好対照なサイドバック像を築いた内田と長友、UCL初の日本人対決
9月17日にグループステージがスタートした2019-20シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ(UCL)。王者リバプールの敗戦などが話題となる中、ザルツブルク対ヘンクでは南野拓実、 奥川雅也と伊東純也との競演が注目を集めた。これまでに数多の選手が挑戦しながら、なかなか実現には至らなかった日本人対決。そこで今回は遡ること9シーズン前、UCLで初となった日本人所属クラブ同士の激突を、あらためて振り返りたい。
2010-11のUEFAチャンピオンズリーグ準々決勝。ともに日本代表の長友佑都を擁するインテルと内田篤人を擁するシャルケの対戦は、2戦合計7-3でシャルケが準決勝に進出した。
日本では“日本人サイドバック対決”として注目されたカードだが、サッカーはチーム全体としていかに機能し、より多くのゴールを挙げたかで勝負が決まるもの。両者の歩みやスタイル、チームにおける役割の違いも踏まえつつ、あらためてこの一戦を振り返ってみたい。
対照的な道程
もともとボランチだった長友は明治大学時代にサイドバックにコンバートされて、持ち前の走力や身体能力、気持ちの強さが開花する。大学3年次の2007年に特別指定選手としてFC東京でデビューを果たすと北京五輪を目指すU-22日本代表にも選出され、2008年にFC東京と契約。そこから瞬く間に頭角を現し、同年には当時の岡田武史監督が率いていた日本代表に初選出された。
激しいマンツーマンと縦の推進力、驚異的なスタミナを生かしたアップダウンは長友のトレードマークとなり、本人の中でも絶対に負けない武器として伸ばしていくことになる。そして初出場となった南アフリカのW杯で主力の左サイドバックとしてベスト16進出に貢献すると、その活躍が評価される形でセリエA(当時)のチェゼーナに移籍。さらに、わずか半年後には欧州王者であるインテル移籍を実現させた。まさにサッカー界におけるシンデレラストーリーのようなステップアップ。そうして迎えたのがこのシャルケ戦だった。
一方の内田篤人は進学校でもある清水東高校で評価を高め、複数のクラブが興味を示す中で2006年に鹿島アントラーズに加入。スピードあふれるドリブルと高い技術に惚れ込んだ当時のアウトゥオリ監督にJリーグ開幕戦で先発に抜擢された。2007年には”調子乗り世代”と呼ばれたメンバーでU-20W杯に参加しベスト16に進出すると、2008年にA代表デビュー。夏には長友と同じく北京五輪のメンバーに名を連ね、左右サイドバックのコンビを組んでいる。1986年生まれの長友と1988年生まれの内田は2歳離れているが、頭角を現した時期が近く、ともに日本を代表するサイドバックとなっていく。
長友がガツガツ守り、ガンガン仕掛けて我が道を切り開いて行ったのに対し、内田はオズワルド・オリヴェイラ監督の下、鹿島が2007年からリーグ3連覇を果たす過程で岩政大樹や小笠原満男と言った選手からゲームコントロールを学び、独自のサイドバック像を形成していった。
そんな内田にとって、シャルケへの移籍は大きな転機だった。Jリーグのベスト11に2年連続で輝くなど、長友とともに国内最高のサイドバックとして認められた内田だが、南アフリカW杯に向かう日本代表では大会前にコンディションを崩すなどなかなかチーム内での信頼を高められず。大会直前の守備的な戦術への転換もあり、長友とは対照的に出場がないまま大会を終えることとなった。彼のシャルケ移籍が正式に発表されたのは、パラグアイ戦で日本がPK戦の末に敗退した2日後のことだった。
開幕当初は負傷離脱もあり出場と欠場を繰り返した内田だが、コンディション面が安定すると出番を増やし、UEFAチャンピオンズリーグでもGS第5節リヨン線でクロスからフンテラールのゴールをアシスト。決勝ラウンド進出に大きく貢献する。内田の右サイドからの展開、そして時にゴール前で見せる懸命なディフェンスがシャルケの躍進を後押しする一因となった。中でも、内田のスタイルに大きく影響を与えたのがペルー代表のジェフェルソン・ファルファンだ。
