サンフレッチェ広島の新スタジアム「エディオンピースウイング広島」の価値(前編)。都心交流型スタジアムパーク構想とは何か?
なぜ、新プロジェクトが続々発表?サッカースタジアムの未来#1
Jリーグ30周年の次のフェーズとして、「スタジアム」は最重要課題の1つ。進捗中の国内の個別プロジェクトを掘り下げると同時に海外事例も紹介し、建設の背景から活用法まで幅広く考察する。
第1回は、2月10日にこけら落としを迎えるサンフレッチェ広島の新スタジアム「エディオンピースウイング広島」の都心交流型スタジアムパーク構想について考えてみたい。
プロ野球とJリーグとの違いは何かを、時おり考える。
野球もサッカーも、明治時代に日本に入ってきたスポーツで「プレーする」という部分で言えば、いわば「同期」だ。
だが、野球は大学野球や高校野球が発展すると、プレーだけでなく「応援する」「見る」という文化が醸成されていった。このことが高校野球を新聞社が主催するという「ビジネス」の側面を生み出し、読売新聞社を中心とする「プロ野球」創設に繋がった。
プロだから当然、収益構造を考えないといけない。そのためには、スタジアムという「器」が必要。1937年、東京のど真ん中に後楽園球場(現東京ドーム)が誕生したのも、プロ野球をビジネスの面から考えれば「都心に造る」という発想以外はなかったのだろう。
一方、サッカーはずっと、プレーヤーのためのスポーツだった。戦前は学生、そして教職員が中心となって発展させ、戦後は企業が福利厚生の一環としてチームを抱えるようになった。アマチュアリズムは厳然と存在し、日本代表が目指す目標もプロが出場するW杯ではなく、アマチュアの祭典・オリンピックだった。
そういう歴史的経緯があり、「見るスポーツ」としてのサッカーはなかなか成熟の気配がなかった。1965年に誕生した日本サッカーリーグで東洋工業が初優勝を果たした舞台は広島大学附属高校のグラウンドであったことでもわかるように、日本サッカー界はあくまでプレーヤー目線。日本初のトップリーグ戦となった日本リーグにしても、目的は日本サッカーの強化であり、ファンに対する意識は、そこにはなかった。
1946年に始まった国民体育大会にしても、発想こそ「戦後の混乱期にあった国民に希望を与えるため」ということではあったが、基本的には「プレーヤー」目線であり、あくまでスポーツマンの祭典だった。国体は開催する地方にスポーツ施設を造るきっかけを与えるなど、スポーツの振興に大きく貢献していることは間違いない。しかし、その施設は土地取得費用が安くなる郊外に造られることが多く、公共施設を利用することが基本となるアマチュアスポーツも、自然と郊外でのプレーが大きくなっていった。特に広い土地を必要とし、スポーツ以外の利用が難しい屋外施設は、街なかで造られることが非常に厳しい状況だった。
久保会長の悲願だった「屋根つきの街なかスタジアム」
サンフレッチェ広島が長くホームスタジアムとしていた広島ビッグアーチ(昨季まではエディオンスタジアム広島、今季からはホットスタッフフィールド広島)は、とにかくアクセスに問題があった。
軌道系の交通手段としてはアストラムラインという新交通システムがあるが、都心からは約40分。駅からは「心臓破りの丘」とサポーターが言う急坂があって、ご年配の方などは本当に苦労していた。またアストラムラインの車両編成も4両で、首都圏のような一気の大量輸送は難しい。
観客動員の増加には、もちろん「イベントとしての魅力」は不可欠だ。だが、それよりももっとベースの部分で「劇場」としての快適性が求められる。その快適性の第1は、やはりアクセスだ。アプローチに苦労してしまうような「劇場」では、多くの人々が観戦を敬遠し、リピーターになることはない。フェスのような1年に一度のイベントであれば「不便」も厭わないが、プロサッカーは定期的に行われる。そうなると、やはり劇場へのアプローチには「利便性」が求められて当然だ。
