風間八宏と遠藤友則。2人の天才同級生と過ごした清水サッカーの黎明期。ロアッソ熊本・大木武監督インタビュー(前編)
特集:ロアッソ・リザレクション――もっと赤くなれ#1
どんなチームを率いても、一目でその人が監督だとわかるような、明確な色を持った指導者にして、関わった人をすぐに魅了してしまうような、飾らない人柄と筋の通った一本気な性格の持ち主。ロアッソ熊本の指揮官を務める大木武を慕う者は、後を絶たない。そんな稀代の“サッカー大好きおじさん”は、どのようなキャリアを歩むことで形成されていったのか。前編ではサッカーと出会って多くの知己を得た清水での原体験、指導者に繋がる東京農業大学での4年間、サラリーマンも経験した富士通での思い出を含め、選手時代を中心に振り返ってもらおう。
みんながやっていたからサッカーを始めた“ガキ大将”
――大木監督は清水のご出身ですが、幼少期の清水はやはりサッカーにあふれた街でしたか?
「いえ。初めはそうでもないですね。僕が小学校ぐらいの頃から、もう亡くなってしまった堀田哲爾先生が清水にサッカーを持ち込んだと聞いています。当時、僕が小学校に入る前の頃は、学校でもまだ『足でボールを蹴ってはいけない』というルールがあるくらいの時代ですよ。それこそ堀田先生がボールをバーンと蹴って、『あ、先生ボール蹴った』と子供が言ったところから、清水のサッカーが始まったと。本当かウソかはわからないですけど。たぶん堀田先生がサッカーをやりたかったんですよね。自分の周りにいる先生を集めて、各小学校に少年団を作っていって、始まったんじゃないでしょうか。その少年団に子供たちが入っていったと。だから、サッカーもありましたけど、地域のソフトボールのチームもありましたから。僕が小学校3年生ぐらいの頃は、もちろんみんなサッカーはやっていましたけど、今ほどではなかったかもしれないですね」
――大木監督とサッカーの最初の接点はどういうものだったんですか?
「みんながやっていたから(笑)。みんなが少年団に入ったからで、好きで好きで、という感じではなかったです。『みんながやるなら、オレもやろう』と」
――むしろサッカーよりも好きなものとかあったんですか?
「それは特にないんですよね。ガキ大将で遊んでいるだけで……」
――でも、ガキ大将だったんですね(笑)。
「それは、そうだね。否定はしない(笑)」
――そうすると、最初は清水市立辻小学校の少年団でサッカーを始めたわけですね。
「そうです。強かったですね。鈴木石根先生という方が監督で、ご本人は亡くなってしまいましたけど、奥様と娘さんがいらっしゃるので、清水に帰れば必ずご自宅に伺いますし、お正月だったら必ず誰かしらいますね。小学校の先生だったので、サッカーの教え子も、サッカーをやっていない教え子も、誰かしら人がいるような家なんですよ。同僚には小花(公生)先生もいて、他にも綾部美知枝先生、小学校の先生ではなかったですけど、東海大一高校の監督をやっていた望月保次先生、そのあたりはみんな堀田先生の教え子ですよ。みんな大学を出て、先生になって、堀田先生の後を継いでいくと。清水はそんな感じです。JC杯のような大会ができて、清水の少年団の中でも上手いヤツが集まる“オール清水”ができて、全国大会にそのチームで出ていくような形ですよね」
――最初はみんなが入っているからという理由で始めたサッカーには、すぐにのめり込んでいった感じですか?
「そうでもないですね(笑)。嫌いではなかったけど、別に特別好きでもなかったです。入ったばかりの小学校3年生の頃はそんな感じで、4年生ぐらいになってから割とのめり込みましたけど、最初はただ行っていただけでしたね。4年生ぐらいから試合に出たり、大会に行ったりするようになってから、必死にやり始めた感じです。むしろ、自分たちより先生たちが必死になってやってくれているイメージで、僕たちは子供だから右も左もわからないんですよ。だから、先生たちに巻き込まれていったような感じですかね」
『ミランの手』で知られる遠藤友則は清水の中でも神童だった!
