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「自分の色を出さずに、他の色を発信することはしない」という指導者としての矜持。ロアッソ熊本・大木武監督インタビュー(中編)

2022.07.24

特集:ロアッソ・リザレクション――もっと赤くなれ#2

どんなチームを率いても、一目でその人が監督だとわかるような、明確な色を持った指導者にして、関わった人をすぐに魅了してしまうような、飾らない人柄と筋の通った一本気な性格の持ち主。ロアッソ熊本の指揮官を務める大木武を慕う者は、後を絶たない。そんな稀代の“サッカー大好きおじさん”は、どのようなキャリアを歩むことで形成されていったのか。中編では偶然に導かれて足を踏み入れた東京農業大学でのコーチ業、立ち上げ当初の清水エスパルスでの奮闘、やんちゃ小僧に囲まれたヴァンフォーレ甲府、充実感に満ちていた京都サンガF.C.とFC岐阜での日々など、その濃厚な指導者キャリアを振り返ってもらおう。

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半年間の“出場停止”がきっかけになった指導者への道

――1991年の8月に母校の農大からコーチのオファーがあったと。そこで現役をやめて、指導者のキャリアをスタートさせるわけですが、この経緯を教えていただけますか?

 「あまり良い話ではないんですけど、僕は選手の時に半年間の出場停止を食らっているんですよ。レフェリーの襟首をつかんで、『オマエ、いい加減にしろ』と。それが1990年のJSL2部の最終戦ぐらいでした。ガキ大将だから仕方ないんです」

――仕方なくはないと思いますけどね(笑)。

 「まあまあ。それで規律委員会にかけられて、お世話になった来海(章)監督と一緒に呼び出されたんです。『オマエは絶対に喋るなよ。謝るだけにしろ』と言われて(笑)、半年間の出場停止になったんですけど、次のシーズンが始まるまでに半年ぐらいの時間があったんですよ。その期間だけ出られない裁定なので、次のシーズンの最初の1、2試合だけ出られないような状況だったんです」

――試合がない間も、“半年”に入れていいんですね(笑)。

 「そう(笑)。でも、たぶんそのことも考えてくれていたのかもしれないですね。それでキャンプをやっている時に、僕が農大にいた時の監督だった方から電話をいただいて、『もういいだろ。現役はやめろ。農大のコーチをやれ』と。当時の監督もいつも練習に来ていたわけではなかったのと、ちょうど大学が創立100周年で、1部に上げたいと。僕ももともとフラストレーションも抱えながらプレーしていましたし、半年間も出場停止になったこともあって、『どうなるかわからないけど、もう選手はいいか』と思ったんです。それで、富士通のサッカー部をやめました。そこから午前中は富士通で仕事をして、午後から大学に行くという生活が始まりました。忙しかったですよ。休みはなかったです」

――現役をやめて、いきなり指導者になったわけですよね。もともと指導者には興味があったんですか?

 「興味はあるにはありました。富士通からは今でいうB級ライセンスを取りに行けとは言われていましたから。それでライセンス講座に行って、あまり時間がなかったので、2年かけて取ったんですかね。でも、今みたいになるとは思っていないですよ。もちろんプロもなかったですしね。ただ、僕が農大の指導をやり始めるぐらいの頃に、日本にプロができるという話が出てきたんですよ。僕には全然関係ないと思っていたんですけど、清水エスパルスから『帰って来い』と。その時はもう農大と話をしていたので、『帰れません』と言ってそのオファーは断ったんです」

――農大とエスパルスの引っ張り合いになったんですね。

 「エスパルスから農大にお願いに来てもらいましたが、行く状況にはならなかったです」

――面白いなと思うのは、まだ大木さんも指導者を始めていない状況なのに、エスパルスも大木さんを指導者として評価していたということですよね?

 「評価していたとは思いませんね。それがまた清水の面白いところで、その頃の東海一高の望月先生は素晴らしいサッカーの指導者だったんですけど、確か富士通の時に、僕が清水に帰って、たまたま東海一高の試合を見てたんですよね。望月先生は子供の頃から僕を知っているわけですよ。それで、急に『ちょっと行くところがあるから、オマエがゲームを見ておけ』と。『ちゃんとハーフタイムに話をしておけ』と」

――ああ、「見ておけ」って、ただ試合を見るだけではなくて、「指導的なことをしておけ」ってことですか!

