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ボスニア生まれアメリカ育ちの元セルビア代表DFスボティッチの“アイデンティティ”

2020.01.20

一つの国籍では一人の人間を十分にリスペクトできない、語れない

Interview with
NEVEN SUBOTIĆ
ネベン・スボティッチ
(ウニオン・ベルリン)

立ち見席中心のスタンドから解き放たれる、凄まじいまでのボルテージ――ノスタルジックな雰囲気を筆頭に独特の佇まいが注目を集めるウニオン・ベルリン。そんな彼らのサッカー面でのキーマンが、今季加わったネベン・スボティッチだ。歴戦の雄は何を求めてこの地にたどり着き、そして今何を想うのか。

このインタビューは2019年9月のブンデスリーガ第4節、ウニオン・ベルリン対ブレーメン戦のマッチデープログラムに掲載されたもの。自身の選手キャリアはもちろんのこと、複雑なバックグランドを背負うがゆえのアイデンティティや政治的オピニオン、ピッチ外での活動まで――人間スボティッチの魂の声を、ウニオンのスタジアムの熱量に想いを馳せながら楽しんでほしい。

電車通勤、出自、社会的責任

自分を選手ではなく一人の人間として見て、できる範囲で行動を起こして人の助けになる

──ファンからたくさんの質問が届いているから、それも含めて話をさせて。まずこのテーマ。RBライプツィヒ戦の後に君がSバーン(電車)に乗って帰宅するところを撮った写真が拡散されて、「世界的に有名なサッカー選手のスボティッチが電車に乗ってるってどういうこと?」と話題になったけど、この件はもう聞き飽きた?

 「うん。僕はいつになったら、ステレオタイプ的な生活をするサッカー選手としてでなく一人の人間として受け入れてもらえるんだろうね。僕が散歩に行ったとか料理をしたっていうのが話題になるとしたら、それはおかしいでしょ。まあでも、最初の反応は面白かった。今は落ち着いたかな。僕も他の人と同じ、普通の人間だってことをみんなわかってくれたんだろうね。車で通勤する選手もいれば、僕みたいに電車通勤するタイプもいるってことだよ」


──これだけは確かめさせて。どの切符を使っているの?

 「もちろんタダ乗り! いや冗談(笑)。普通の定期券だよ。2週間使うと元が取れる。ベルリンの公共交通機関のサービスはすごくいいから、すごく満足してるよ。最初はいろいろテストしたけどね。ちゃんと時間通りに運行されているのか、あるいは信頼できる交通手段なのか懐疑的だったから。でも、今のところすべてうまく行っているよ」


──落ち着いて通勤できてる? それともよく声をかけられる?

 「同じ車両にいると、いつも話しかけてくるウニオンの同僚(このインタビューの動画を撮影中のロベルトのこと)がいるよ(笑)。それ以外は、通勤用にいろいろ準備しているから。何か読んだり、時には電話したり。電車を降りてからはスタジアムまで森の中を歩くんだけど、それがものすごく気持ちいいんだよね。これまでに経験した通勤路の中で最高の一つだよ。この散歩を利用して、その日のトレーニングに向けてメンタルの準備をするんだ。家に帰る時には、その日あったことを省みる」


──今日の練習には、君が6歳の時にTSVシュバルツェンベルクで指導をしていた男性が来ていたけど、わかった?

 「正直言うと、ずいぶん昔のことだから一人ひとりは思い出せないんだよね。TSVシュバルツェンベルクが彼のようなたくさんの人たちに支えられているのはわかっている。小さいけれど、とても良いクラブだよ。みんなが協力し合っている。あそこで僕はサッカー選手としての最初の一歩を踏み出した。いや、それ以上だった。故郷ボスニアから逃れて来た僕にとっては、適応のプロセスの中でとても重要な一歩だったんだ。本当に、かなり助けてもらったよ」


──当時のことをどのくらい覚えている? ボスニアで生まれたセルビア人としてボスニアからドイツへ逃れ、さらにその後アメリカに行ったわけだけど。

 「10年ドイツで過ごしたけど、来た時は乳児だったから具体的な記憶があるのは幼稚園の時くらいからかな。とてもポジティブで鮮明な記憶がある。小さな村だったのが良かったんだと思う。学校と幼稚園が一つずつあって、分かれていなかったんだ。僕たちはみんな、遊びたいだけの子供だった。あの時代のことを、僕は今でも背負っているんだ。それからアメリカへ移住して少年時代を過ごした」


