森保一は、進化を止めない。現役時代を知る書き手が徹底分析
これが本当に、森保一のサッカーなのか。
もっとも驚いているのは、彼のサッカーと5年半、苦楽を共にしてきた広島サポーターかもしれない。
これが本当に、森保一のサッカーなのか。
まず、守備のやり方が違う。リトリートではなくアグレッシブ。広島時代に栄光をつかんだ[5-4-1]のブロック守備ではなく、前からボールを追い回し、全員がボールハントの高い意識をもって攻撃的な守備でウルグアイを追い詰めた。高いインテンシティでリスク覚悟の闘いを挑んだ結果として、何度か苦境に立たされもした。特に後半はサイドから攻め込まれ、カバーニを中心とするウルグアイの高質な速攻を受け窮地に立たされたが、「靴音を聞かせるだけでも相手のプレッシャーになる」という森保流の守備意識を全員に徹底させた。
「多少後手になっても粘り強く、個々の責任において戦ってくれた」とウルグアイ戦で森保監督が語ったような守備は、広島時代から見続けていた。しかし、その前提が違う。
広島時代の守備を一言で例えるならば「ミスター・ブロック」。前任者のミハイロ・ペトロヴィッチの守備のやり方(リトリート)を踏襲し、さらに徹底させた。2013年の連覇時はシーズン15回の完封試合を達成し、平均失点は0.85。2015年、3度目の優勝を果たした時も完封が14試合、平均失点0.88。先制点を取った試合の勝率もめっぱう高く、2013年は17勝2分0敗。2015年は18勝1分0敗。圧巻の「逃げ切り王」だった。
ところがコスタリカ戦も、ウルグアイ戦にしても、ブロックを作ることを優先した守備ではない。もちろん、やろうと思えばできるはずだ。だが、やらない。やらせていない。アジア大会でのU-21日本代表は、かつての広島の匂いを感じた。フォーメーションも、守備のやり方にしても。しかし、A代表は違う。[4-4-2](南野拓実はトップ下というよりもFWの色彩が強い。縦並びの2トップという意識だろう)の形も、アグレッシブなスタイルも。
あるジャーナリストが「もしかしたらスチュアート・バクスターの影響もあるんですかね」と語りかけてきた。1994年、広島をステージ優勝に導いた名将は、もちろん森保監督の現役時代の師である。
その時は「いや、やはりペトロヴィッチでしょう」と答えたのだが、考えてみれば確かにそのとおりかもしれないと思い始めた。ポストプレーヤー+MFの要素を持った万能型ストライカーのコンビ。両サイドハーフにはドリブラーであり得点感覚を持つ選手。ダプルボランチにはボールを追い回してボールを狩り取りにいくスタイル+展開能力にたけた司令塔タイプ。最終ラインの構成こそ、バクスターが快足タイプをそろえているのに対し森保NIPPONは必ずしもそういうわけではないが、アグレッシブな守備のスタイルも、両サイドハーフが攻撃の起点になっていることも、似ているといえば似ている。
「士別れて三日なれば刮目して相待すべし」
ボランチがCBの間に入ってビルドアップする形などは、やはりペトロヴィッチスタイルだ。一方、アタッカーたちが自分の能力を競い合うように自在な動きを見せ、個人の能力を全開にしつつコンビネーションが絡み合う様は2001年、森保一にとって広島での現役最後の監督であるバレリー・ニポムニシ(1990年のワールドカップでカメルーン代表を率い、大旋風を巻き起こした)が見せたアタッキングフットボールを思い出す。
あの時は久保竜彦・大木勉・藤本主税の3トップにスティーブ・コリカ(オーストラリア代表※当時)がトップ下。この4人が圧巻のパワーとコンビネーションを発揮して30試合61得点と爆発した。
1994年のバクスター時代との違いは、創造性だ。プレーの細かなところまで規定しユニットの組み合わせのように組織を編んでいたバクスターに対し、バレリーは個々の発想を重視し、それを繋ぎ合わせる。ウルグアイ戦での日本代表が醸しだしたサッカーはバクスターよりもバレリーだ。
そう考えてみると、5年半もの間一つのやり方・スタイルに徹して広島を率いていた時代から進化し、自分の中に積み重ねてきた財産を複合させているのではないか。そう推論すると、なんとなくではあるが辻褄も合ってくる。
