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“ピクシー”ストイコビッチ=シンプル・イズ・ベストの極致

2019.10.16

ドラガン・ストイコビッチ

現代戦術で読み解くレジェンドの凄み#6

過去から現在に至るまで、サッカーの歴史を作り上げてきたレジェンドたち。観る者の想像を凌駕するプレーで記憶に刻まれる名手の凄みを、日々アップデートされる現代戦術の観点からあらためて読み解く。

第6回は、世界的名手にして日本サッカー史にも偉大なる足跡を残しているドラガン・ストイコビッチ。圧巻のスキルで相手を翻弄した選手としての顔と、名古屋グランパスでJ1制覇を成し遂げた監督としての顔。2つの側面から“ピクシー”を振り返る。

レッドスターの星人

 FKラドニツキ・ニシェでプロデビューしたのが16歳。当時、試合中にPKを得ると、ルーキーであるにもかかわらずキッカーを志願した。大胆にも“パネンカ”を狙ったが失敗。ところが次の試合でもPKを蹴り、今度は成功させたという。ただ才能にあふれた若者というにとどまらず、気迫のこもった大器の片鱗を見せていた。

 1986年に名門レッドスター(ツルベナ・ズベズダ)へ移籍。24歳の時には「星人」に叙せられた。クラブ名「赤い星」のスターだから星人。レッドスターには5大星人がいるが、わずか3年間のプレーで選出されたのはドラガン・ストイコビッチだけである。ニックネームのピクシーは「妖精」の意味だが、もともとはアニメの主人公からとったものだそうだ。

 ピクシーは世界のスーパースターになるはずだった。

 1990年イタリアワールドカップでユーゴスラビア代表のベスト8進出に貢献。決勝トーナメント1回戦のスペイン戦は独壇場だった。左からのクロスボールを味方がすらそうとヘッド。高く上がったボールがファーサイドにいたピクシーの下へと落ちてきた。慌ててスペインのラファエル・マルティン・バスケスがシュートコースに体を投げ出すと、ピクシーはシュート体勢からピタリとコントロール。バスケスはピクシーの目の前を猛スピードで滑っていっただけだった。狙いすましてゴール。さらにFKからカーブをかけた完璧なシュートも決めている。

 準々決勝のアルゼンチン戦は、ディエゴ・マラドーナをマークしていたDFシャバナジョビッチが30分過ぎで退場となり10人での戦いを強いられる。一歩も引かなかったが、PK戦で敗れてしまった。しかし、この試合ではマラドーナを上回る活躍を見せていた。

 ワールドカップ後、フランスのマルセイユへ移籍。当時のマルセイユはアディダス社を買収したベルナール・タピ会長の下、大型補強を敢行する最も野心的なクラブだった。ジャン・ピエール・パパン、エリック・カントナ、アベディ・ペレ、クリス・ワドルなど錚々たる顔ぶれに加えられたピクシーには背番号10が与えられた。

 しかし、開幕早々に左ヒザに重傷を負ってシーズンを棒に振る。CL決勝は古巣のレッドスターとの対戦だったが、わずか数分間のプレーにとどまった。ピクシーの欠場中にペレとワドルの両サイドが機能していたため、居場所を失ったピクシーはイタリアのエラス・ベローナへ貸し出される。だが、セリエAのサッカーには馴染めないままだった。

 1992年にマルセイユに戻ったが、チームはこのシーズンの国内リーグでの買収行為が発覚。CLでは念願の初優勝を成し遂げたが、フランスリーグは2部へ降格となった。

 この1992-93シーズンが始まる前のEURO1992では、ユーゴスラビア代表が内戦の影響で出場資格を剥奪されている。ちなみにEUROで優勝したのは、ユーゴに代わって出場したデンマークだった。このシーズンはピクシーにとって、実に踏んだり蹴ったりだったわけだ。

 世界のスーパースターになるはずだったのに、その才能を十分に発揮することもなくヨーロッパでのキャリアは終わった。

 だが、ピクシーは日本で輝くことになる。1994年に名古屋グランパスへ移籍。ヨーロッパの人々が見損なった“本物のピクシー”を見られたのは日本人だった。

写真は1998年フランスワールドカップ時のもの。ユーゴスラビア代表として84試合15ゴールを記録している

異名は“東欧のマラドーナ”、実態は

 ピクシーはブラジル人の言う“クラッキ”で、「違い」を作ることができるアタッカーである。得点とアシストの両面で貢献し、飛び切りクリエイティブなプレーで観客を楽しませる。この時期にはまだマラドーナも健在で、ミカエル・ラウドルップ、エンツォ・フランチェスコリ、デニス・ベルカンプ、ロベルト・バッジョもプレーしていた。もう「10番」の居場所がなくなりつつあった時代だが、最後の百花繚乱と言えるかもしれない。