──その時はどうだった? 僕は8歳の時にリヒテンベルクからフリードリッヒスハイン(いずれも東ベルリンの地区)へ引っ越して、それでも遠過ぎたけど。

 「当時女の子の友達がいたんだけど、旅立つ前に手紙をくれてね。『行かないでほしい』って書いてあった。僕も残りたかった。ドイツでの子供時代は素晴らしかったし、4年生を終えて(ドイツの小学校は4年生までで、その後に進路が分かれる)姉はギムナジウム(進学校)へ行っていて、僕もそこに応募していたからね。でも、家族として決めないといけなかった。ボスニアへ帰るか、それともアメリカへ行くか。僕たちは後ろを振り返るんじゃなくて、前を向いていたかった。それが僕の家族の基本姿勢なんだ。アメリカの大きさと躍動感には目が眩んだよ。ソルトレイクシティのある公園の近くに住んでたんだけど、そこではいつも何かが起きていてね。ありとあらゆるスポーツをいつもやっていて驚いた。新しい友達を見つけて、古い友達との繋がりもキープしていた。当時一番仲が良かった友人は、今でもそうなんだ。全体としては良い経験だったけど、やっぱり適応には少し時間がかかったかな」


──君は以前、「一つの国に属する前に、僕はまず一人の人間だ」と言っていた。この考え方も、自らの経験からくるものなのかな?

 「その通り。君はさっき『ボスニアで生まれたセルビア人』って言ったけど、それは部分的にしか合っていない。人の発言をいちいち訂正したくはないんだけどね。でもこれに関しては本当で、僕は今ではドイツ国民、ドイツ人だ。もちろん、ボスニアでセルビア人の両親の下に生まれて、重要な時期をアメリカで過ごしたのは間違いない。ただ、僕は自分のことを『単数形』だとは感じていないんだよ。単にドイツ人とか、セルビア人とかアメリカ人とか。一つの国籍では一人の人間を十分にリスペクトできない、語れないと思うんだ。一つの国の中でさえも街と田舎、北と南、西と東ではずいぶんと違いがある。僕は紛争地域から来たから、国というアイデンティティによってどれだけ多くの悲劇が起き得るかを知っている。

 だから僕は自分を、グローバルな共同体の一部だと見なしてそれに適応しようとしている。それが、僕が財団を作ってエチオピアの北部で活動している理由なんだ。僕たちは一つの大きな集団だと思っている。出身がドイツだろうがアメリカだろうが、セルビア、ボスニア、エチオピアだろうが、外見とか何語をしゃべるかとかはどうでもいい。目をのぞき込んで、この人は良い人だって気づくこともある。そういう繋がりが僕にとって一番大切なんだ。他のことは副次的。それが、僕が言うところの『僕はまず一人の人間だ』の意味なんだ」


──そんな君は、今のアメリカの政治状況をどう感じている?

 「『Idiocracy』(邦題『26世紀青年』)という面白い映画があってね、お勧めするけど。僕たちがこの先もずっと自分たちのフォーカスをメディアと誇大宣伝に置き続けたら、世界はどうなるかっていうストーリー。大統領がハーレーダビッドソンで議会に乗りつけて、まず1発撃つんだ。エンターテインメントだからみんな好きなんだよね、こういうのが。今の政治って、票集めのためになっていることが多いと思う。大事なのは社会的な発展ではなく勝つこと。特にアメリカの政治では、具体的な政策を作るところからはかなり離れてしまっている。すべては“malleable”(形作られる)。

 一方で、ポジティブな例の一つはバーニー・サンダースだろうね。彼は40年来同じ主張を続けて、そういう動きに抵抗しようとしている。左の方向へ弾みをつけようとしている。これは面白い。僕が今までに学んだのは、社会には左を向いている政治家に対して極端な、絶対にできないようなことを期待する傾向がいつもあるということ。この巨大なシステムの中では、誰もの都合がいいように何かをすることは絶対に無理だ。米国はオバマ大統領の後に右寄りになった。トランプ大統領の後には逆のことが起きるかもしれない。もしかすると、バーニー・サンダースのような政治家に扉が開かれるかもしれない」


──君の財団についても聞かせてほしい。現役時代に社会的なプロジェクトへとここまで力を入れる選手はそう多くないと思う。いつ、どうしてそうしようと決めたの?