 「そうです。別にそれで僕の適性を見ていたわけではないと思いますけど、『まあ、コイツに適当にやらせておけばいいか』ぐらいの気持ちだったと思います。清水ってそういう雰囲気があるんですよね」

――同じサッカーだし、清水でやっていたんだから大丈夫だろ、みたいな感じですかね。

 「もちろんサッカーの話もしていましたしね。結局その時は清水には行かなかったですけど」

指導経験ゼロ。「何をやっていいかわからなかった」コーチ業のはじまり

――農大では最初から「指導って面白いな」と思いましたか?

 「全然思わなかったです(笑)。だって、何をやっていいかわからなかったですから。今みたいにこんな情報もないし、指導者だってこんなにいないし、プロだってあったわけじゃないし、自分の経験だけでやっているわけですから、ありきたりの練習しか知らないですしね。その頃の指導者を悪く言っているわけではないですよ。でも、僕もそれに乗っかってきているだけで、『上手くなりたいけど、どうしていいかわからない』というのが自分の現役時代で、自分で練習すれば技術的には上手くなりますけど、チームを教えるとなったら、全然でしたね。少しは考えましたよ。チームを強くするには、どうしたらいいのかということは考えましたけど、タカが知れていますからね。指導経験もゼロですから。その時に和明さんに助けられたんですよ」

――ああ、長澤和明さんですね。

 「和明さんはヤマハの監督だったんですけど、『指導の仕方がわかりません』って電話したら、『ヤマハに来い』と。それでヤマハの練習に行かせてもらったり、農大の試合を見に来てもらったりして。あの人は結構ぶっきらぼうですけど、自分が一番困っている時に助けてくれたんですよね。優しいし、面倒見がいい人なんです。和明さんは忘れているかもしれないですけど、僕は忘れないです。自分が一番困っている時に、手を差し伸べてくれたのはあの人ですから」

――長澤さんはサッカーの指導的にはどういうことを教えてくれたんですか?

 「具体的なことは忘れました(笑)。基本は精神的な部分です。『オマエの思ったことをやれば良い』といった感じですかね。でも、それが僕にとっては凄く心強かったんです。西が丘で試合が終わった後に、大学でお世話になった方の所に一緒に行ってくれたり、いつもそうやって後押ししてくれていた感じでしたね。とにかく心強かったです。

 その頃の農大は1人で指導していましたから。コーチなんて他に誰もいなくて、あとは学生だけです。OBの監督はいらっしゃいましたけど、試合の日に来るだけで、それは僕らが学生の頃と一緒なので、わかっていたことでしたし、全部自分がやると。ただ、その時はまだ自分でボールを蹴れたので、一緒に練習に入ったりしたんですよ。そこで技術的な部分を見せたりして。でも、あの2年間がなかったら、今の自分はないですね。GKコーチもいないので、今は江戸川大学にいる望月一頼という高校の同級生がまだマツダでプレーしていたから、アイツが東京に来た時に僕の部屋に泊めて、『大学生に教えてくれ』と。アイツは土のグラウンドの上に転がって、教えてくれましたよね。感謝しかなかったですよ。

 いろいろな人に助けられました。もう暗中模索、五里霧中。正直、何が何だかわからないという感じでした。まあ、少しずつ見えてくるものはありましたし、自分がやりたいことはあったので、それをどう具現化していくかだったんですけど、それがやっぱり難しかったですよね。指導ができていたとは言えないです。でも、熱はあったと思いますよ。だから、その時の選手たちが2010年のW杯に行く前に、学年問わず20人ぐらい集まってくれて、壮行会をやってくれましたからね。ありがたかったですよ。うれしかったですね。でも、申し訳なかったなと。彼らにはちゃんとサッカーを教えてやれなかったですから」

――農大で1年半指導されて、1993年に一度は断ったエスパルスに行くわけですが、これはどういう決断でしょうか?

 「やっぱり農大がしんどかったんです。それは教えることがしんどいのではなくて、授業があって練習ができないとか、会社に行くこととか、別に社業が足かせになっていたわけではないんですけど、自分の中で思い切ってできないというか、中途半端な感じがあったんですよね。最後は自分で農大をやめて、エスパルスに行きました」

――エスパルスに行くということは、富士通もやめたわけですよね?