――先生たちの熱量は凄そうですよね。
「熱量はありました。だから、あれだけの選手が出てくるわけです。今みたいな指導法なんて何もない時代ですから、先生もみんな素人みたいなもので、鈴木石根先生も陸上の方ですから。県下ではその先生を抜ける人はいないぐらい速い人で。学年が上がるにしたがって、一生懸命やるようになっていきました。オール清水に入るかどうかが目標で、僕はそこまでいつも入っていたわけではないんですよね。そこに遠藤友則といってACミランで16年間トレーナーをやっていたヤツがいて。アイツはもう凄かったですよ。神童でしたね」
――遠藤さん! 同い年なんですか!
「そう。アイツが一番でした」
――清水で一番ということは、おそらく全国で一番ですよね。
「一番ですね。間違いない。彼は高校時代に前十字靭帯を切ってしまいましたけど、僕らが高校生の頃なんて『前十字靭帯が切れた』なんてことはわからなかったんですよ。信じられないでしょうけど。なんか膝に力が入らないとか、おかしいとか。それで高校を卒業する時に、千葉の川鉄病院の鍋島先生のところに行って、それでわかって手術をして、『もうこういう想いをする選手は出したくない』ということで、トレーナーの道に入ったんですよ。友則はサッカー選手として、子供心に『凄いな』と。清水だったら、アイツと(風間)八宏ですよ。八宏は中学が一緒で、友則とは中学は違うけど、高校で一緒でしたから」
――風間さんとは清水第一中学校の同級生なんですよね。
「そう。家にもよく来て、ゴハンを食べたりしていましたからね(笑)。お母さんとも仲が良いですよ。でも、そういう選手がゴロゴロいましたから。みんな本当に上手くて。中学の1つ下には内田一夫がいて、2つ下に後藤義一と佐野達もいました。内田と後藤は小学校も僕と一緒で、佐野と八宏は江尻小学校から一中に来たんです」
――長谷川健太さんも中学の後輩だと思うんですけど、そうするとさくらももこさんも大木さんの小学校の後輩ということになりますか?
「いや、2人は入江小学校ですね。健太はそこから一中に来ましたけど」
――今のお話を聞いていると、辻小学校も第一中学校も凄い人材を輩出していますね。
「でも、他の学校にも凄いヤツがまだまだいますから。高校になるとみんな一緒になっていくわけで、トップトップにならないような選手でも、とにかく上手かったですよね」
キャプテン・大木武。副キャプテン・風間八宏。盟友と過ごした清水一中時代
――大木さんと風間さんが小学校6年生の時に、オール清水が全国大会で準優勝したんですよね?
「あまり覚えていないけれど、たぶんその大会はBチームで臨んだ大会だったんじゃないかな。僕も八宏もいわゆる“2軍”だったんです。友則はバリバリの1軍で。別にひがんでいるわけじゃないですよ(笑)。僕は中心にいたわけではないですし、八宏もその頃は僕と同じような立場だったと思います。中学生になって、少し僕たちが台頭していったというか」
――大木さんが辻小学校でサッカーを始めた頃は、まさに清水サッカーの黎明期みたいなイメージですね。
「そうですね。もうちょっと早くからサッカーは盛んになり始めていました。当時はJリーグなんてないので、高校の選手がアイドルでしたから」
――アイドルと言えば、大木さんの小さい頃のアイドルは誰だったんですか?