 「財団という形を選んだのは、昔からの知り合いの勧めがあったから。最初はその考えに馴染めなかったんだけど、フィリップ・ラームやクリストフ・メッツェルダーが、現役生活中でも多くのことを成し遂げられるということを示した。僕の人としての課題は、自分をサッカー選手ではなく一人の人間として見て、自分のできる範囲で行動を起こして人の助けになることだ。

 例えば、病気で両足を切断しなければならなくなった人がいるとしよう。仕事ができず、家族からの支援もない。社会的に見て、僕らはこういう人たちの力にならないといけない。一方で、働いて、とんでもない額のお金を持っている人がいる。こういう人たちは、望めば助けることができる。2人のうち、どちらが社会的責任を持つべきかははっきりしていると思う。僕はそのバランスを作りたい。フェアな世界に生きたいんだ。でも、フェアネスは自然とそこにあるものじゃなければ、国に任せておいていいものでもない。市民社会の一員として、積極的に努力しなくちゃいけない。

 僕の財団が大切にしているのは“お皿の端を越えて見る”こと、つまり自分の街や周辺だけで活動しないということ。グローバルな社会というコンテクストが重要だった。そして具体的に一つの問題『誰もが清潔な水を得ることができる』ことに焦点を当てて、部分的にでも解決したかったんだ」


──だから、君の財団では井戸を作っている。

 「そう。特に女性と子供たちが、水を得るために何時間も歩かなければならないような地域でね。水源までの遠い道のりと水質の悪さが原因で、ものすごくたくさんの問題が起きる。子供たちが、水汲みに出されて学校へ行けなかったりするのはその一例だ」

https://youtu.be/gMu-_fNJMwg
スボティッチが創設した財団の活動について紹介する動画


──現地で様子を見る時間的余裕はある?

 「夏も冬も、オフの時にいつも現地に行っている。自分たちで確かめることもするけど、ちゃんと機能しているか、各自治体と話もする。ポンプが機能しているかとか近いうちに修理が必要かとか、作った後のチェックもしているよ」


──「ネべンのために得点を」というバナーがスタジアムの両ブロックに掲げらてれいるけど、寄付して支援することもできる?

 「寄付は素晴らしいね。ただ、とても大事なのは好ましくない状況について情報発信をしていくことだ。これはまったく別のテーマでもそう。グローバルな問題に理解と注目を集めたい。将来に向けて『自分とは関係ない』と考えてはいけない。その反対だ。関係ある。将来がどうなるか、僕たちに懸かっている。でも僕たちは、基礎的な知識があるからこそ、具体的に発言したり計画したりできるんだ。知ることはいつでも、観察者が行動に移る最初の一歩となる」

旅路は続く

終わりが見えるところからは、僕はまだかなり遠いところにいる


──話をサッカーに戻すけど、プロとしてのキャリアが選択肢になるとわかったのはいつだったのかな?

 「それはかなり遡らないといけないな。父がサッカー選手だったんだ。しかもボスニアでプロ選手だった。でも、ドイツで僕たちは難民として認められなかった。ボスニアは戦争をしていないって。だから父は、自分の夢を捨てて工事現場で働かなければならなかったんだ。それで自分の夢を僕に託したんだね。そうして、それはだんだん僕の夢になっていった。父はいつでも僕とサッカーのために時間を費やして、サッカーを僕の最優先事項にしてくれたよ。当時僕はTSVシュバルツェンベルクにいて、レベル的にはかなり限界があったけれどね。一番下のリーグだったんだ。楽しむことが最優先だった。アメリカでもそう。当時のアメリカにはタレントをスカウティングして次のステップを踏ませる、ドイツのようにきちんとしたシステムはなかったからね。

 でも僕は幸運なことに、アメリカのアンダー世代代表チームの監督が練習を視察に来たことがあって、彼のチームで練習参加させてもらえた。そこでだよ。僕が初めて、サッカーはドリブルとシュートだけじゃないって理解したのは(笑)。当時の僕が知っていたのはテクニックだけで、戦術なんて知らなかったんだ。その時が僕にとってアマチュアと真剣なサッカーとの境だったね。15歳だった。そこで2年間。それからW杯(2006年ドイツ大会)があった年にマインツで練習する機会をもらって、契約にサインすることができた。ヨーロッパ最高のリーグの一つで育ててもらえるんだってことは、もちろんわかったよ。あれが僕のブレイクスルーだったね」

マインツ2年目、2007年の若かりしスボティッチ。当時はまだ短髪だった


──君はドイツ王者になり、CLの決勝も経験した。まだ満たされていない夢なんてある? それとも、これ以上うまくいくことはなかった?