その現実を理解しているから、サンフレッチェ広島は、そして久保允誉会長は新スタジアムの「立地」にこだわった。
久保会長がサンフレッチェ広島の社長に就任したのは、1998年8月のこと。経営危機が発覚し、主力中の主力だった高木琢也や路木龍次、柳本啓成を完全移籍で、森保一を期限付き移籍で放出せざるをえなかったサンフレッチェ広島を立て直すため、広島の政財界が三顧の礼で、久保氏に社長就任を依頼。当初は固辞していたが、最終的には社長就任を決断した。
エディオン(当時はデオデオ)のトップとして家電販売業界の熾烈な競争の中での就任ということもあり、「多忙すぎる久保社長に、経営危機に陥ったクラブの改革ができるのだろうか」と懐疑的な目を向ける向きもあったが、それは杞憂に終わった。
公式サイト、独身寮、公式ショップ。それまで懸案ではありながら、手が付けられていなかった事案を次々に解決。就任半年の間に多くのプロジェクトが前進し、重い空気が漂っていたフロントを一気に活性化したのだ。
その久保会長がまず取り組んだのが、試合への帯同である。今、サンフレッチェの社長はホーム・アウェイ問わず、試合会場に足を運んでいるが、その習慣は久保会長が始めた。もちろん、選手たちの激励が第一義ではあるが、一方で各地のスタジアムを視察する目的もあった。
Jリーグの各クラブは、どういうスタジアムでプレーしているのだろうか。そのメリット・デメリットを自分の目でしっかりと確認していた。つまり、就任当初から会長はスタジアムへの課題を認識していたということになる。
「様々なアウェイのスタジアムに行って、確信しましたよ。サッカークラブの経営には、屋根つきの街なかスタジアムが必要だということをね。スタジアムの実現は私のライフワークだ」
1999年、社長就任から1年半が経過したシーズン終了時、久保会長はこんな想いを口にしている。それは筆者が、平均観客動員が9376人となり、社長就任前(1997年)の6533人から大幅に増加したことを質問した時の答えだ。
「雨が降らなければ、平均1万人を超えたという実感はあります。いいカードを組んでいても雨のために動員が伸び悩むことが多い。天候によって3倍くらい、動員が違う場合も考えられるんです。当然、『雨が降っても動員に影響がない状態』を考えねばならない。となると屋根つきスタジアムが必要になる。しかもそれは、臨場感の違うサッカースタジアムでなくてはならない。
例えば仙台は全席を屋根で覆う素晴らしいスタジアムがあるから、J2(当時)であっても1万人を超えるお客様がやってくるわけです。クラブ経営を安定化させ、常に優勝を狙えるチーム作りを志向するには、どうしても屋根つきサッカースタジアムを実現させないといけない」
この時点では具体的な建設地には言及していない。だが「アクセスのいい場所に」ということは、常に意識の中にあった。
2015年のチャンピオンシップ優勝について、久保会長は「感極まった」と語っている。しかしこの試合後に起きた渋滞によって、少なくないサポーターが広島市内に戻った後に終電・終バスに間に合わないという「帰宅難民」が発生したことも、よくわかっている。
「もっと大きな夢を持って、サンフレッチェを輝かせたい。だからこそ、なんとかサッカースタジアムを実現したい」
2015年の優勝報告会で久保会長が語った言葉である。……
Profile
中野 和也
1962年生まれ。長崎県出身。広島大学経済学部卒業後、株式会社リクルート・株式会社中四国リクルート企画で各種情報誌の制作・編集に関わる。1994年よりフリー、1995年からサンフレッチェ広島の取材を開始。以降、各種媒体でサンフレッチェ広島に関するレポート・コラムなどを執筆した。2000年、サンフレッチェ広島オフィシャルマガジン『紫熊倶楽部』を創刊。以来10余年にわたって同誌の編集長を務め続けている。著書に『サンフレッチェ情熱史』、『戦う、勝つ、生きる』(小社刊)。