「西ドイツが好きだったので、(ボルフガング・)オベラーツが大好きでした。ギュンター・ネッツァーと併用ができないということで、どちらが外れるかという問題があって、僕は中学生でしたけど、1974年のW杯の時にはオベラーツが出たんです。ただ、そんな選手はなかなか見られるわけではないので、今言っても誰も知らないような高校生の選手たちがアイドルなんですよ。そういう人を見に、高校生の試合を自転車で見に行くんです(笑)。自転車で静岡工業とか、清水工業とか、東海一高とか、上手い選手がいるチームを見に行くんですよ」
――それはみんなで行くんですか?
「いや、八宏か友則とだね(笑)。それで見に行って、『スゲー、スゲー!』と言って帰ってくると。今の時代にあの人たちがサッカーをやっていたら、どうなっていたんだろうと思いますよね。静岡工業には大石和孝さんや吉田弘さん、石神良訓さんがいて、そういう人たちがアイドルでした」
――大木さんが在学していた頃の清水一中は、清水市内でどれぐらいの強さだったんですか?
「一番ではなかったですね。弱い方ではなかったですけど、県大会で優勝はできなかったです。県に行ったら藤枝のチームもいますから」
――藤枝とはバチバチですよね。
「もう小学生ぐらいから知っていますよね。『藤枝の誰々』みたいな上手い選手は。青島中だ、藤中だと。そういう選手たちが藤枝東高校に行ったり、ガクエン(静岡学園高校)に行ったり。『アイツ、どこに行った?』ということが話題になるんです」
――風間さんと同じ中学でサッカーをされていたことは、やはり今の大木さんのサッカーキャリアに大きな影響がありますか?
「非常にあります。アイツは上手かったです。『アイツを抜く』とか『アイツに取られない』とか、いつも思っていましたよ。抜けないですよ。守備も上手かったですから」
――風間さんはDFだったんですよね?
「SBやCBをやっていたんです。そんなに背は大きくなかったですけどね。守備、上手いんですよ。1対1なんて抜けないです。アイツの凄さは僕が一番よく知っています。中学の時はそこまで有名ではなくて、高校生になって一気にバーンと知られるようになりましたけど、『ああ、そうだろうな』と。だって、ずっと一緒にやっていましたから。今でもプロの選手に言いますよ。『本当にボールを持つのが上手い選手は、守備も上手い。風間八宏はその典型だった』って。ドリブラーと言えば佐々木博和も上手かったですね」
――佐々木さんも同い年ですか?
「そう。同い年。枚方FCですね。アレも半端じゃない。ボールを持ったら、もう凄くて。佐々木と小松(晃次)という2人が枚方にいて、1つ上に安井(真)さんという方もいて。普段はあまり試合はできないわけですよ。清水は8月末に神戸に遠征に行くんですけど、今のノエスタで試合をやるんです。オール清水が唯一なかなか勝てないのが枚方で、近江先生という整形外科医の方が指導されていたと思いますが、公園でずっと1対1をやっていたと聞きましたけど、もうボールを持ったら離さないと。アレには敵わないですね。清水の選手も相当上手かったですけど、佐々木と小松と安井さんは特別でした。向こうは僕のことなんて覚えていないでしょうけど、僕は忘れられません。
一度清水にも来たんですよ。そこで安井さんがとにかく凄くて、『誰だ、アイツ?いつもいないじゃないか』と。そうしたら学年が1つ上だったという(笑)。手に負えないですよ。本当に上手かったです。だから、『今の選手たちとどっちが上手いんだろう?』っていつも思いますよね。今は静岡産業大の総監督をやっている成嶋徹さんはガクエンだから、『今のヤツらと徹さん、どっちが上手い?』と聞いたら、『いや、今のヤツらの方が上手いんじゃない?』と言うけど、僕は『いや、徹さんの方が上手いよ』と。絶対徹さんの方が上手いです。まあ、僕らの『上手い』というのは、『ボールが取れない』ということですけどね(笑)」
――ある本には風間さんと大木さんが1対1の“勝敗表”を作っていたと書いてありました(笑)。
「1対1はやっていましたよ。股抜きしたりとか、とにかくやったなあ。表を作っていたかは覚えていないけど(笑)」
――ポジションは大木さんが中盤で、風間さんがCBですよね。
「そう。アイツが後ろにいたらやられないですから」
――大木さんがキャプテンで、風間さんが副キャプテンだったんですよね。
「それはガキ大将がやるしかないでしょ(笑)。それだけのことです」
――先ほどお話の出たオール清水というのは、選抜チームですか?
