入り混じる期待と懸念 西野朗がタイで挑む難関
7月1日に起きたタイサッカー協会の“フライング発表”から約半月あまり、前日本代表監督の西野朗氏がタイ代表およびU-23代表監督に無事就任した。日本で19日に行われた会見に続いて、21日にはタイでも会見に臨み、その後、バンコク近郊で行われたタイリーグの試合を視察。タイで監督としての仕事をスタートさせた。目前にはワールドカップ2次予選が迫っている。西野タイがどのように誕生し、タイで受け止められているのか。現地からリポートする。
まずは目前のW杯予選ベトナム戦に集中
バンコクで行われた会見で西野監督は冒頭、「サワディーカップ、ポムチューアキラ・ニシノカップ(こんにちは、私の名前は西野朗です)」とタイ語で挨拶。「(タイサッカー協会の)ソムヨット会長の強い意志、タイサッカー協会の関係者の情熱を感じまして、引き受けることにしました。私だけの力だけではなく、タイの国民のみなさまとともにに戦っていく覚悟です」と抱負を語った。
現状、スタッフを日本から連れて来る予定はなく、コーチ陣に日本人は西野監督ただ一人となる。「日本人スタッフにサポートを受けるという気持ちで乗り込むのではなくて、タイのコーチ陣、それを支えてくれている国民のみなさまと一緒に戦いたいという気持ちがあったから、一人で来ました。自分はそういう中でチャレンジしていきたいと考えています」と答え、「パワーがなくなったら、誰かにすがりましょうか」と笑いを誘う一幕もあった。
9月5日のワールドカップ2次予選初戦まで2カ月もない。リーグ戦で日程は埋まっており、代表としての活動は試合直前の実質10日ほどとなる見込みだ。タイメディアからも時間のなさを指摘する声が上がったが、西野氏は「ロシアワールドカップで日本代表の監督に就任した時も本大会まで2カ月しかありませんでした。私自身は選手が持っている力、今まで日本サッカーがやってきたチーム力を引き出すことが仕事だと思っていました。グループで戦うことをみんなで考えていけば、必ず大きな力になる。それをタイのサッカーでも当てはめていきたいと思っています」と展望を語った。
タイサッカーへの印象を聞かれると、「ワールドカップ予選で日本は(アウェイで)タイに勝つことはできましたが、非常に苦しめられました。日本の立場からすると、何かのきっかけでもう少しチーム力が上げられるのではないか、という可能性をいつもタイに感じていました。それが何かを、みなさんとともに積み上げていきたい」と話した。
今後の目標に関しては、「(ワールドカップ2次予選の)9月5日のホームでのベトナム戦というのが私にとって初めての試合。このベトナム戦に対して勝ちに行きたい。最善を尽くしたいと思います」と述べるにとどめた。契約期間は明かされていない。
西野監督は会見後、タイリーグのムアントン・ユナイテッド対チェンライ・ユナイテッドの試合をさっそく視察。タイ人コーチ陣はまだ正式に発表されていないが、前代表監督のシリサック氏およびU-19代表のイサラ監督が視察に同席した。西野監督はハーフタイム時、サポーターからの声援に応えたり、記念撮影にも気さくに応じていた。25日には今後の代表の活動に関して西野監督とタイリーグの1部、2部各クラブの代表者を交えた会議が開かれる予定だ。
二転三転した協会の新監督選考
ここで西野監督の“兼任”に至る流れを確認したい。タイ代表は今年の1月まで、セルビア人のミロバン・ライェバツ氏が指揮を執っていた。しかし、UAEで行われたアジアカップの初戦でインドに1-4で大敗すると協会はライェバツ氏を解任。コーチだったシリサック氏が暫定監督に昇格した。その後、バーレーンに1-0で勝利を収め、UAEとは引き分け、A組2位で1972年大会以来となるグループステージ突破を果たした。ベスト16で中国に逆転負けを喫したものの、前年のAFFスズキカップ(東南アジアサッカー選手権)でベスト4に終わった鬱憤を晴らすことができた。
問題はここからである。シリサック氏はワールドカップ予選に臨む監督に必要なAFCプロ相当のライセンスをまだ取得しておらず、2次予選に向けて当初から新監督の招聘が必至だった。現に、3月に中国で行われた親善試合チャイナカップがシリサック氏の最後の仕事と当初は報じられていた。そのチャイナカップでタイは中国に1-0で勝利してアジアカップの雪辱を果たすと、ウルグアイには0-4で敗れたが、準優勝で大会を終える。するとソムヨット会長は、AFCが許可するならAFCプロのライセンス受講中であるシリサック氏で予選に臨みたい、と方針を転換する。
