ペレ、マラドーナ、メッシ…ゲームモデルを超える存在、スーパースターと生きること
『戦術リストランテVI』発売記念!西部謙司のTACTICAL LIBRARY特別掲載#8
フットボリスタ初期から続く人気シリーズの書籍化最新作『戦術リストランテⅥ ストーミングvsポジショナルプレー』 発売を記念して、書籍に収録できなかった西部謙司さんの戦術コラムを特別掲載。「サッカー戦術を物語にする」西部ワールドの一端を味わってほしい。
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輪郭のはっきりしない選手がいる。言語化できない、したとしても非常にしにくい選手だ。しかし、その選手が偉大だということは誰が見てもわかる。
言語化できない才能
サーベドラ公園で8歳のディエゴ・マラドーナに遭遇したフランシスコ・コルネーホは、少年が「天才である」と確信したそうだ。リオネル・メッシの少年時代の映像を見る時、我われはそこに現在のメッシを認める。メッシのミニチュアだ。その後、何度も繰り返されるプレーの予告編がすでにそこに映っている。カルレス・レシャックは、ベンチ近くの入口までフィールドの外周4分の3を歩くうちに、テストを受けに来ていたメッシ少年の獲得を決めた。
不思議なことではない。人は、話し出した時に結末まで知っていることは少ない。文字で書かれたものを読み上げるようにきれいに話し終えるのは稀で、話し始めには本人にも話し終わりがわかっていないものだ。ただ、話したいことはすでにある。それはやがて言葉になるわけだが、話し始めた段階ではまだ言葉になっていない。輪郭のはっきりしないモヤモヤした何かである。しかし、そのモヤモヤはまだ言葉になっていないだけで、直感的かつ確信的に「ある」と断言できる種類のものとして存在する。コルネーホとレシャックは、直感的に確信したに違いない。
言語化しやすい選手もいる。デイビッド・ベッカムはその1人だろう。右サイドに開いてパスを受け、左腕を大きく振りかぶり、独特だがきれいなフォームから正確無比なクロスボールが繰り出される。ベッカムは機能性が明確だった。クロスボールを蹴ることができる状況を作り、彼のクロスをゴールに変える準備ができていればいい。ベッカムの何が優れているか、チームとしてどうそれを生かすかは、とても説明しやすい。
ところが、ペレとなるとそうはいかない。マラドーナもメッシも、あるいはジネディーヌ・ジダンも簡単にはいかない。凄いのは誰が見てもわかるのだが、誰も説明ができない。とても大きな才能なのはわかっても、輪郭がぼんやりし過ぎていて境界線がなく、どこまで広がっているのかわからない。パズルのワンピースのように組み込むのが難しい。
「わからないもの」を「ある」と扱う
先人たちの知恵は、彼らをそのまま「わからないもの」として扱うことだった。
セレソンにおけるペレのポジションはレフト・インナーだが、[4-2-4]を発明したブラジル自身がインサイドフォワードのポジションを消滅させてしまったので、17歳のペレのポジションは「ペレ」としか言いようのないものになっている。結局、ペレには生涯「ペレ」という名のポジションが用意され続けた。
マラドーナはペレよりも条件が悪い。そのポジションもペレと同じく「マラドーナ」なのだが、30年間のうちにサッカーが変わっていて周囲の配置が違っている。マラドーナより前に人がいないことも多かった。ペレにはトスタンやババといったCFの相棒がいたが、マラドーナはそれに比べると孤立していて、独力で何とかしなければならないケースが頻発していた。ただ、ペレもマラドーナも1つの場所に固定されることはなく、つまり特定のポジションを与えられていないのは同じ。大きな才能を特定の枠に収めるのではなく、彼らは野放しにして周囲の選手で調整している。フォーメーションはアンバランスで、ペレやマラドーナが何をするかはよくわからないのだが、結局のところそれが一番良い方法で勝てるやり方だということはわかっていた。説明はつかないが、ペレやマラドーナのおかげで点が入るのは確実だった。
まだ話せていない、言葉になっていないけれども、モヤモヤしながら話したいことが確実に存在しているように、まだ言語化されていないけれども直感的にあると確信できるものはフットボールの中にたくさん含まれている。むしろ言語化されているものの方が、はるかに少ないだろう。数値化はふさわしくないのを承知でいえば、1%もないのではないか。そして幸運なことに、人は言語化や数値化されていなくても、そうした存在を理解できる。楽しい音色は何ら音楽的教育を受けていない人にも楽しい音として感知されるし、警告を発する色や意匠は世界中で同じ効果を持ち得る。フットボールの多くのことも言葉になる手前で解決されている。
言葉になっているフットボールよりも、言葉になっていないフットボールの方がはるかに大きい。システムや戦術より、ペレやメッシの方が大きい。だから、幸か不幸か、そのクラスのスーパータレントがチームにいる場合、万難を排して天才を奉じるのが正しいというのが先人たちの知恵である。周囲は彼らにひれ伏し、献身的に働き、その中心で天才たちはポカンとしているわけだ。
言語化も数値化も価値はある。ただ、天才のほとんどが南米人なのは興味深い。南米の言葉はロジックよりポエムで、論理より感覚で理解し、そのいくつかは天才を称える歌である。
Photos: Getty Images
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Profile
西部 謙司
1962年9月27日、東京都生まれ。早稲田大学教育学部卒業後、会社員を経て、学研『ストライカー』の編集部勤務。95~98年にフランスのパリに住み、欧州サッカーを取材。02年にフリーランスとなる。『戦術リストランテV サッカーの解釈を変える最先端の戦術用語』(小社刊)が発売中。