まるで弾丸のような速度で敵を侵略したかと思えば、決して無鉄砲なわけではなく時間稼ぎするような狡猾さも併せ持つ。ロシアW杯で“誕生”した、信じられない19歳――1998年フランスW杯が“ワンダーボーイ”マイケル・オーウェンの鮮烈とともに記憶されるように、キリアン・ムバッペの伝説も後世へと語り継がれるに違いない。
Kylian MBAPPÉ
キリアン・ムバッペ
1998.12.20(19) 178cm / 78kg FRANCE
■ロシアW杯スタッツ
出場試合(時間):7(564分)
得点 / アシスト:4 / 0
シュート(枠内):8(7)
パス(成功):160(119)
ファウル / 被ファウル:1 / 14
走行距離(1試合平均):51.89km(7.41km)
ロシアW杯決勝当日の『レキップ』紙は、大胆にも表紙でキリアン・ムバッペただ一人をフィーチャーした。あたかも、彼がフランス代表の命運を握っているとでもいうかのように。でも、それは事実だったかもしれない。
彼がいなかったら、フランスは優勝できていなかった。それくらい、ムバッペのロシア大会での存在意義は絶大だった。
もちろん、彼一人の力で優勝トロフィーを手に入れられたわけではない。しかし、フランス代表を成功に導いたデシャン監督の「超ディフェンシブでカウンター狙い」という必勝作戦は、人並み外れたスピードスターのムバッペがいたからこそ実践できたのだ。
彼の威力が絶大なのは、単に足が速いからだけではない。ムバッペには、鋭利な刃物のような切れ味、怖さがある。その鋭さで期待通り相手を苦しめただけでなく、決勝戦での4点目のミドルシュートなど、計4得点を仕留めた高い技術と勝負強さも見せつけ、今大会の最優秀若手選手賞に選出された。
この大会で、19歳の彼が大ブレイクするであろう予兆はあった。13~15歳までのプレフォルマシオン(前期育成)を受けたクレールフォンテーヌでも、その後のモナコの育成所でも、指導者たちはムバッペが“何十年に一人の逸材”であると確信していた。
2017年3月、当時18歳の彼が初めてA代表に招集された時、この新鋭のデビューを目撃しようと、いつもの何倍ものメディアが集まった。折り重なるテレビカメラを前にしても、少しも動じる様子などなく、むしろそれを楽しむかのように冷静に対応していたムバッペの姿には、紛れもなく、この先とてつもないスターに成長するであろう風格が漂っていた。
そして決勝のクロアチア戦、国歌斉唱の場面で、緊張や気合の入り混じった表情のチームメイトたちの中で、彼一人だけ、笑みを浮かべていた。まるでこれから始まる対戦が楽しみで仕方がないと言わんばかりに。
フランスで彼のことを語る時、常に使われるのが“hors norme”という言葉だ。horsは外、normeはノーマルのことで、普通じゃない、つまりは規格外といった意味になる。
準決勝ベルギー戦では、終盤に時間稼ぎをしたことで批判を浴びた。賛否両論あるだろうが、そういった行為も含めて、彼が規格外たる所以(ゆえん)であり、本能的にああいうことをやってのけるのは、何者をも恐れず突破する果敢な速攻同様、彼の才能の一部なのだ。
『footballista』のインタビューで、レイモン・ドメネク元フランス代表監督がこう言っていた。
「真のスター選手というのは、プレッシャーを望んでいる。自分の手で責任を背負いたいんだ。スポットライトが自分に当たることを好み、誰よりも前に出て、みんなが自分のことを話題にするのを好む。そして『よし! 俺についてこい!』と周りを引っ張ってくれる。勝たせてくれるのは、そういう選手だ。ただプレーが格段にうまいとか、自分の技だけを極めている選手ではない」
物怖じしないムバッペも、さすがにチーム最年少だった今大会では先輩をさしおいて「俺についてこい!」はなかっただろうが、いずれ彼がチームの中核としてフランス代表を率いる日がくる。
次は20年も待たずとも、レ・ブルーが再び頂点に立つ日がやってくるかもしれない。
Photos: Getty Images
Profile
小川 由紀子
ブリティッシュロックに浸りたくて92年に渡英。96年より取材活動を始める。その年のEUROでイングランドが敗退したウェンブリーでの瞬間はいまだに胸が痛い思い出。その後パリに引っ越し、F1、自転車、バスケなどにも幅を広げつつ、フェロー諸島やブルネイ、マルタといった小国を中心に43カ国でサッカーを見て歩く。地味な話題に興味をそそられがちで、超遅咲きのジャズピアニストを志しているが、万年ビギナー。