氷上でもチェフはチェフ。現地で見届けたアイスホッケーデビュー
日本でも話題となった、元チェコ代表GKペトル・チェフの“アイスホッケーデビュー”。この試合へと足を運び、“ゴーリー”チェフ誕生の瞬間を目撃したロンドン在住の山中忍さんに、記念すべき一戦の現地の模様を綴ってもらった。
ペトル・チェフがペナルティを止めてヒーローに――と言うと、チェルシー時代の2011-12シーズンのCL決勝を思い出す人が多いかもしれない。だが、37歳の元チェコ代表は、アーセナルでの昨季限りで現役を退いてもなお、自身のGK武勇伝に新たな1ページを加えた。厳密、かつ英国風に言えば「ネットマインダー」としての新たな勇姿。去る10月13日、国内アイスホッケー・リーグ4部に当るNIHL2の今シーズン第3節で、初めてギルフォード・フェニックスのゴールを守ったチェフは、PK戦ならぬ「ペナルティ・ショット合戦」での2セーブを含むマン・オブ・ザ・マッチとして、チームを勝利に導いたのだ。
「子供の頃からの夢の1つ」
まさかの入団発表から4日後という、突然のデビューだった。チェフは、今年6月に就任したチェルシーでの「テクニカル&パフォーマンス・アドバイザー」が現在の本業。副業として新たに籍を置くフェニックスは、チェルシーのトレーニングセンターから20kmと離れていない、同じロンドン郊外南西部サリー州の地元チームだが、当人のスケジュールは、当然ながらアウェイゲームも含めたチェルシーでの仕事が優先となる。プレミアリーグ開催のない代表ウィーク中に訪れたフェニックスのホームゲームは、逃すには惜し過ぎる貴重なデビューのチャンスだったのだろう。何しろ、当日の観戦プログラムに寄せたコメントによれば、祖国での少年時代はアイスホッケーにも熱中していたチェフにとって、「公式戦でのプレーは子供の頃からの夢の1つ」。サッカー界での現役キャリア終了後は、「過去25年間のブランクを埋めようと必死にトレーニングを積んできた」という発言からも、氷上デビューを待ちわびる心境がうかがえた。
そのプログラムは、厚手だが白地の普通紙に印刷された全10ページ仕様。限りなく「お手製」に近い定価2ポンド(約280円)の小冊子が、この試合用に特別に用意されたように、フェニックスにとっても絶好のPR機会だったに違いない。
アイスホッケーは、ウィンタースポーツが盛んとは言えない「サッカーの母国」におけるマイナーな存在。日本を離れて25年の筆者も、チェフの入団発表まで、英国にトップリーグはプロ扱いのアイスホッケー界が存在するとは知らなかった。その上、フェニックスはチェフが練習に参加してきたギルフォード・フレームズ(1部)の2軍。下部で育った若手と少数のベテランで構成されるチームは、「注目」の二文字とは縁遠い。そこに、チーム合流と試合出場の機会が限られることから第3GK扱いとはいえ、世界的なビッグネームが加入したのだ。前述のプログラムには、「アーセナルとチェルシーのファンのみなさん、ようこそ。今後の試合でもフェニックスの応援に来ていただけることを願っています」という、チーム経営者の正直なメッセージも掲載されていた。
実際、当日の試合会場には、サッカー繋がりの「非常連客」が多かった。ホームとなるギルフォード・スペクトラムは、地元のスポーツセンター。プール利用目的でやって来た家族連れは、アイスホッケーの当日券を求める異例の行列(しかも2列!)に仰天していた。チケット代6ポンドを払って階下のスケートリンクに進むと、さすがにレプリカユニフォームを着た常連客の姿も。筆者が割当てられた席の2列後ろには、応援用の太鼓を持参した熟年カップル。
通常の観客数を訪ねてみると、「たぶん、50人ぐらい」との返事だった。それが、この日は900人を超すチーム新記録の大入り。キックオフではなく「フェイスオフ」を前に、ゴールライン上に整列した選手が1人ずつ前に進み出るメンバー発表時、観衆から最も大きな拍手喝采を浴びたのは、左右にチェルシーとアーセナルの紋章がデザインされた特注ヘルメットをかぶるフェニックスの新GKだった。
PK、もとい「PS」戦で