「そうです。選抜です。2週間に1回ぐらい練習をやるんですけど、その時の先生が面白かったんです。去年まで町田の育成にいらっしゃった古川一馬先生で、その方は中学の先生で、その練習が楽しくて仕方なかったですね。いつもゲームをやって。今でも仲が良いので、先生と生徒という感じです。中学の時に『止まってプレーできるようになれ』と言われて、意味がわからなかったです。自分が指導者になって、何年も経ってから『ああ、古川先生はこういうことを言っていたんだな』って思うようになっていきました。真意はわからないですけどね」
――先ほど神戸の話も出ましたが、オール清水は遠征にも行くんですね。
「時々ですね。フェスティバルみたいなものに出たりとか。そんなにたくさんは出ていないですけど、必ず定期的に練習があって、遠征は時々ある感じです。枚方とやったり、刈谷とやったり、神戸とやったり。中学の頃はどこに行っても負けなかったですからね。1回だけ枚方に引き分けたぐらいで。オール清水は強かったですよ」
全国大会出場は叶わなかった清水東高校での3年間
――高校は清水東に進学されていますね。
「はい。でも、ガクエンにも行きたかったですね。ちょうど選手権が大阪から東京に行った時の大会で、浦和南とガクエンが5-4の試合をやって、それこそ学年は1つしか違わないですけど、成嶋さんとか宮原真司さんがいて、『あの人たちとやりたいな』と。その時のキャプテンの神保(英明)さんなんて、メチャクチャ上手いですよ。三浦哲也さん、宮本(昭義)さん、本当に上手かったですねえ。GKは森下申一さんで」
――清水東時代は2年のインターハイ予選と3年の選手権予選でともに準優勝ですね。全国大会には出ていませんが、高校3年間の結果という意味ではいかがですか?
「とにかくよく練習もやったので、全国に行けなかったことは本当に悔しかったです。でも、今から考えると行けなくて良かったのかなあと。もしかしたら行っていれば、何か変わったことがあったかもしれないですけど、行かなくても別にその後の人生で後悔したこともないですし、要するに弱かったから行けなかったというだけで、良い仲間にも会えましたし、良い3年間だったと思います。サッカーだけじゃない部分もあったかなと。まあ、実際はサッカーしかやってないけど(笑)。それをみんなが許してくれたというか、先生も許してくれた部分もありましたね」
――3年の選手権予選決勝で藤枝東高校に負けたのは悔しかったですよね?
「悔しかった。メチャクチャ悔しかったです。僕たちは決勝の試合前に『勝ったな』と思っていましたから。油断していたわけではないですけど。でも、負けてしまった。カウンター1本ですね。桜井(浩之)という、今は静岡で学校の先生をやっている選手に決められて。ウチのGMの織田(秀和)と筑波大で同級生ですよ」
――高校選手権という大会は、大木さんが中学3年の時にあの静岡学園の存在があって、華やかで、目標としていたと思いますが、やはり全国に出たかったですよね?
「強いところとやりたかったですね。全国に行って、強いチームと対戦したいという想いは凄くありました。どれくらい自分がやれるのかを知りたい想いが一番ですかね。『どこまで自分はやれるのか』と。今から思えば、その時の自分は自信があったのかもしれないですね。とにかく強いところとやりたいという気持ちでした。まあ、静岡で十分なんだろうけど。だって、静岡は遠征なんてないですから。なぜなら夏休みも、自分たちのところにいればみんな来てくれるので、遠征に行く感覚はなかったですね。いれば、来るから。それが高校生の頃はあまりわからなかったですけど、今から考えれば『そうか』と」
――他県のチームで強かったなあと印象に残っているチームはありますか?