 「どちらも少しずつかな。これよりはるかにうまくいくなんてことは絶対になかったと思う。僕たちが優勝するなんて誰も予想してなかったしね。思い出すと、今でも鳥肌が立つ。本当に信じられない。それだけじゃなくて、レンタルでケルンにいた時にはEL出場権を獲得することができた。レンタルってだいたい、この先うまくいきますようにってお互いに握手をして終わるんだけど、ケルンでは世紀のお祝いの一員になれた。サンテティエンヌでは16位でスタート(加入時)して、翌シーズンは4位になった。この間、クラブ内でもいろいろなことが起きたけど、良い経験になった。

写真は2010-11シーズンのブンデス制覇時のもの。若き香川真司の姿も

 そして今、僕にはウニオンで何かを成し遂げるチャンスがある。ドルトムント戦の勝利はハイライトだったけど、それで何かを確保できたわけじゃない。20年後にキャリアを顧みた時に、自分のサッカー人生に一つの価値を与えるのは、このウニオンでの仕事だろうね。とはいえ、まだ満たしたい夢はあるよ。僕は要求が高いから、時に無理な目標を設定したりするんだ。自分にとってはそれがモチベーションになるんだけど、目標が高過ぎると言う人も多い。だからここでは、明言はしないでおく。それを達成するために、もうできなくなるまで努力するよ」


──「もうできなくなるまで」というキーワード。プロとしてのキャリアには終わりがある。君の歩みはあとどのくらい続くのだろう? 君の体が決めるのかな?

 「34~36歳になってもハードワークをしていた良いお手本がいる。ただ、彼らは25歳の時にはもう、それを実現できるだけの自律心を備えていた。とてつもない努力が必要になる。これに僕も挑戦したい。終わりが見えるところからは、僕はまだかなり遠いところにいる」


──ウニオンっ子たちにとっては、ネベン・スボティッチがウニオンに加入するっていうのは信じられないようなことだった。君にとってはどうだった? ウニオンから電話があった時には?

 「うーん、そういう交渉はまず仲介人に連絡が入るからね。僕にとってクリアだったのは、ブンデスリーガに戻るか、プレミアリーグでプレーするということ。ウニオンが僕に興味を持っていると聞いた時に最初に思ったのは、もっと情報がほしいってことかな。それは他のクラブでも同じだけどね。先に知りたいこともある。監督はどんな人で就任してからどのくらいかとか、3連敗したら解任されるクラブなのかとか。他の職業でもそうだろう? トップが変わると少し時間がかかる。うまく行くかもしれないし、失敗するかもしれない。

 監督が考えていることも重要だ。どんなサッカーをするつもりなのか。選手がチームに合わなければいけないし、逆もそう。他の要素も当然だけど大切だ。人間的なこととかね。この部分については、僕個人でも情報を仕入れたよ。監督やマネージャーが僕に言ったことについて、選手たちに聞いてみたら『本当にそうだよ』って言っていた。当たり前に聞こえるかもしれないけど、サッカー業界では残念ながらそうでもないんだよ。練習中に誰も反抗しないとか、みんなが勇気を持って行動するとか。そういうことが僕にとってはすごく大事なポイントなんだ」


──ここでのスタートに重圧は感じた? 負傷による長期離脱の後で、ここでまだリハビリもやらないといけなかった。多くの報道では、君がいつ復帰できるのか、待ち切れないという雰囲気があった。

 「それはなかったかな。僕はプレーしたい。僕以上にプレーしたい選手はいない。でもそれは競争じゃない。僕は世界の新聞記者に対して、何も証明しなくていい。僕にとって重要なのは、チームとの1シーズンというコンテクストの中で、正しい判断をすること。2週間早く(開幕戦から)プレーすることもできた。でも、そうするとリスクを負うことになる。それが必要でないのに? そういうプレッシャーを、僕は完全にシャットアウトできる。

 例えば、僕の今までのキャリアからくる期待感や要求。ドルトムントで優勝して、CL決勝でもプレーしたからね。一部の人たちは本気で、だから僕が一人ですべての守備をできると思っているみたいだった。当然そんなことはないし、そのうち収まった。僕は超人じゃないし、チームの中でチームメイトと一緒に動くから僕はベストパフォーマンスを見せられるんだ。ここウニオンでは、誰もが自分のポジションのために戦わなければならない。誰もがプレーしたい。選手はとても多くて、質的にも良く、その中で多くのポジションに何人もの選手がいる。誰が優先されても、誰も文句は言えない。みんながハードワーク、いい練習をしているから。それは練習のレベルのためにいいし、チーム内でお互いをプッシュする助けになる。もしセンターバックが2人しかいなくて、練習で何をしてもプレーできるなら、そうはいかない」


──多くの監督を経験したけど、一番影響を与えた、印象に残るのは誰?