もちろん、「ビッグ・ピート」の愛称で呼ばれたチェフは、アイスホッケーの試合会場で眺めても物理的に大きい。本人憧れのチェコ人“ゴーリー”で、米国NHLでも名を馳せたドミニク・ハシェックにちなんだ背番号39も、サッカー選手として自身の代名詞だった「ナンバー1」に比べればかなり重いが、196cmの長身を総重量約20kgのGK防具で包んだ見た目は巨大。利き腕の左手に持ったスティックを高く掲げて歓声に応える姿は、守護神どころか大魔神のようだ。
いざ試合が始まれば、ゴールマウスでの存在感も相変わらず大きい。いきなり飛んで来たパックを難なくキャッチしたかと思えば、氷をスティックで叩いて、攻撃に転じる味方を鼓舞する。伸ばした右手でパックを弾き出した、サッカーで言うところの「ワン・ハンド・セーブ」には、感嘆の溜息と、「イエス!」と叫ぶ声の混じった観衆の反応。第1ピリオド20分間を0-0で終える頃には、チェフ目当てのにわかファンはもとより、「レッツ・ゴー、ギルフォード!」と歌いながら、互いに開幕2連勝中だったワイルドキャッツ2との直接対決に駆けつけたサポーターたちも、すでに新GKのパフォーマンスに満足そうだった。
15分間のインターバルを経た第2ピリオド、フェニックスは先制に成功するが、ゴール前の混戦からニアサイドに押し込まれてリードを取り消され、さらには逆にリードを奪われてしまう。最終の第3ピリオドで再び試合を振り出しに戻したが、2-2で突入した5分間の延長戦は両軍無得点。そして、チェフの見せ場が訪れることになった。本人も、顔を上げれば目に入る対面の電光掲示板に表示される残り時間を眺めながら、まるで運命のようなペナルティ・ショット合戦を覚悟していたはずだ。
ホーム観衆の望みは、言うまでもなくチェフのセーブ。背後のゴールは、高さ120cmで幅180cmと、サッカーのゴールよりもはるかに小さく、ゴールを決められる確率も低い。だが相手は、サッカーのPKよりもはるかに長い助走から、パックをスティックでコントロールしながら近距離で“ドリブルシュート”を撃ってくる。おまけに、アイスホッケー公式戦で初体験の「PS戦」は、チェフにとって7年前のCL決勝以来となる「PK戦」でもあった。
しかし、フェニックスの新GKは期待を裏切らなかった。1本目からセーブを披露して敵の機先を制し、サドンデスとなった5人目のショットを低い体勢のまま左に動いて弾き出すと、スタンドから「イエェェェーッ!」という歓喜の雄叫びが沸き起こった。
サッカーのGKとして、CL優勝を決めたアリアンツ・アレナのピッチで真っ先に走り寄って来たのは、最後のPKを決めたチェルシーのCFディディエ・ドログバだったが、アイスホッケーのネットマインダーとして、ギルフォード・スペクトラムのリンクで、チームの開幕3連勝と自身のデビュー戦勝利を決めたチェフには、フェニックスの仲間たちが次々に滑り寄ってきた。
試合後、観衆への感謝の場内1周、勝利チームの集合写真、そしてチームメイト数名との記念写真も終えて最後にリンクを去ったチェフは、ヘルメットを脱いだ額に汗を光らせながらも、清々しい笑顔を浮かべていた。幼い頃からの夢が叶ったのだから当然。そう思いきや、実は勝利の微笑みだった。プログラムのコメントにも、「勝負の懸かった大事な一戦」との一言があったが、フェニックスの大物新戦力は、普段のホームゲーム後は必要のない会見スペースとして、ドアに「メディアルーム」と書かれた紙が張られた一室での質疑応答でも、開口一番に「とにかく勝ちたかった」と口にした。勝利への意欲、集中力、安心感、そしてビッグセーブ。ゴール前に立つチェフの魅力は変わらない。その足下が、緑の芝から白い氷へと変わっても。
Profile
山中 忍
1966年生まれ。青山学院大学卒。90年代からの西ロンドンが人生で最も長い定住の地。地元クラブのチェルシーをはじめ、イングランドのサッカー界を舞台に執筆・翻訳・通訳に勤しむ。著書に『勝ち続ける男 モウリーニョ』、訳書に『夢と失望のスリー・ライオンズ』『ペップ・シティ』『バルサ・コンプレックス』など。英国「スポーツ記者協会」及び「フットボールライター協会」会員。