近年の移籍金バブルで日本に伝わってくるのはネイマールやムバッペの天文学的な数字だが、それはトップレベルの一部の現実に過ぎない。そこで、オーストリアを拠点に欧州サッカーの現場に長く携わってきたモラス雅輝氏に昨夏、5大リーグ外の移籍市場への向き合い方を聞いた記事を特別公開。コロナ禍の影響も懸念される中、徐々に活発化しつつある今夏の移籍を読み解く上で役立ててほしい。
※原稿内の情報はすべて2019年8月時点のもの
欧州で20年。異色のキャリア
──モラスさんは16歳からドイツに渡られていたということですが、経歴からお話しいただいてもいいでしょうか?
「出身は東京都なんです。9歳でインターナショナルスクールに入って、その後16歳でドイツに留学しました。ただ当初は1年の予定だったんですが、サッカー文化の根づいた生活が気に入ったので結局そのままドイツに残ることにしました。高校を卒業するとオーストリアに引っ越して、インスブルックの大学に入りました」
──18歳で指導者を志したと伺いました。
「はい。現役時代はGKをやっていたんですが、18歳の時に椎間板ヘルニアになって、このまま競技を続けると歩けなくなると診断されてしまったんです。それで選手としてのキャリアに終止符を打ち、指導者になると決めました。それで偶然高校のクラスメイトのチームがGKコーチを探しているということで、まずそこに飛び込みました」
──この時点でとてもユニークなキャリアですが、さらにオーストリアでマーケティング会社まで立ち上げられていますよね。
「指導者を始めてから最初の7年間は完全に無給だったので、収入源を探さないといけない状況でした。就職という選択肢も考えたんですが、企業に勤めるとどうしてもチームの活動と重なってしまうので、それなら自ら会社を立ち上げて労働時間に対して自分で責任を持った方が、指導者としてのキャリアを築いていけると考えたんです。当然ながら労働時間がハンパなくなったんですが(笑)、会社経営とサッカーチームの監督には共通点が多いことに気づいて、それぞれの仕事に役立ちましたね」
──そこから指導者としてもキャリアアップしてきたわけですが、育成統括ディレクターやSDも務めてきたわけですよね。
「そうですね。GKコーチ、コーチ、ヘッドコーチ、監督、SDすべてやりました。男子、女子、オーストリアサッカー協会の選抜チーム、クラブチームも育成からプロまで、すべてのカテゴリーで仕事をして、日本人として初のヨーロッパ1部のプロクラブの監督もできた。時間はかかっていますが、いろんなキャリアを積むことができていると思っています」
「バブル」と距離を置くドイツ語圏
──モラスさんは20年以上ヨーロッパサッカー界のピッチ内外を見られているわけですが、特にここ5年ほど、トップレベルの選手の移籍で動く金額が100億円、200億円など、以前からは考えられないほど高騰していますよね。こうした変化についてどう思われますか?
「自分がヨーロッパに渡ったのは95年、ボスマン判決の時代で『1人のサッカー選手に1億円以上の価値があるのか』みたいな議論がされていました。今はその100倍以上ですから、まったく違う世界になりましたね。ただドイツ語圏では比較的冷静に捉えられていて、『これはバブルに過ぎない』という空気があります」
──確かにブンデスリーガは50+1ルールがあって外資が規制されていたり、基本的に赤字を出さないクラブ経営というのが定着していて、他のリーグほど極端な状況にはなっていないように見えます。
「まさしくそうです。日本ではスペインやイングランドのビッグクラブが注目されていますが、個人的には、日本人のメンタリティには健全経営の方が馴染みやすいはずなので、むしろドイツ語圏から学べることが多いんじゃないかと感じます」
──確かに、そもそも投資マインドが日本人のメンタリティにそぐわない面はありますよね。あと今の移籍市場では10代や20代前半の若い選手であればあるほど価値があるという評価が蔓延していますが、これについては現場ではどう考えられているんですか?……
Profile
浅野 賀一
1980年、北海道釧路市生まれ。3年半のサラリーマン生活を経て、2005年からフリーランス活動を開始。2006年10月から海外サッカー専門誌『footballista』の創刊メンバーとして加わり、2015年8月から編集長を務める。西部謙司氏との共著に『戦術に関してはこの本が最高峰』(東邦出版)がある。