迎えた6月の親善試合キングスカップ。タイはベトナムに0-1で競り負けると、インドとの3位決定戦にも0-1で負け、自国開催ながら4位で終えることになった。あくまで親善試合ではあったが、シリサック氏は責任を取って辞任することになってしまった。
一方のU-23代表。タイは東京オリンピックの予選を兼ねる来年1月のAFC U-23選手権の開催国になっている。自国開催の予選で、1968年のメキシコ大会以来となるオリンピック出場を勝ち取るべく、ブラジル人のアレシャンドレ・ガマ氏が昨年11月に監督に就任した。最終候補者には現・Vファーレン長崎監督の手倉森誠氏も残ったが、タイでブリーラム・ユナイテッドやチェンライ・ユナイテッドの監督として実績のあるガマ氏が選ばれた。
しかし、ガマ氏は今年6月に突如辞任を表明し、なおかつ国内リーグの強豪ムアントン・ユナイテッドの監督に、4月に就任したユン・ジョンファン氏の後任として迎え入れられた。代表監督が任期途中で自ら退き、同じ国のクラブの監督に就くという事態に、一体、何が起こったのかと多くの人が訝んだ。ガマ氏の辞任が6月11日、シリサック氏が14日。重要な大会を控える2つのカテゴリーの監督が相次ぎ職を離れてしまったのだ。
ソムヨット会長は日本での会見で「同じアジア人同士なので、タイと日本の文化は似ているところもたくさんある」と話したが、今年1月には「日本や韓国の指導者は規律に厳しく、タイ人に合うかどうか心配」と発言。6月にはスペイン人のカルレス・ロマゴサ氏がテクニカルダイレクターに就任し、ロマゴサ氏がJリーグの某クラブの外国人監督にコンタクトをとったことも判明している。以上のように、協会がここまで一貫性を持って動いてきたとは言えない、というのが正直なところだ。
メディア、サポーターからの期待と心配
とはいえ、すでに西野監督は就任した。代表戦も放送する大手メディアのタイラットは“フライング発表”直後の7月2日に電子版で、西野監督の招聘によってタイ代表のフィジカルや戦術、規律や集中力の向上に加えて、“日本代表の特徴でもある”というプレッシングサッカーが見られる、と大きな期待が伺える記事を掲載した。
サポーターも西野氏の就任に関して「タイ人は監督を追い出すのが好きだから、長く監督を務めてほしい」「成功するに違いない」「時間が少ない。結果が出なくても彼にチャンスを与えるべき」「任命が遅過ぎる」「試合で活躍している選手を選んでほしい」といった、歓迎と心配が入り混じったコメントがインターネットでは散見された。
ワールドカップの2次予選で、ポッド3のタイはグループGに入り、UAE、ベトナム、マレーシア、インドネシアと同組になった。タイ国内では日本や韓国、イランといった強豪国との対戦を避けることができ、前向きに捉えられている。裏を返せば、2次予選通過は必達目標とも言える。
大手スポーツメディア『サイアムスポーツ』のコラムでは「キャティサック元監督はタイをアジアカップ本戦およびワールドカップ最終予選に導いた。それよりも低い成績はおそらく受け入れられない」と書かれた。さらに11月末からは東南アジア版オリンピックと言われる、SEA Games(東南アジア競技大会)がフィリピンで開かれる。U-23代表主体で臨む同大会をタイは3連覇中。仮にタイトルを逃せば、国内で大きなプレッシャーになることは想像にかたくない。AFC U-23選手権に向けても、代表としての活動は昨年11月の中国遠征、今年3月の予選、6月のシンガポール遠征くらいで、継続的な強化が図れているとは言いがたい。
またソムヨット会長は来年2月にも4年の任期が満了となる。再選を目指すのか、態度を明確にしていないが、会長交代ともなれば代表監督人事に影響を及ぼす可能性がある。ワールドカップ予選、SEA Games、AFC U-23選手権、さらに自身初となる海外での挑戦。西野監督は日本をメキシコ大会以来のオリンピックに導いたが、奇しくもタイはメキシコ大会以来出場を果たしていない。西野監督の行く末には大仕事がいくつも待ち構えている。
Photos: Masahiro Nagasawa
Profile
長沢 正博
1981年東京生まれ。大学時代、毎日新聞で学生記者を経験し、卒業後、ウェブ制作会社勤務などを経てフリーライターに。2012年からタイ・バンコク在住。日本語誌の編集に携わる傍ら、週末は主にサッカー観戦に費やしている。