「あまり覚えていないんですよね。ガクエンは『強いな』と感じていましたけど、『負けるわけない』ぐらいに思っていました。負けるなんて発想がないですから。このチームが強かったというような感覚は、高校の頃はないですね」
――やっぱり静岡のレベルが高過ぎたんでしょうね。
「そう思います。いっぱい上手い選手がいましたから。僕はそんなところに入っていなかったですけど、国体選抜で日本のユース代表とやっても、たぶん負けないくらい強かったですよ」
――良い時代ですね。
「良い時代でしょうね。静岡にいる時はそれが自覚症状としてはないんですけど、外に出て行って初めてわかる感じです」
選手としての実力を突き付けられた東京農業大学での4年間
――大学は東京農業大学ですね。これはどういう選択と決断ですか?
「静岡から行っている人が多かったですし、僕は長澤和明さんに憧れていたんですよ。それだけが理由ではないですけど、和明さんは高校の練習にも来ていたんです。上手かったですね。あと、当時の大学は先輩後輩の上下関係もあった時代で、そういうのがないところが良かったんです。農大は一切なくて、先輩後輩が仲良いんです。だから、躊躇もなかったですね。農大の監督が選手権の静岡県予選の決勝の時には会場に来ていて、負けた瞬間にロッカールームに来て、『大木!この悔しさは大学で晴らせ!』と言って出ていきましたよ(笑)」
――2個上に柳下正明さんがいて、1個上に森下申一さんや杉山誠さんがいて、確かに静岡の人が多い環境だとは思いますが、大学に入ってすぐに試合には出ていたんですか?
「試合には案外出れましたけど、上手い人がいっぱいいました。ヤンツーさん(柳下さん)は静岡の人ですけど、浜名高校だと接点はないですし、もっと言えば雲の上の人ですよね。だって、1979年のワールドユースに出ていた方なので、僕からすればとんでもない人ですよ。今は大丈夫ですけどね。そういう上手い人がたくさんいました。ガクエンの宮本さんが4年生にいて、三浦哲治さんが3年生で。静岡と広島の人が多かったですね。1学年は10人ぐらいでしたし、サッカー推薦で入ってきた選手ばかりなので、全体で50人もいなかったんじゃないですか。だから、先輩と後輩も仲が良かったですし、農大は僕にとって良い環境でした。今でも地方に行くと、先輩や後輩が試合を見に来てくれますよね」
――サッカー仲間が全国にいるって最高ですよね。
「そうですね。先日秋田に行った時にも西目農業高校出身の柳橋さんが来てくれたんですけど、あの人も上手かったです。『こんな人がいるのか?』と。驚きました。レベルは高かったですよ。ちょっと他の大学なんて『上手くねえな』みたいな感じがありましたよ。怒られちゃうな(笑)」
――2年生の時のインカレで準優勝されていますね。
「僕はレギュラーじゃなかったです。ベンチでしたね」
――日本体育大と決勝でやって、布(啓一郎)さんにゴールを決められていますね。
「あの時の日体大は本当に強かったです。リーグ戦も日体大に勝てば優勝だったのに、PKを2本もらって、2本外して、引き分けて日体大が優勝したんです。農大もかなり強かったですけど、日体大は強かったですよ。布さんは足が速かったんですよね。でも、大学に入って一番最初にビックリしたのは法政大の川勝(良一)さんですよ。あの人も『何だ、この上手さは。初めて見た!』と思いました」
――静岡でトップトップの人たちを見てきた大木さんでも、川勝さんは凄かったんですね。
「凄かった。川勝さんは上手かったですよ。実戦的だったのは国士舘大のハシラ(柱谷幸一)さんですね。僕はDFだったので、ハシラさんをマークするんですけど、何をやっても通用しなかったです。ちょっと間を空ければ、ドリブルで持って行かれてしまいますし、くっつけばパスをはたかれて走られますし、シュートも上手いですし、ハシラさんはちょっと違いましたね。パーフェクトでした。とてもじゃないけど敵わないですね」
――その2人が今は拓殖大で一緒にコーチをやっているという(笑)。
「パンフレットで見て、僕もビックリしました。川勝さんは上手かったなあ。あの人はセンスが違いますね。年下だったら順天堂大の湯田(一弘)です。湯田も別格でした」
――ちなみに、柱谷さんとDFで対峙したとおっしゃっていましたが、中学の時は中盤だった大木少年は、いつからポジションが変わったんですか?
