最近、英国フットボール界ではメンタルヘルスへの関心が高まっているという。というのも、イングランドサッカー協会(FA)の理事長を務めるウィリアム王子が積極的に取り組んでいるからだ。
「心の健康」も重要
英国では、45歳以下の男性の死因の第1位が「自殺」だという。年齢別に見ても、自殺率が最も高いのは「45~49歳の男性」なのだ。そういったことを受け、FAは昨年、ウィリアム王子を中心として「Heads Up」というキャンペーンを打ち出した。これはフットボールの人気と話題性を利用し、肉体と同じくらい「心の健康」も重要だと呼びかけるものだ。
取り組みの一環として、今季のFAカップ決勝戦は、冠スポンサーのエミレーツ航空の協力を得て「The Emirates FA Cup Final」から「The Heads Up FA Cup Final」と改称されることになった。ウィリアム王子は、コロナ禍によるロックダウンを強いられた「こんな時期」だからこそ、心の病に気を付けるべきだと主張する。
改称に際して、ウィリアム王子はエミレーツ航空がメインスポンサーを務めるアーセナルのZoom会議に参加し、監督や選手たちと懇談した。その時に、愛するアストンビラにFWピエール・エメリク・オーバメヤンを誘ったことが話題になった。
ウィリアム王子の人柄があふれる、和気あいあいとした雰囲気のZoom会議には、アーセナル育成部の監督を務めるペア・メルテザッカーも同席していた。メルテザッカーと言えば、2018年にアーセナルで現役を退いた後、キャリア晩年の苦悩を打ち明けたことで知られる。当時、こんなことを語っていた。
「特に最後の1年は何か変だった。プレッシャーを感じて普通ではいられなかった。試合に出られないことがうれしくなったほどだ。練習だけで十分と感じたのさ。6万人の前でプレーするのだから、試合前に吐き気を催すのは当然だと思っていた。私は『引退する』と発表した時に楽になれたんだ」
ランパードの現役時代は「石器時代」
そんなメルテザッカーは、ウィリアム王子との談話の中で環境が変わりつつあることを明かした。
「ここ10年ほどで状況は大きく変わった。みなさんの尽力のおかげだ。私の場合は、打ち明けることに抵抗があった。『自分はもっと強い。決して屈しない』と自分に言い聞かせてきたからだ。でも今は、打ち明けるという“仕組み”が定着してきた」
育成部を統括するメルテザッカーは、子供たちについても言及した。「子供たちにも計り知れないプレッシャーがある。SNSの影響もそうだし、何よりプロ選手になりたいという夢が重圧になる。しかし、実際に成功できるのは1~2%だけなんだ。だから育成部としては、最高の挑戦を提供しつつ、心のケアも最大限にしてあげたい」
ウィリアム王子は、5月28日にイギリス国営放送『BBC』で放送された「フットボールとウィリアム王子とメンタルヘルス」という番組にも出演した。“男らしさ”を崇拝する英国の伝統を覆し、誰かに悩みを相談することの重要性を訴えたのだ。
どうしても悲観的な話ばかりになりそうなテーマだが、王子は番組内で、演説時の重圧を「視力低下」に救われたというユニークなエピソードを明かした。
「大人になるにつれて視力が落ちたが、仕事の時はコンタクトレンズを使わなかったのさ。今振り返ると、それが良かったのかもしれない。人の顔がはっきり見えないことで、重圧を感じずに済んだ」
一方、同番組に出演したチェルシーのフランク・ランパード監督は、現役時代の自分が間違っていたことを認めた。
元イングランド代表選手を父に持つランパードは「感情を表に出さないのが当たり前という家庭で育ったので、あまり感情を共有しなかった」と明かす。「私の現役時代は“石器時代”だったね。今は以前よりも意識が高まった。でも、まだまだできることはある」
「人に選ばれないのは本当につらい」
バーンリーのGKジョー・ハートも出演し、一番つらかった思い出についてマンチェスター・シティ時代を振り返った。
「シティの新監督にして、恐らく“世界で最も重要な監督”との間に起きたことさ。彼は、私を気に入らなかったというよりも、私のある部分が足りないと考えたのさ。キャリア最低の時期だったが、決して“暗黒”ではない」
「もちろん悔しかったけど、受け入れるしかなかった。今も(バーンリーで)試合に出られていないが、仕方のないことなんだ。学生時代ならば、人に選ばれないことは本当につらいだろう。でも、今の私は“挑戦”だと思えるようになった。」
今年1月、FAカップ3回戦は全試合が1分遅れでキックオフした。試合前の1分間で、自分や周囲のメンタルヘルスを意識するという取り組みだった。その時は、関心を持てない人も多かったと思う。しかし、ここまで献身的に訴えかけるウィリアム王子の姿を見ると、考えさせられることがある。
決して英国だけの問題ではない。「こんな時期」だからこそ、私たちも何か少し考えるべきだろう。
Photo: Getty Images
Profile
田島 大
埼玉県出身。学生時代を英国で過ごし、ロンドン大学(University College London)理学部を卒業。帰国後はスポーツとメディアの架け橋を担うフットメディア社で日頃から欧州サッカーを扱う仕事に従事し、イングランドに関する記事の翻訳・原稿執筆をしている。ちなみに遅咲きの愛犬家。