カタール黄金世代を磨き上げるアスパイア・アカデミーとは?
TACTICAL FRONTIER
サッカー戦術の最前線は近年急激なスピードで進化している。インターネットの発達で国境を越えた情報にアクセスできるようになり、指導者のキャリア形成や目指すサッカースタイルに明らかな変化が生まれた。国籍・プロアマ問わず最先端の理論が共有されるボーダーレス化の先に待つのは、どんな未来なのか?すでに世界各国で起こり始めている“戦術革命”にフォーカスし、複雑化した現代サッカーの新しい楽しみ方を提案したい。
言語は思考を規定する――という言説は、非常に興味深い議論を生む。「サピア=ウォーフの仮説」と呼ばれるこの主張は、それぞれが使用する言語というものが人間の世界観形成に大きく関係するというものだ。簡単な例を挙げると、イヌイットは「雪」を表現するのに複数の単語を使い分ける。彼らは、その細分化された言語によって「雪」を非常に細かく分別して理解しているのだ。
実際、この仮説はフットボールの世界でも適応可能なものだろう。例えば、「ディアゴナーレ」というイタリア語がある。これは、ゾーンディフェンスにおける重要な概念であり、「ボールを奪いに行った選手の斜め後ろにポジションを取る」ことを意味する。日本語には現在「ディアゴナーレ」を示す言葉が存在しないので、この動きをカテゴリーとして簡単に理解することはできない。そのため同じゾーンディフェンスの話をしていても、イタリア人の方が細かい分類で個々の動きを理解しやすくなるのだ。“言葉が存在しない国”でゾーンディフェンスの基礎となるカバーの動きを理解させるには、長い説明をしなければならなくなる。
戦術とコミュニケーション
EURO2016で下馬評を覆す戦いを披露したイタリア代表は、指揮官コンテのイタリア語による説明を通じて緻密な戦術を共通理解にまで昇華させることができた。指揮官が脳内に思い描く戦術を選手に完璧に理解させるためには、「互いが理解できる共通の言語」でのコミュニケーションが必要になる。
言語が通じない場合、通訳が両者の橋渡し役となる。しかし、細かい戦術的な指示を伝えるとなると通訳を間に挟んだコミュニケーションは簡単ではない。ラツィオやフィオレンティーナでの指導歴があるデリオ・ロッシ(現レフスキ・ソフィア監督)は「チーム内に7つの言葉を話す選手がいれば、円滑なコミュニケーションは難しい。通訳がいるとしても、彼らは私の感情を伝えることはできないし、強調したいポイントもわかってはくれない」と悩みを打ち明ける。
グローバル化が進むサッカーの世界で、難解な戦術の共有が難しくなっている理由の一つは「言語」だ。異国の選手が限られていた以前であれば、その1人、2人を集中的にサポートできたのかもしれない。しかし、今やレギュラーの過半数が“外国人”であることも珍しくない。
指揮官も、この問題を解決すべく努力している。世界最高の指揮官の一人として名高いペップ・グアルディオラは4カ国語を操り、ジョゼ・モウリーニョも通訳としてキャリアをスタートした「言語の専門家」だ。彼らは選手に戦術的な説明をする際に、様々な言語を使い分けることでコミュニケーションの障害を解消している。
また、高度化する戦術を「言語を介さず」共通認識として刷り込む一つの手段としてテクノロジーが活用されている。クラウディオ・ラニエリは、レスターが誇る欧州最高の分析チームが作り上げた動画を使って個々の選手に戦術的な指示を与えた。しかし、テクノロジーだけでは限界があるのも事実だろう。タブレットを選手一人ひとりに配布し、映像を見せながら説明することによって言語の壁を越えようとした元イングランド代表ギャリー・ネビルは、異国バレンシアで指導者としての結果を残すことはできなかった。
国家戦略「アスパイア・アカデミー」
そんな中、カタールが取り組む国家的育成プロジェクトの根幹を成す「アスパイア・アカデミー」は画期的な施策を実施している。2004年に設立された育成組織は、もともとはサッカーだけに限らないアスリートの養成機関だ。しかし、アカデミーの重心は徐々にサッカーへと傾いていく。2022年にカタールW杯が開催されることを考えれば、当然のことだろう。2014年にアジアの頂点に立ったU-19カタール代表は、その全員がアスパイア・アカデミーの卒業生だった。国家のバックアップを受けた最先端アカデミーは、急速に影響力を高めている。