森保一という男は、現役時代から進化を止めない男であった。1999年、京都から広島に復帰した時にはその変容ぶりに驚いた。移籍前は、今の広島で言えば稲垣祥のようなスタイル。アグレッシブに相手を追い、プレッシャーをかけ続け、チームの守備のスイッチを入れる役割を任じていた。ところが復帰後、森保は以前ほどは走らなくなった。そのかわり、周りを動かしていいポジションに配置させ、攻守にわたってチームを統率する本質的な司令塔タイプに変化を遂げていたのである。
中国の名著「三国志演義」には「士別れて三日なれば刮目して相待すべし」という言葉がある。ただ勇猛なだけだった呂蒙という武将が君主である孫権からの教えを受け、学び、いつしか相手の性格までしっかりと分析した献策ができる、知と勇を兼ね備えた武将に成長した。その姿に驚いた人に対して、呂蒙が語った言葉が「士別れて三日なれば刮目して相待すべし」。本当に優れた武将は、いつまでも同じところに止まってはいない。
それは森保一という監督にも言えることだ。2017年、広島における屈辱的な戦績と、監督退任。精神的にもボロボロになりながら、彼はすぐに前を向き、自分自身で成長へのプランを立て、自分でアポイントを取りチケットや宿泊先も準備して、海外のクラブでの研修旅行へ出かけた。
かつて広島で一緒に戦ったトニー・ポポヴィッチや宮澤浩を訪ね、マネジメントの実際をあらためて学んだ。欧州でプレーする浅野拓磨や香川真司、吉田麻也らの案内でヨーロッパサッカーの現実を肌感覚で知った。誰かに手配され、プログラムされたものではなく、自分自身でプランしたからこそ、学びの質量が違う。
成長するのは、選手だけではない
「広島の監督をやめた後、そこから先の自分がどう進んでいくのか、過去に起こったことをどう活かしていくのか。そこに気持ちが切り替わっていきました」
「次のステップとしてもやはり現場で、監督の仕事をやりたい。ただ、自分は(オファー)待つ身ですからね。待っている間、何をしようか。今までの反省を活かしつつ、これまでできなかった種類の『学び』を進めながら、準備をしていこう。いろんなサッカーを見て、サッカー観を広げていくこと。戦術的なことも含め、監督として引き出しをより多く持てるように勉強したかった。
Jリーグの監督をやっていると、長い時間をかけていろんなチームを見たり、他の監督のトレーニングを見ることもできない。視察に行っても試合観戦だけして帰るような感じだった。だからこそ、この機会に料理でいうところの『仕込み』の部分を見たいと思っていたんです」
ロシアワールドカップでも、西野朗という名将のもとで様々なノウハウを身につけた。学びの連続、インプットの繋がりが選手時代に蓄積したものを掘り起こし、複合的に日本代表での仕事にも活かされていると言えるのではないか。
前から激しく追う、切り替わった後にすぐボールにプレッシャーに行く迫力。広島時代の後半、チャレンジしようと試みた「アグレッシブ・ディフェンス」が日本代表で現実化した。
ただそれは、選手のスタイルの違いだけではない。森保一という指揮官が一つだけではなく複数のやり方を、戦い方のパリエーションを確立し、それをしっかりと落とし込む。まぎれもなく、監督として大きな成長を見せたからこそのウルグアイ戦だった。経験や学びによって成長するのは選手だけではない。コーチも、そして監督も、「士別れて三日なれば刮目して相待すべし」なのである。
Photos: Ryo Kubota, Getty Images
Profile
中野 和也
1962年生まれ。長崎県出身。広島大学経済学部卒業後、株式会社リクルート・株式会社中四国リクルート企画で各種情報誌の制作・編集に関わる。1994年よりフリー、1995年からサンフレッチェ広島の取材を開始。以降、各種媒体でサンフレッチェ広島に関するレポート・コラムなどを執筆した。2000年、サンフレッチェ広島オフィシャルマガジン『紫熊倶楽部』を創刊。以来10余年にわたって同誌の編集長を務め続けている。著書に『サンフレッチェ情熱史』、『戦う、勝つ、生きる』(小社刊)。