アビスパ長谷部監督をして「普通じゃない!」と言わしめる論理的・多角的な能力の持ち主、田中遼太郎ヘッドコーチの絶対的信念
コーチの肖像#3
現代のサッカーでは戦術、フィジカル、メンタルなど様々な分野が高度化しており、監督一人の知識やアイディアではなく、コーチングスタッフの力を結集しなければ勝てない時代になった。専門家集団を取りまとめる監督のマネージメント力はもちろん、リーダーを支えるコーチたちの力量もますます重要になってきている。普段は光が当たらない仕事人たちの役割に迫る。
第3回は、近年の躍進が目覚ましいアビスパ福岡・長谷部茂利監督を支える右腕、田中遼太郎ヘッドコーチを紹介したい。
救世主・長谷部茂利が称賛を惜しまない存在
長谷部茂利監督の就任と同時にアビスパ福岡の歴史は大きく動いた。4年を掛けてJ2からJ1に昇格しながら1年で再びJ2に降格する嫌なジンクス『5年周期』を2022年に終わらせたのが長谷部監督。それだけにとどまらず、クラブ念願のJ1定着への歩みを今も順調に進め、昨季はリーグ戦で7位とクラブ記録を更新、さらにルヴァンカップ制覇でクラブに初タイトルをもたらした。
アビスパ福岡のサポーターにとって長谷部監督はまさに救世主と言える存在で、彼らからの絶大な人気と信頼感を得る。
そんな指揮官が大きな信頼を寄せるのがコーチ、メディカル、マネジャーを含めたスタッフたちだ。特に日々の練習メニューや対戦相手の細かい分析を行うコーチングスタッフへの信頼感は相当に厚く、ことあるごとに彼らへの称賛を惜しまない。そんなコーチングスタッフの一人で、昨季までのコーチから今季はヘッドコーチに昇格した田中遼太郎にスポットを当てたい。
幼少期からあった指導者への漠然とした思い
田中は現在35歳。ヘッドコーチとしては若い部類に入るだろうが、コーチ歴は十分に長い。京都教育大体育学科を卒業した2011年に同志社大体育会サッカー部のコーチに就任。それ以降、コーチとして複数のチームに在籍して指導を続けてきた。
この長いコーチ歴はその道に早い段階で入ったからでもある。報酬を得るコーチが職となったのは同志社大での指導からだが、気持ちの面でのスタートはそれよりもかなり前のことだった。
「将来、僕は日本代表の監督になる」
そう作文に記したのは小学生の時。本人は忘れていたが、のちに同級生が教えてくれた。それを聞いた時に「いやいや、まずは選手を目指せよ」と自分にツッこんだと言う田中だが、指導者への道に興味を持ち始めた理由は何となく覚えていた。
「小学校の時にケガが多くて、練習や試合の時に監督から『オレの横に座って見ていて』と言われた。そういう時間を過ごすうちに指導者というものに興味を持ち始めたんだと思う」
ベンチに座り、監督の励ましの声、時には怒声を聞きながら、プレーすることはもちろん好きだけれども、チームをマネージメントする側への興味も沸いてきた。結果的に京都教育大を卒業するまでプレーを続けたが、大学時代にすでに指導の道へ足を踏み入れていた。
「高校の時に指導者になりたいと考えていたから、教育大へ進学した。大学ではプレーをしながら練習メニューも考えるようになった。当時所属していた京都教育大体育会サッカー部は関西大学リーグの3部に所属していたチーム。日ごろの練習メニューは選手たちで考えていたが、3年生になった時にキャプテンに頼まれて本格的にメニューを考えるようになり、4年時に主将になってからも、そこは自分の役割として続けた」
大学時代の日常の中に指導者としての経験を積む試行錯誤の機会があった。
「このトレーニングをやったらこうなるんだなぁ」
「こういう狙いだったらこういうトレーニングをした方がいいのかな」
スポーツ生理学、栄養学、解剖学、コーチング論など体育学科の学生として机で学んだ知識はもちろんためになったが、サッカー部でのトライ・アンド・エラーの繰り返しの方がより自分にとっての財産になったのではないかと田中は振り返った。
サッカー指導者の道を突き進む熱量の大きさ
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Profile
島田 徹
島田徹(しまだ・とおる)/広告代理店勤務の後、1997年にベースボール・マガジン社に転職。サッカーマガジン編集部、ワールドサッカーマガジン編集部で2006年まで勤務した後、07年より福岡にてフリー活動を開始。サッカーマガジン時代に担当を務めたアビスパ福岡とギラヴァンツ北九州をメインに、ほぼサッカーの仕事だけで生きつなぐ。現在はエルゴラッソの福岡&北九州を担当。