ドラえもん、あるいはゼニゴケ。花は咲かずともアイデアは尽きぬ安間貴義のコーチ人生
コーチの肖像#2
現代のサッカーでは戦術、フィジカル、メンタルなど様々な分野が高度化しており、監督一人の知識やアイディアではなく、コーチングスタッフの力を結集しなければ勝てない時代になった。専門家集団を取りまとめる監督のマネージメント力はもちろん、リーダーを支えるコーチたちの力量もますます重要になってきている。普段は光が当たらない仕事人たちの役割に迫る。
第2回は、ヴァンフォーレ甲府とカターレ富山でコーチと監督を歴任し、FC東京の在籍期間もトータルで9年目を迎える安間貴義ヘッドコーチだ。
指導者キャリアは“繰り上がり当選”で監督から始まった
そもそもが突発的な始まりだった。現役を引退してコーチとなる予定だった安間貴義は、Honda FCの重鎮に取り囲まれ、監督に就任するよう求められた。Jリーグ加盟を断念してアマチュア化していくHondaにあってプロ選手不在のチームを引き受ける人材がなかなか見つからず、次期監督を確定していく作業は困難となり“繰り上がり当選”で白羽の矢を立てられたのだ。
ところがこの、コーチを経験しないまま監督となった安間率いるHondaが2002シーズンにいきなりJFL優勝を果たしてしまう。その後の2シーズンも2位フィニッシュと好成績を残した。古橋達弥や宇留野純を擁する彼らが味の素スタジアムでおこなわれた天皇杯3回戦でFC東京を破るまであと一歩のところまで迫ったのは、この安間体制の、2003年12月14日のことだった。
のちにS級コーチライセンスを取得する安間も、この時点ではライセンスを所持していない。そんな彼がプロコーチとしてのアカデミックな講習を受けないままに監督として結果を出したことには理由があった。
練習相手は当時、国内最高峰の選手を揃えて黄金時代を築いていたジュビロ磐田。アタック&カバーの原則で守ろうとしても、川口信男が蹴って走るだけで一度にふたりがかわされてしまう。ゾーンディフェンスでブロックを組んで構えても、名波浩から中山雅史にピンポイントのパスが通ってしまう。カウンターで攻め込んだところで、鈴木秀人との1対1で負けてしまい、フィニッシュまで完遂出来ない。現役時代に安間が吸収してきた基本的な戦術では、格上に勝てない現実を突きつけられ、そして考えたのだった。
「もう、全部つなげていくしかない」
これが安間の指導者としての人生の始まりだった。
参謀の顔と、練習の鬼としての顔と
磐田にやらせないためには、自分たちがボールを持ち、チーム全体で動かしつづけるしかない。ペナルティエリア内でのクリアを禁止するところから始まり、パスコースを設計し、パスをつないでいくチームとしてのかたちをつくる。これによって磐田のサテライトに勝てるようになると、Aチームが対戦相手に出てきてくれるようになり、さらに高い水準へと、実地で鍛えていくことが出来た。戦力的劣勢を前提に、チーム全体でボールを動かすという発想は、[3-3-3-1]を採用したカターレ富山をはじめとして、その後のすべての仕事に結びついていく。
与えられた材料でどう勝つためのサッカーをするのか。常に、着任するそのクラブに合ったやり方を自分の頭で考えるという仕事の姿勢が、ここで確立した。
Hondaで3年間の監督業を経験した安間は、2005シーズンにヴァンフォーレ甲府へと移籍する。これがトップチームコーチの初体験。当初は松永英機監督の右腕として働くはずだったが退任となり、大木武監督と組むことに。のちにゴールデンコンビとして名を馳せることになるこのふたり、じつはこの2005シーズンが初めての顔合わせだった。以後、安間は多くの監督に信頼され懐刀として置かれるようになるが、大木監督との関係はどう構築していったのだろうか。
それまで挨拶しかしたことがなかったが、大木監督は自身が率いる清水エスパルスとHondaとの練習試合を通して得た感触で「全然問題ない」と、安間のコーチ就任を承諾。そしてしょっちゅう顔を突き合わせる間柄の安間に多くの質問をした。
参謀として提言をするにあたっては、指揮官から「こうしたい」という要望をもらえば「それにはこれがいいですよ」と答えやすい。自分からアプローチしてくる大木によって、コーチとしての安間が徐々に開花していく。J1の相手を甲府の選手が突破出来ないとわかれば、スモールサイドでボールを回していこうと話し合い、対抗策を打ち出していった。
コーチとしての安間は練習の鬼。これは当時の甲府が練習の場を求めてジプシーになっていたことにも起因する。……