ソシエダで非凡な育成能力を発揮したロベルト・オラベを育成部門のトップに据えたのを筆頭に、多くのスペイン人コーチを招へい。バルセロナの「頭脳」として君臨し、現在はカタールのアル・サッドでプレーするシャビは、将来監督になるための経験を積むためにアスパイア・アカデミーでの指導に携わっている。カタールの黄金世代を率い、オリンピック予選を戦ったフェリックス・サンチェス監督も元バルセロナのコーチだ。アカデミーの指導者はスペイン人だけではないものの、彼らの指導には一貫性がある。
スペイン化するアスパイア・アカデミーは潤沢な資金力を武器に当時ベルギー2部の古豪KASオイペン(現在は1部昇格)、スペイン下部のクルトゥラル・イ・デポルティーバを買収。シャビが「カタールを大きな変革へと導く、新世代の旗手になる」と絶賛するアクラム・アフィフは、スペインリーグでプレーした初めてのカタール人選手となった。アスパイア・アカデミーの最高傑作として、セビージャやビジャレアルのユースチームを渡り歩いた逸材は、スペイン流の教育が生み出した小柄で俊敏なテクニシャンだ。国外クラブとも連携している同アカデミーは、アジアのユース世代を席巻した黄金世代を次々とヨーロッパのクラブにローンで送り込んでいる。
「スペイン化」と「言語教育」
興味深いのは、アスパイア・アカデミーが「語学学校」を兼ねていることだろう。国外アカデミー留学を積極的に奨励する彼らだが、国内にいる間に言語を習得させようとバックアップしているのだ。スペイン語や英語といった若い選手たちにとって「将来必要となる可能性が高い語学の授業が義務化されている」ことによって、海外移籍にスムーズに適応できるだけでなく、国内のスペイン人指導者とのコミュニケーションの円滑化にも繋がる。彼らが急速にスペイン流を吸収し、まるでヨーロッパのような組織的なサッカーを見せているのはコミュニケーションスキルの賜物なのかもしれない。若いうちから国外へ出ていくことで、さらに言語の習得は進むはずだ。
提携先の一つ、KASオイペンには同アカデミーから移籍した選手たちの教育と生活習慣を見守るためのスタッフが派遣されており、ベルギーでも「18歳までは高校に通う」ことが義務付けられている。ヨーロッパで自炊することになる若者たちのために、健康的な料理を作るレッスンまであるというから驚きだ。チームで長くプレーしていたあるベテランGKは引退後アカデミーに再雇用され、選手と指導者の間を繋ぐ架け橋となっている。万全のサポート体制によって、カタールの若者たちはヨーロッパサッカーに適応するための下地を築く。
外国籍の指導者を雇ったり、ヨーロッパに選手を留学させること自体はアジアでも珍しい取り組みではない。ヨーロッパのビッグクラブも、世界各地にアカデミーを所有している。しかし、カタールとアスパイア・アカデミーが特徴的なのは、国内での言語教育とスペイン人コーチの指導によって「ヨーロッパ基準」に育てた上で、十分なサポート体制ができ上がっている提携先のチームに送り込む、という段階的なステップを踏んでいる点だ。若い選手が海外の異なる環境に馴染めず、力を発揮できないリスクを軽減するのが「言語教育」の役割だ。スペイン語を学んだ選手がスペイン人指導者の下で戦術や技術を学び、提携先で結果を残し、さらなるステップアップを目指す――。アスパイア・アカデミーの試合に欧州のトップクラブからスカウトが集まるのも、決して不思議なことではない。
結城康平コラム TACTICAL FRONTIER
・サッカーを革新したチェスの概念。ポジショナルプレーという配置論
・ポジショナルプレーの実践編。選手の認知を助ける5レーン理論
・“心の筋肉を鍛える”新概念「エモーショナル・マッスル」
・アイルランドの育成を変える「リトリート・ライン」
Photos: Getty Images
Profile
結城 康平
1990年生まれ、宮崎県出身。ライターとして複数の媒体に記事を寄稿しつつ、サッカー観戦を面白くするためのアイディアを練りながら日々を過ごしている。好きなバンドは、エジンバラ出身のBlue Rose Code。