キリアン・ムバッペの成長物語。「100万人に1人」の逸材はこうして生まれた
初代トロフェ・コパ(コパ・トロフィー/U-21 最優秀選手賞)を手にしたのは、下馬評通りこの男だった。一躍スーパースターの仲間入りをした20歳について、ここではモナコ時代をよく知る地元記者の証言を交え、成長過程をたどってみたい。
「100万人に一人の逸材」――フランスでのムバッペの評価はそれくらい高い。サッカー史を彩った名選手たちの中でも傑出した才を放ったひと握りの超スーパースター――ペレ、マラドーナ、プラティニ、ジダン、メッシ、クリスティアーノ・ロナウド―― ムバッペは彼らの系譜を継ぐ存在だと言われている。ここまでのキャリアを見る限り、それは過大評価ではないだろう。
生まれ育ったパリ郊外のボンディで6歳の時にサッカーを始めたキリアン少年は、12歳で国立養成所クレールフォンテーヌのプレフォルマシオン(育成前期)過程に合格。そこで2年間の育成を経た彼は、続く育成後期の場としてモナコを選んだ。そしてプロ契約をめぐって国内外の強豪クラブによる獲得戦争が勃発した中、17歳のFWが決断したのはモナコとのプロ契約だった。プロフットボーラー、キリアン・ムバッペが誕生した瞬間だ。
モナコでは15-16シーズンにフランス国内で非常に権威のあるクラブユースカップ「クープ・ガンバルデッラ」に優勝、翌16-17はトップチームとともにリーグ1制覇を達成した。その後パリ・サンジェルマンに引き抜かれ、そこでも昨季リーグタイトルを獲得、さらには今年7月、19歳でW杯の頂点に……という躍進は今や世界中が知るところだが、育成の後期段階からプロデビューまでを過ごしたモナコでの4年間は、現在のムバッペを作るうえで非常な重要な期間だったと言える。
ここでは、あまり語られることのないムバッペのモナコ時代にスポットを当て、入団からPSGへの移籍に至るまで、彼を身近に追ってきた『ニース・マタン』紙のファビアン・ピガール記者の証言をもとに、“怪物”そして“快男児”ムバッペ誕生の過程を振り返る。
モナコを育成環境に選んだ理由
クレールフォンテーヌ在籍中からムバッペはスカウトマンたちの注目の的であり、養成期間終了後の争奪戦は必至だった。そんな中、彼が選んだのはモナコだった。モナコは早くからキリアンに目をつけていたクラブの一つだったが、決め手となったのは、総合的な条件面が整っていたことだった。モナコのアカデミーは若手の育成にかけて定評がある。ティエリ・アンリやエマニュエル・プティもここの出身だ。
少年時代から神童として注目を集めていたムバッペのキャリアには、彼の両親の意向が常に大きなウエイトを占めているが、両親はまず、モナコのアカデミーの実績を高く評価していた。加えて、パリやリヨンのような都市クラブと比べて、サッカーを取り巻く環境も住環境も静かで落ち着いている。14、15歳の少年にとって、それは理想的な条件だった。
モナコからはムバッペの家族に莫大な謝礼が支払われた。しかし金額だけなら、PSGやレアル・マドリーなどモナコ以上のそれを提示するクラブはあった。アカデミーの評判と環境の良さ、この2つが決定的な魅力となって、ムバッペ一家はモナコを選択したのだった。
「家族はパリ住まいでしたが、毎週末モナコに来てキリアンと一緒に過ごしていました。家族が来た時に水入らずでゆっくり過ごせるようにと、キリアンには寮などではなく、クラブから一人暮らしのアパートも支給されていました」(ピガール記者)
別世界の才能、毎日がハッピー
入団当初からモナコのアカデミーでも、ムバッペの素質は際立っていた。
「とにかくスピードといったら半端じゃなかった。それにばんばんゴールを決める。明らかに他の選手とは別世界にいましたね」(同)
トレーニング中のムバッペは、ちょっとふざけたりするようなところもあったという。それは「怠ける」とか「さぼる」という類のものではなく、学校で天才的な頭脳を持った生徒が、先生の話を聞かずにうわの空でも、いざ問題を解かせると完璧に答えてしまうようなもの。ふわふわやっているように見えても、いざ試合になるとゴールを決めまくって誰よりも活躍し、周囲を一瞬で黙らせてしまうのだった。