「高校の時です。でも、器用貧乏ですね。どこでもできるという感じで、大学の時はCFもやりましたよ。富士通に入ったら、前か中盤かでしたけど、良く言えばユーティリティで、悪く言えば中途半端でどこでも使えない選手かな(笑)」
――今から考えると、農大での4年間はサッカー選手としての大木さんにとってはどういう時間でしたか?
「自由にやれたので、自分が上手くなれた時間だったと思います。やらされるのではなくて、自分たちでやれたので。でも、結局4年生になると、自分たちもやるんですけど、下級生にやらせるような状況も出てきたので、やっぱり自分の中では少しずつ力がわかっていった感じでしたね。いつでも上手くなろうとは思っていましたし、それは富士通に行ってからもそうでしたけど、『自分の力はだいたいこれぐらいだな』というのがだんだん見えてきた時期でした。高校の時や大学に入ったばかりの頃は、イケイケの感じはありましたけど、『もうオレはこれくらいだな』というのは見えてきましたね」
――その『これくらい』は具体的に言うと、どれくらいのイメージですか?
「日本リーグには入れるだろうけど、トップトップには行けないかな、という感じですかね。まだ上手くなろうとは思いましたけど」
――静岡であれだけやってきた選手が、その現実を受け入れるのは結構大変じゃないですか?
「そうでもないですよ。でも、自分の中では総合したら負けるけど、この部分だったら負けないなとか、そういうものも少しはありました。もっと言えば、それは人のジャッジではなくて、自分のジャッジなので、『ここだけは譲れない』というのがありましたね。大学サッカーが終わる時には、『サッカーはもうやめようかな』とも思いましたよ。でも、誘ってくれるチームもありましたので、『やれるだけやってみよう』と」
――ちなみに教職って取ってますか?
「取ろうとして、履修の用紙はもらいましたけど、取ってないです(笑)」
――僕は大木さんが学校の先生だったら、良い先生になっていただろうなと思っていたんですけど、その選択肢はなかったんですね。
「ないですね。先生になる気はなかったです。ウチの姉は先生でしたけど、僕は向いてないですよ。でも、友達にいっぱい先生はいますけど、『コイツは良い先生だ』と思うようなヤツは出世しないですね(笑)。これは本当に。僕は先生にはなれないですよ」
富士通で得たものは『サラリーマンも悪くなかったな』という社会経験
――大学卒業後は富士通に入社されるわけですが、これはどういう経緯からですか?
「八重樫茂夫さん(メキシコ五輪銅メダルメンバー)が、OBではないんですけど、大学の監督との繋がりで農大の練習に来ていたんです。当時は電話なんて自分の部屋にはない頃ですけど、僕の部屋にはあって、それで毎朝8時を過ぎると、八重樫さんから電話が掛かってくるんです。『オマエ、決まったのか?』『いえ』『じゃあ富士通に来い』って。『サッカーはやめようかな』とも思っていたんですけど、『誘ってくれるところがあるなら』と思って、決めましたね」
――当時の富士通は日本サッカーリーグ(JSL)の2部ですか?