当時のフェリックス・マガト監督と対立するなど問題児の側面もあったファルファンだが、ピッチに立てばラウンド16でバレンシア相手に2得点を挙げるなど、多大な存在感を示していた。そのファルファンを後方からサポートするのが当時のチームにおける内田の主な役割であり、ファルファンがボールを持てば「個人で仕掛けてくれるので、基本的に追い越す必要はない」と語っていた。その分、献身的なバランスワークでスペースを埋めていたのはもちろんのこと、パス本数がチームで1位になるなどビルドアップのフェーズで攻撃に大きく関与。現在では当たり前となっている、攻撃を組み立てるサイドバックの先駆け的な存在でもあった。
そして邂逅
そんな2人の所属するクラブの対戦が実現した一戦だが、第1レグでは長友はベンチスタートだった。ドイツの強豪バイエルンを破って勢いに乗るインテルは、監督がラルフ・ラングニックに代わって間もないシャルケに対し果敢にゴールを狙いに行き、開始わずか1分、MFデヤン・スタンコビッチのゴールで口火を切る。しかし17分にDFジョエル・マティプの同点ゴールでシャルケが追いつくと、両チームがさらに1点ずつを奪い合うシーソーゲームの展開で前半を終了。
迎えた後半、流れをつかんだのはシャルケだった。ラウールの老獪なゴールで勝ち越すと、さらにラノッキアのオウンゴール、エドゥのこの日2点目となる駄目押しゴールで突き放し、最終的なスコアは2-5。長友に出番が与えられたのは、5点目を奪われた直後の76分だった。
逆転には少なくとも4-0以上の勝利が必要となったインテルは、第2レグでより果敢にプレー。長友がカメルーン代表FWエトーとともに左サイドで高いポジションを取り、内田のいる右サイドにプレッシャーをかけていく。
内田は基本的にエトーをマーク。とにかく自由に仕掛けさせないように辛抱強く守りながら、流れや状況に応じて出場停止のファルファンに代わり右サイドMFを担ったアレクサンダー・バウムヨハンとともに長友にも対応した。
インテルは63%というボール保持率を記録したが、ゲームをコントロールしたのは第1レグに続きシャルケだった。相手にボールを持たせながらも引き過ぎないようにラインの高さを維持しながら、チャンスと見ればシンプルなサイド攻撃から前線のラウールとエドゥに合わせる。そうしたチームのアプローチの中で、内田はエトーと長友を封じつつ、機を見てスルスルと駆け上がりチャンスに絡んだ。置かれたシチュエーションも相まって、ガンガン行く長友とは対照的だった。結果、エトーも長友も決定的な仕事をできずセットプレーからの1点に終わったインテルに対し、シャルケは効率良く2点を奪い突破を決めた。
内田は試合終盤に左足を痛めながら、すでにチームが3枚の交代をしていたために最後までピッチに立って戦った。組織の中で見事にゲームをコントロールして勝利に貢献した形だ。一方の長友は持ち味を存分に発揮できないまま敗れる格好となったが、非常に難しいシチュエーションで、できることが限られていたことは確かだろう。
こうしてUEFAチャンピオンズリーグで初のベスト4に勝ち上がったシャルケだが、続く準決勝ではマンチェスター・ユナイテッドにホームでもアウェイでも完敗。現在もライアン・ギグスやウェイン・ルーニーを擁した当時のマンチェスター・ユナイテッドと対戦した時の衝撃を強く覚えているという内田にとっては欧州最高峰のレベルを、身をもって知ることとなった。
2011年の日本人対決は、日本サッカーを代表する2人のサイドバックがお互いのスタイルを突き合わせた歴史的な記憶として、後世に語り継がれて行くべきものだろう。
Photos: Bongarts/Getty Images
Profile
河治 良幸
『エル・ゴラッソ』創刊に携わり日本代表を担当。Jリーグから欧州に代表戦まで、プレー分析を軸にサッカーの潮流を見守る。セガ『WCCF』選手カードを手がけ、後継の『FOOTISTA』ではJリーグ選手を担当。『サッカーの見方が180度変わる データ進化論』(小社刊)など著書多数。NHK『ミラクルボディー』の「スペイン代表 世界最強の”天才能”」に監修として参加。タグマにてサッカー専用サイト【KAWAJIうぉっち】を運営中。