジでない。自分にとっては今も、広島という場所が最も成長させてくれるところなんだって、信じていますからね」
愛着は、このうえない。そしてそれは、若い頃からずっと変わらない。
広島ユース黄金世代にあえてぶつけた「外の選手」
ここまでのクラブ愛に、「青山は広島ユース出身では」と勘違いする人もいるが、もちろん違う。岡山県倉敷市で生まれ育ち、作陽高校から広島にやってきた選手だ。
2004年、彼が加入してきた時はサンフレッチェ広島ユースの黄金期まっただ中だった。1つ下には髙萩洋次郎、髙柳一誠、前田俊介、森脇良太、桒田慎一朗、佐藤昭大と一気に6人の有望株(後に全員プロ昇格)がいて、サポーターの熱い期待が集まっていた。髙萩はJ2とはいえ高校2年ですでにデビューし、プロ契約を結んだ。髙柳や前田も高校3年生でリーグ戦に出場している。さらに青山の2つ下には、柏木陽介や槙野智章がいて年代別代表の主力。将来は間違いなく、彼ら黄金世代が広島のレギュラーとなり、このクラブを高みに押し上げてくれる。彼らに期待するなという方が無理だ。
1994年ファーストステージの優勝以降、ずっと下位に低迷し、降格の屈辱も味わってきたサポーターは、2年で4つのユース年代タイトルを獲得した広島ユースの少年たちに、夢を見た。ただ、その夢の中には当時、青山の名前はなかった。彼自身、年代別代表に選出された経験があったにしても、だ。
運命とは、なんと不可思議なのだろう。名前を挙げた広島ユースの精鋭たちは今、広島にはいない。様々な理由で広島を去り、他のクラブで引退した。現役を続けているのは、シンガポールリーグでプレーしている髙萩と、愛媛で頑張っている森脇、そして青山だけ。
彼らの人生をどうこう言うつもりはない。選択は尊重されるべきだし、広島でプレーを続けたくてもできなかった選手もいる。全員が広島への愛着を持ってくれていることも疑いない。しかし、ワンクラブマンであり続けることは本当に難しい。
話を戻そう。
そもそも、どうして青山を獲得したのか。そこに疑問を持つ向きもあった。ボランチには当時23歳の森﨑和幸がいて、彼が未来を背負うことになることは誰もが認めていた。髙萩や髙柳、そして柏木も、ユースではボランチでプレーしていた。つまり、広島のボランチには優秀な人材がたくさんいて、ある種の飽和状態にあるように見えた。
だが、広島のスカウトを当時務めていた足立修(現Jリーグフットボールダイレクター)は、「広島ユースだけの純粋培養で、果たしていいのか」と疑問を持っていた。
「もちろん、広島は育成型クラブ。だが、その育成のためにも、広島ユース以外で育った選手が必要ではないのか。ユースは、広島にとって育成の王道かもしれないが、集団が強さを増すためには、純粋培養ではダメだ」
確かに、と思った。
水も本当の真水は、味も素っ気もない。そこに各種ミネラルが加わるからこそ味に深みが出るし栄養価値も増す。スープもカレーも、たくさんの材料から出る違ったうま味が絶妙のハーモニーを奏でることで美味になる。
作陽高「幻のゴール事件」で足立スカウトが注目したこと
足立スカウトはだから、外に人材を求めた。その頃、1つの事件がサッカー界の注目を集める。
2002年11月10日全国高校サッカー選手権岡山県大会決勝、作陽高2年の青山は延長前半、強烈なミドルシュートでゴールを決めた。当時のルールは延長Vゴール形式で得点が決まった瞬間に試合終了となる。当然、作陽高の勝利。全国大会の切符は青山らに与えられると誰もが確信した。
だが、主審はゴールを認めない。青山のシュートはゴール奥のポストに当たっているのだが、主審はゴール手前のポストに当たったと勘違いした。また、対戦相手(水島工)のGKもゴールの瞬間は見ておらず、こぼれてきたボールを必死でキープする。彼もまた、ノーゴールだと思っていた。
もちろん、映像で見ればゴールは明白。だが、当時はVAR(ビデオ・アシスタント・レフェリー)の発想すらない時代だ。主審の判定は絶対。試合はそのまま延長戦も終了し、PK戦で作陽高の敗退が決定した。
全国のサッカーファンが騒然となったこの「幻のゴール」だが、足立スカウトは違うところを見ていた。……
Profile
中野 和也
1962年生まれ。長崎県出身。広島大学経済学部卒業後、株式会社リクルート・株式会社中四国リクルート企画で各種情報誌の制作・編集に関わる。1994年よりフリー、1995年からサンフレッチェ広島の取材を開始。以降、各種媒体でサンフレッチェ広島に関するレポート・コラムなどを執筆した。2000年、サンフレッチェ広島オフィシャルマガジン『紫熊倶楽部』を創刊。以来10余年にわたって同誌の編集長を務め続けている。著書に『サンフレッチェ情熱史』、『戦う、勝つ、生きる』(小社刊)。