「2部です。僕より少し上の人はみんな上手かったですよ。でも、僕ぐらいからだんだん仕事の面も考慮して富士通に入ってくると。良い企業ですから。そんな感じだった気がします」
――そうすると、それまでサッカーをしてきた環境とは少し違いますよね?
「全然違います。常にフラストレーションがありました。自分で選んだので仕方ないんですけど、力があり余っていましたね。マツ(松田岳夫)は同期で、上にはワールドユースに出ていた沖宗(敏彦)さんがいて、もう少し上には静岡県出身の杉山豊さんという東京農業大のOBと、中村一義さんという藤枝東時代に日の丸を付けた人もいました。そこへの憧れはありました。でも、僕が入った時にはもういなかったです(笑)」
――大木さんが入社した時の部署は何だったんですか?
「勤労部勤労課安全衛生係ですね。とは言っても“窓際社員”ですから(笑)。やるべきことはやっていましたけど、そんなに熱が入っていたわけではないです。やれって言われたことはやっていましたけど、それ以上のことはやらないぐらいかな」
――そんなに社業を求められるような環境ではなかったと。
「いえ、求められます(笑)。でも、僕が言われたこと以上に食いついていくような感じではなかったです」
――正直、サッカーをやるために入っているわけですからね(笑)。
「そうです。でも、会社の中でも一番忙しい部署に配属されてしまったと。同期は20人ぐらいいましたけど、東大や京大の出身者ばかりでしたよ。新人教育があったんですけど、その同期の使っている言葉や単語がわからなかったのを覚えています。今までの自分が付き合ったことのない人たちでしたから、それはそれで凄く良かったです」
――それは良かったんですね。
「良かった。『こういうヤツらが世の中を仕切るんだ』って。東大と京大は違いますね。僕は学歴社会は好きではないですけど、東大か京大と言われたら『凄いな』となりますね。それは肌で感じました。人間もいいんですよ。凄く良いヤツなんです。ちょっと違いますね。人に対してちゃんとしています。それは凄く大事で、僕みたいな出来の悪いヤツがいても、ぞんざいにしないんですよ(笑)。アレは立派だなと思いましたね。自分がプロになってみて、何が良かったかと言うと、やはりサラリーマンを8年ぐらいやっていたことは凄く良かったです。もしプロだけしか知らなかったら、もうちょっと違う人間だったんじゃないかなって。ただでさえ、社会性のない人間ですので(笑)」
――そうすると、富士通ではサッカーよりも社業に携われたことの方が大きかったですか?
「大きいですね。富士通に行かなかったら、わからなかったことはたくさんあります。会社に入って仕事をして、サッカーのコーチでは経験できないことを経験させてもらいました。経験したことがすべて『身に付いた』とは言わないですけど、このプロの世界に入って、一番最初に思ったことはそれでしたね。『サラリーマンも悪くなかったな』って」
――面白いですね。何となく入った会社で、サッカーではなくて、社業の方で気付きが多かったって。
「会社の仕組みもよくわかりましたし、東大と京大が凄いということもよくわかりました(笑)」
――その「東大と京大」の話をかなり強調されるということは、相当感じたんでしょうね(笑)。
「感じましたよ。だって、いいヤツらなんですから。東大出身の同期の1人は、僕がやめた後に一流企業にヘッドハンティングされていたんですけど、ヴァンフォーレ甲府でJ1に上がった時に、仲の良かった同期に電話したんです。『誰かスポンサーになってくれそうなのはいないか?』と相談したら、その同期と連絡を取ってくれて。結局彼はJリーグに関係している会社にいて、スポンサーにはなってもらえませんでしたけど、会社をやめてからも彼らと話ができたりもしましたし、そんな関係も富士通時代にできたので、良かったですよね。サッカーというよりも、そういった人間関係の方が有意義でした」
ロアッソ・リザレクション――もっと赤くなれ
Profile
土屋 雅史
1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!