異色キャリアの国際派コーチ、安田好隆が水戸というクラブに感じた可能性
コーチの肖像#5
現代のサッカーでは戦術、フィジカル、メンタルなど様々な分野が高度化しており、監督一人の知識やアイディアではなく、コーチングスタッフの力を結集しなければ勝てない時代になった。専門家集団を取りまとめる監督のマネージメント力はもちろん、リーダーを支えるコーチたちの力量もますます重要になってきている。普段は光が当たらない仕事人たちの役割に迫る。
第5回は、大分トリニータ時代に片野坂知宏監督の右腕として活躍し、現在は水戸ホーリーホックで濱崎芳己監督を支える安田好隆コーチ。メキシコやポルトガルで指導を学んだ国際派コーチのユニークなキャリアに迫る。
戦術的ピリオダイゼーションを学びにポルト大学へ
――高校時代に指導者の道に進むことを決めたそうですね。
「そうですね。かなり早い段階で選手としてプロになるのは厳しいということを感じていました。それでも、サッカーに携わっていたいと考えていて、指導者に興味を持つようになったんです。それもあって、高校卒業後すぐに指導者のキャリアをスタートしました母校である國學院久我山高校や横河武蔵野FCのアカデミーでコーチを務めていました」
――大学卒業後にはメキシコに渡って指導者の道を歩みました。
「当時、メキシコ人の体格やサッカーは日本と似ていると言われていて、興味を持っていました。そんな中、日本サッカー協会の支援を受けて、メキシコに行かせてもらえることになり、スクールやアカデミーからトップチームまで、様々なカテゴリーのチームの指導をしました。メキシコでは初めての海外で長期滞在ということもあり、指導者としてもそうですが、人として大きな変化があったように感じています。それまで僕は読書ばかりして、人見知りの性格だったんですけど、海外に行くと自分を主張しないと相手は意見を聞いてくれないので、積極的に主張するようになりました。そういった面で、メキシコに行って良かったと思っています」
――そして、2011年にはポルト大学スポーツ学部大学院へ進学します。
「ポルトガルに行ったのは、メキシコで読んだ一冊の本がきっかけでした。ポルト大学に通っていたスペイン人が書いた戦術的ピリオダイゼーションについて書かれた本に強い興味を持ち、その創案者であるビトール・フラーデ氏が同大学で教授を務めているということで学びに行きたいと思ったんです。大学院の入学願書は、当時はまだポルトガル語がわからないので、ダメ元でスペイン語で出しました。通常の出願書類では勝ち目がないと考え、メキシコでの実績やライセンスのコピーも同封しました(笑)。熱意が伝わったのか、晴れて進学が決まりました」
――ポルト大学は世界中の指導者候補生たちが集まってくる感じだったのでしょうか?
「これから世界の指導現場に出ていくような人たちがいましたね。今でも世界各地で当時一緒に学んだ人たちが活躍しています」
――どんな講義を受けたのでしょうか?
「スポーツ心理学、スポーツ倫理学、スポーツ社会学など興味深い科目やサッカーの理論や実践の授業もあるという感じでした。僕は、大学院だけでなく学部の授業も積極的に受けていました。大学の授業が終わったら、ポルト大学の教授や卒業生が指導者を務めるFCポルトのアカデミーの練習を見学させてもらうこともありましたし、ポルトガル語が習得できてからは、戦術的ピリオダイゼーションを取り入れている街クラブで実際に指導をさせてもらうこともありました。毎日充実した日々を送っていました」
――大学院には何年間通ったんでしょうか?
「約3年間通いました」
――戦術的ピリオダイゼーションに注目した理由は?
「『戦術自体が問われる時代は終わった。戦術ではなく、戦術を実現するためのトレーニングで差がつくんだ』という当時、全盛期だったジョゼ・モウリーニョの言葉にあるように、サッカーを『意思決定のスポーツ』と定義し、サッカーのトレーニングは良いコンディションとか悪いコンディションとかじゃなくてゲームモデルに適応しているか否か――という考え方に惹かれました」
帰国後に直面したコミュニケーションの問題
――日本に戻ってきて、東京Vのコーチに就任します。初めてJリーグの舞台でコーチを務めた経験はどうでしたか?
「当時29歳だったんですけど、東京Vには年上の選手がたくさんいたにもかかわらず、何の配慮もせず、海外から帰ってきたマインドのまま指導してしまったんです。結構、痛い目を見ました。僕の言い方にトゲがあったみたいで、海外でやっていたように、年齢を気にせずに指導をしてしまい、年上の選手から諭されることもありました。すごく未熟でしたね」
――安田さん自身、プロサッカー選手としてのキャリアがありません。だからこそ、コーチとして選手から認められないといけないという思いもあったと思います。そこでのアプローチの仕方も考えたのでは?
「そうですね。最初からのアドバンテージはありませんでしたし、当時は自分の考えていたことや自分のやりたいこと、信念みたいなものをどう表現するかしか考えていませんでした。自分が勉強してきたことを試したいという思いが強すぎたのだろう思います」
――当時東京Vの指揮を執っていた三浦泰年監督との関係は?……