 かつて“東欧のマラドーナ”と呼ばれたピクシーだが、プレーの雰囲気が近いのはむしろヨハン・クライフだと思う。鋭利なフェイント、正確無比のパス、そして意表を突く数々のアイディア……。名古屋を率いていたアーセン・ベンゲル監督は、アーセナルへ赴く際にピクシーを連れて行くことを熱望していた。ベンゲル監督の目指すスピーディーでクリエイティブなプレーに不可欠の存在と考えていたようだ。名古屋に残ったピクシーの代わりがデニス・ベルカンプというのは納得の人選である。

2013年のプレシーズンマッチで監督として再会したストイコビッチとベンゲル

 ピクシーのプレーはシンプルだ。ドリブルで抜く時もアウトサイドかインサイドでの切り返しのみ。相手の重心移動を見極めて逆を突く眼が素晴らしい。そしてボディバランス。軸のブレない安定感は切り返し後の復元で威力を発揮し、そのバランスの良さはキックの精度にも繋がっている。ショートパス、ボレー、ロングパス、ふわりと浮かすロブ、どれもピンポイント。抜群のスキルが余裕を生み、余裕がアイディアを生んでいた。フィールドで彼だけが別次元にいるようだった。

 才能の大きさから言えば世界トップクラス、その全盛期が日本だったのは世界的には損失だったかもしれないが、日本人にとっては幸運だった。

監督としての顔

 名古屋で引退したピクシーは2008年に監督として戻って来た。3年目の2010年にはJ1優勝を成し遂げている。

 玉田圭司、金崎夢生、ジョシュア・ケネディ、田中マルクス闘莉王、マギヌン、ダニルソン、中村直志、楢崎正剛など、充実したメンバーで首位に立つとそのまま優勝。18年目にして初のリーグ優勝だった。

 ストイコビッチ監督を支えたのがコーチのボシュコ・ジュロヴスキ。彼はストイコビッチがレッドスターの会長だった時に監督を短期間務めたが、解任されている。自分が解任した監督をアシスタントとして連れてきたのだから、手腕を買っていたのだろう。ベンゲル監督にボロ・プリモラツという右腕がいたように、名古屋ではジュロヴスキが守備、ストイコビッチが攻撃面を担当してチームを作っていった。

 6年間はかなりの長期政権だ。リーグ戦績は3位、9位、優勝、2位、7位、11位。浮き沈みはあるとはいえ、名古屋を強豪クラブに押し上げた手腕は十分評価に値する。ただ、監督としてのストイコビッチに選手時代のインパクトはない。天才というより、チームを掌握する堅実な監督というイメージである。選手としての才能と監督のそれは同じではない。ファンはどうしても選手時代のイメージを追ってしまうが、監督としてのストイコビッチはまた別なのだろう。

 2009年の横浜F・マリノス戦で、横浜FMのGKが蹴り出したボールをベンチから飛び出して50mのボレーシュート(?)をゴールインさせたのが、世界にその名を知らしめたという意味ではハイライトかもしれない。

 ただ、ベンゲルはアーセナルでの後任としてストイコビッチの名前を挙げていた。志向するプレーが似ているという。2015年に中国の広州富力の監督に就任し、今年で5年目になる。初年度は14位だったが、6位、5位、10位と上位に食い込む力をつけている。こちらも契約満了まで務めれば名古屋と同じ6年になる。現在の監督としては、いずれも例外的に息が長い。選手時代の名声が通用するのは、せいぜい数カ月に過ぎないので、在任期間の長さは監督としての能力を示している。

 ベンゲルだけでなく、ユーゴスラビア代表ではイビチャ・オシム監督の下でもプレーした。名将と過ごした経験は監督としての糧になっているに違いない。ストイコビッチ監督は、志を同じくするクラッキを得た時に手腕が最も発揮されるのではないかと思う。名古屋で玉田をスターにしたように、彼の下に「ピクシー」が現れた時に、どう扱うべきかを知っている監督なのではないだろうか。

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Photos: Getty Images

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Profile

西部 謙司

1962年9月27日、東京都生まれ。早稲田大学教育学部卒業後、会社員を経て、学研『ストライカー』の編集部勤務。95~98年にフランスのパリに住み、欧州サッカーを取材。02年にフリーランスとなる。『戦術リストランテV サッカーの解釈を変える最先端の戦術用語』(小社刊)が発売中。

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