 「そうです。サッカーの指導に面白みが出てきたということと、富士通でこのまま仕事をしていくイメージが自分の中に湧かなかったですね。それよりはサッカーに関わりたい気持ちの方が大きかったです。だから、実家の両親には何も言わずに、いきなり荷物を持って帰ったんです。静岡の友達に大きなライトバンで川崎の寮まで来てもらって、それに荷物を積み込んで、実家に帰って荷物を降ろしていたら、両親と『これはなんだ?』『富士通をやめてきた』『は?』って(笑)」

――それはご両親も「は?」でしょうね(笑)。

 「そう。『オマエ、何するだ?』『エスパルスに行く』と。静岡の人だからエスパルスはわかっているわけで、『何やるだ?選手か?』『いや、選手なんてやるわけないだろ』って(笑)」

――でも、そう思うでしょうね(笑)。

 「それで実家ではなくて、エスパルスの寮に入ったんです」

エスパルスでの指導キャリアは練習場の確保から始まった

――エスパルスに入った時は、もう最初から『これからサッカーで生きていくしかないんだな』という感じでしたか?それとも、『プロもできたし、とりあえずまずはエスパルスに入ってみようかな』という感じでしたか?

 「『サッカーで食っていくんだ』とは思いましたけど、自分の中ではそんなに一大決心というわけでもなかったですね。割と軽い感じでした。清水エスパルスに行ったのも、自分の地元だからではなくて、そこにサッカーコーチという仕事があったから行ったと。もちろん地元ではあるんですけど。そこでユースから立ち上げたんです。静岡は高校が強いから、ユースなんて誰も入らないんですよ。だから、高校をやめてしまった子とか、高校でレギュラーじゃない子とか、中学3年生もいましたね。その時のジュニアユースに市川大祐や平松康平が、清水FCで全国優勝を獲って、1年生として入ってきたんです。ジュニアユースは華々しく始まったんですよ。ユースの選手たちも本当にサッカーをやりたいヤツが集まってきました。力量は別にしても、まずサッカーをやりたいという純粋な気持ちの子がほとんどだったので、それは悪くなかったですよ。ただ、練習場がなかなか見つからなかったんです」

――え、そんな感じだったんですか?

 「そもそもエスパルスはトップチームの練習場もなかったですから、ユースなんてなおさらです。トップチームですら富士川の河川敷とか、そういうところでやっていたんですから。まずはユースの練習場を確保するために、ガクエンの井田(勝通)先生とか、静岡北高の高橋先生に練習試合をやってもらったんです。そうすると、試合ができるからグラウンドを貸してもらえるわけです。だから、試合ばかりやっていました。練習試合を快く引き受けてくれた先生たちがいたんですよね。本当にありがたかったです」

――そのユースを立ち上げた頃の選手たちには相当思い入れがありますよね。

 「ありますよ。全部自分たちでやりましたから。寮に入れる手続きを整えたり、セレクションもやりましたし。でも、結局僕はユースの担当は1年で終わってしまったんです。これからという時にサテライトへ“異動”になりました。そこは心残りというか、ちょっと中途半端だったなと感じています」

――その時は大変だったと思いますが、農大やエスパルスのユースが指導者キャリアのスタートだと、今から考えると凄い経験値になっていそうですね。

 「なっていますね。朝から晩までグラウンドにいましたから。ユースの時にも『サテライトの練習に出ろ』と言われていたんですけど、その練習場までエスパルスの事務所から45分かかるんですよ。そこに行って、午前中は練習を見て、ユースの練習をやって、夜は“井田勝通サッカースクール”に行って、と。朝の7時半ぐらいから始めて、グラウンドを出るのは夜の10時くらいですよね。本当にずっとグラウンドにいました」

――真っ黒になりますね。

 「今もそうですよ(笑)」

――確かに(笑)。やっぱりその頃は楽しかったですか?

 「あまり覚えてないですね。でも、必死だったと思います。『サッカーだけでゴハンが食べられるんだな』なんて思っていたかなあ。当時はユースの監督とジュニアユースのコーチをかけ持ちでやっていたんです。指導者も各カテゴリーで1人ずつですよ。そこでジュニアユースと一緒にやれたのも良かったですね」

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ロアッソ・リザレクション――もっと赤くなれ

Profile

土屋 雅史

1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!