 「僕の場合は比較的はっきりしている。キャリアの半分はユルゲン・クロップの下でプレーしたからね。彼の試合自体への臨み方もそうだし、僕やチームをどう導くかとかにすごく影響を受けた。彼がいかにチーム内である種のダイナミズムを発展させるかを見るのは、貴重な経験だったね。彼はスポーツの専門的な領域で最高であるだけでなく、メンタルという領域でも絶対的だね」

ドルトムント時代のクロップ監督との1枚。マインツからドルトムントへ移る指揮官の求めに応じスボティッチ自身も移籍を決断、ともに栄光をつかんだ


──引退してから住みたい街はどこ? マインツ、ドルトムント、それともベルリン?

 「街自体にあまりこだわりはないかな。例えば、建築とかはそんなに重要視していないし。必要最低限のものがありさえすれば、森の中でも住めるよ。それよりも、関係のある人たちがいるかどうかの方が大切だ。僕にとって、今のところはドルトムントになるね」


──ドイツのどのクラブソングが一番好き? 試合前に選手は意識するのかな?

 「試合前は呼吸練習をするんだ。そこに完全に集中するから、何にも気づかない。僕の経験だと、完売のスタジアムでも本当のファンたちがいないと空っぽみたいに感じることがある。そういう時は、時々疲れたような拍手がまばらに起こるゴルフの試合みたいだと感じる」


──ロッカールームで流れる音楽は国によって違う? どこが一番良かった?

 「ここの場合は(ラッパーの)キャピタル・ブラがかなり多いね。かなり面白いと思ってるよ。僕自身はどちらかと言うとアメリカの音楽、車や女性以上の深いメッセージがある曲が好きなんだ。社会的なテーマだと理想的。ケンドリック・ラマーがいい例だね。彼は人種差別を扱うことが多い。僕を激怒させる音楽。それを僕はピッチに持ち込むんだ。傾向としてはヒップホップがかかっていることが多いかな、アーティストが変わるだけで」


──ドルトムント戦で君のヘディングシュートが決まっていたら喜んだ? それとも謝った?

 「得点して謝ることは絶対ない。でもリスペクトとして、挑発したり雄叫びを上げたりすることもしない。喜びはしただろうけど、大げさなことはしなかったと思うよ」


──僕たちにとってだけでなく、君にとって特別な試合になるであろうことは誰もがわかっていた。君自身にとってはどうだった?

 「試合前はかなりの騒ぎになっていたけど、できるだけ遮断していた。ピッチの上ではごく普通の試合だったよ。相手がどんなパスを出すかとかを僕がわかっていたこと以外は。それはもちろん助けになる。とはいえサッカーってあまりにも目まぐるしく状況が進むから、何か考えてる時間はない。だから頭のスイッチを消して、心を開くことが大事になる。ファンたちとあの瞬間を共有して、その後に昔のチームメイトたちと話ができたのは最高だったよ」


──ネベン、面白い話をありがとう。

 「喜んで。こちらこそありがとう」

Neven SUBOTIĆ
ネベン・スボティッチ

(ウニオン・ベルリン)
1988.12.10(31歳)193cm/ 83kg DF SERBIA

PLAYING CAREER
2006-08 Mainz (GER)
2008-17 Dortmund (GER)
2017 Köln (GER)
2017-18 Dortmund (GER)
2018-19 Saint Étienne (FRA)
2019- Union Berlin (GER)

旧ユーゴスラビア、現ボスニア・ヘルツェゴビナのバニャ・ルカ出身。家族とともに移住したドイツで幼少期を過ごした後、在留許可が満了となった1999年にアメリカへ移り住む。当初は父のいとこがいるソルトレイクシティに身を寄せたが、テニス選手を目指していた姉のアカデミー加入に伴いフロリダのブラデントンに居を移した。彼自身もそこでアメリカU-17代表のコーチに見初められ、U-17とU-20はアメリカ代表としてプレーしている。そしてチームのオランダ遠征の際に代理人の目に留まり、練習参加を経てマインツとの契約を勝ち取った。マインツ加入2年目の2007-08に2部でリーグ戦33試合に出場し頭角を現すと、翌シーズンには指揮官に就任したクロップとともにドルトムントに加入。2010-11、2011-12のリーグ連覇を筆頭に5つのタイトルを掲げた。18年1月から1年半サンテティエンヌでプレーした後、今季からウニオンの一員に。セルビアを選択した代表では通算36試合2得点の数字を残している。

Translation: Takako Maruga
Photos: Bongarts/Getty Images

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