「モナコのアカデミーには、あらゆる技能を包括的に伸ばすという哲学があります。当時コーチ陣の中に、ムバッペにもディフェンスをしっかりやることを要求し、それをしなかった時には試合に出さない、というペナルティを科した指導者がいました。その話を息子から聞いたんでしょう。ある日ムバッペの親がクラブにやってきて、そのコーチの指導法について上層部に疑問を投げかけた。しばらく経つと、そのコーチの姿はアカデミーから消えていました」(同)
しかしユーモアがあっていつもハッピーなキリアン自身は、チームメイトとはいい関係を築いていた。仲間たちもキリアンが自分たちとははるかにレベルが違うことは実感していたから、ジェラシーを抱くような次元も超えていた。彼は常に1歳上のカテゴリーのチームでプレーしていたが、そこでもゴールを決めまくっていた。
プロフットボーラー、ムバッペ誕生
2016年、モナコは前述のガンバルデッラ杯に優勝、決勝ではムバッペが2ゴールをマークした。そのわずか数週間後、フランス代表の一員としてもU-19欧州選手権で優勝、この大会では5ゴールを挙げた。そしてここが、彼の輝かしいトロフィー伝説の始まりだった。
2016年3月、ムバッペはモナコとプロ契約を結んだが、ここに決着する前は「まるで戦争だった」とピガール記者は言う。国内外の多くの強豪クラブが獲得に名乗りを上げた。彼を他のクラブに奪われるのを恐れたモナコは、「プロになったら必ず試合に出す」ことを契約時に約束した。ところが最初のシーズンの序盤、レオナルド・ジャルディン監督(当時)はムバッペを使わなかった。
「それはジャルディン監督特有のストラテジーでした。競馬でも、序盤からあまり飛ばし過ぎないように制御して、肝心なところでスパートをかけるでしょう? そのコントロール法と似たようなもので、彼のお気に入り選手だったベルナルド・シルバ(現マンチェスター・シティ)でさえ最初は出し控えていましたからね」(同)だが、ムバッペの両親はここでも「約束が違う」と抗議した。その後ムバッペは試合に出るようになったが、すぐにゴールを決め出した。結果、全コンペティション合わせて26得点14アシストとプロ入り1年目にして驚異的な数字を叩き出し、リーグ優勝に貢献。準決勝に進出したCLでもなんと6得点をマークした。しかもそのすべてが初出場となったラウンド16マンチェスターC戦以降、つまり決勝ラウンドでのものだった。
ジャルディン監督はムバッペに戦術やポジショニングを叩き込んだ。彼の指導下でムバッペの戦術理解度は向上し、守備的な動きの面でも進歩を見せた。
PSG移籍の真相は?
モナコで国内王者になった後、ムバッペはPSG加入を決めた。インタビューで「自分としては優先順位の筆頭はモナコに残ることだった」と語っていた彼のPSG移籍の真相はいまだに謎が多い。彼が目標としているRマドリーとも、契約はほぼ決まりと言われていたが、そこへ一転、パリ行きが浮上した。
確かに、PSGはパリ出身のムバッペにとって子供の頃からサポートしていた心のクラブではある。「(パリに戻ることは)僕が生まれ成長した自分の居場所に帰ること。それはこれまでお世話になってきた家族や周りの人たちへの恩返しにもなると思った」(ムバッペ)。彼の口からは「プロジェクトに魅力を感じた」という、ここ最近の入団会見での決まり文句も飛び出した。
ネイマールとのプレーに魅力を感じたから、という説は「パリとの交渉時にはまだネイマールの移籍は決まっていなかった」と本人が否定している。「トップレベルをわずか6カ月間体験しただけで、フランスを去るべきではないという思いがあった」という発言もあったが、クレールフォンテーヌでの指導者ジャン・クロード・ラファルグも、「今すぐレアルに移籍しても十分成功できる」と太鼓判を押していたし、ピガール記者も「当時のレアルはジダンが率いていた。あのタイミングでモナコから移籍することになんら問題はなかったと感じる」と話す。
一説では、プロ入り前の15歳の頃からムバッペのスポンサーについているNIKEが絡んでいるのではないかという噂だ。ちなみにNIKEは、モナコ、フランス代表、そしてPSGのシャツスポンサーでもある。この夏のW杯前には『98 WAS A GREAT YEAR FOR FRENCH FOOTBALL.KYLIAN WAS BORN』(98年はフランスサッカー界にとって偉大な年だ。キリアンが生まれたのだから)と書かれたNIKE社の巨大な横断幕が、故郷ボンディをはじめ各地に飾られた。
キリアンを支える家族の存在
キリアンの両親は、彼がプロフットボーラーとしての成功を実現するために必要なことはすべてやってきた。そしてこれからもそれは続く。
「父親は非常に頭の良い人。とっつきやすく落ち着きがあってリラックスした雰囲気のある人です。でも、いざという時には、クラブに乗り込む気概を見せる。彼はキリアンと行動をともにして、身近でサポートする役割を担っています。一方、表にはめったに姿を出さない母親は、よりエネルギッシュなタイプで、大事な選択の時に決定を下すのは彼女の役割であることが多い」(ピガール記者)キリアンの契約交渉などを取り仕切る仲介人には、サッカーエージェントではなく弁護士をつけている。それも柔道界の王者テディ・リネールなど数々の著名アスリートをクライアントに持つ、フランスでは超有名な辣腕女性弁護士だ。
スター性を物語るエピソード❶
小さい頃キリアン少年は、家族でこんな遊びをしていたという。それは“インタビューごっこ”。テレビのサッカーの試合でインタビューに答えている選手のセリフを真似して遊ぶのだ。ビデオを回すのは母親の役目だった。2017年3月、18歳でムバッペがA代表に初選出された時、試合後のミックスゾーンにおける落ち着いた受け答えには驚かされたものだが、ムバッペ一家は、いずれキリアンが世間の注目を浴びて、インタビュー攻めに遭うであろう未来を確信していた。
「キリアンはとても優しい好青年で、しかも非常にインテリジェンスが高い。彼は言いたいことを言う。しかし同時に、人が自分からどういうことを聞きたいかを理解して話すんです」「デビュー当時の彼は、弾け飛ぶようなフレッシュさがあった。でもその後はだんだん思慮深くなり、人として完璧であることを目指すようになっていきました」(同)
スター性を物語るエピソード❷
モナコでは、親の“テコ入れ”後に初先発した試合で1得点1アシスト。注目されたCL初先発のマンチェスター・シティ戦でもゴールを決めた。
PSG2年目の今季はリーグ序盤戦、レッドカードで3試合の出場停止処分を受けた後の最初のホームゲームでなんと一挙4得点。10月28日のマルセイユとの“クラシコ”(○0-2)では、試合前の軽食に遅刻したことでトーマス・トゥヘル監督が罰としてムバッペを先発から外したが、62分に出場すると、わずか3分後に先制ゴールをあげてみせた。即、結果を出して評価を一転させる。彼の異質の強さはそういうところにも発揮されている。
2016年にガンバルデッラ杯とU-19欧州選手権、17年にリーグ1、18年にW杯優勝……ムバッペが驚異的なのは、プレーのレベルに加えて、その出世スピードの速さだ。ピガール記者によれば、ガンバルデッラ杯をともに制したメンバーのうち、トップチームで活躍しているのはムバッペただ一人で、他は全員、まだどこかのクラブ、時には2部クラブのリザーブチームで修行中だという。まだ20歳になったばかりなのだからそれも不思議ではない。ところがムバッペは、すでにリーグ2連覇にW杯制覇まで経験している。順調過ぎる彼のキャリアは、今後もこのまま進んで行くのだろうか?
「怖いのはケガですが、本人は物凄く管理に気をつけ、ケガをしにくい体作りを心がけている。食事にも人一倍気を遣っている。それに彼には、なによりも賢さがある。自分の輝かしいキャリアを台なしにするようなことは、絶対にしないはずです」(同)
100万人に一人の逸材の今後に、世界中が注目している。
Photos: Getty Images
Profile
小川 由紀子
ブリティッシュロックに浸りたくて92年に渡英。96年より取材活動を始める。その年のEUROでイングランドが敗退したウェンブリーでの瞬間はいまだに胸が痛い思い出。その後パリに引っ越し、F1、自転車、バスケなどにも幅を広げつつ、フェロー諸島やブルネイ、マルタといった小国を中心に43カ国でサッカーを見て歩く。地味な話題に興味をそそられがちで、超遅咲きのジャズピアニストを志しているが、万年ビギナー。