川辺駿に求められる「雰囲気」。広島番記者がみる、凄みと課題
9年の歳月を経て、主役の座に
上手いなあ。いやー、上手い子だなあ。
背番号6を背負った15歳の少年に、痩せて細くて小さい背番号6に、見入っていた。
2010年12月23日、高円宮杯U-15だったと記憶している。場所は徳島市球技場。相手は「関東屈指の強豪」(高橋真一郎ユースダイレクター ※当時)横浜FMジュニアユース追浜。のどかな風景が広がるグラウンドで、川辺は大人びた、中学生とは思えないほどのクオリティを見せていた。
この試合の川辺は宮原和也(現名古屋)、浜下瑛(現栃木)とトリオを組んで中盤を形成していた。とにかく激しく走り回る浜下は、広島の選手で例えて言うなら稲垣祥。ドリブルが切れるテクニシャン・宮原は、若き日の柏木陽介。そして前のめりな彼らを睥睨(へいげい)するように背筋を伸ばし、ボールを走らせ、仲間を走らせる川辺のスタイルは、攻撃的な役割を任された時の森﨑和幸に似ていた。
広島以外の選手で例えるならば、まさに小笠原満男のよう。決定的なパスを何本も通し、同点ゴールもスルーパスで演出。その様は、まさに王者の風格だ。
この試合は後半アディショナルタイムにゴールを奪われ、1-2で敗戦。しかし、運動量でもクオリティでも相手を圧倒したのは、川辺を中心に据えた広島ジュニアユースだった。当時の監督である沢田謙太郎(現広島ユース監督)が「面白かったなぁ。もっともっと、こいつらの試合を見たかったなぁ。でも、こういうゲームで締めくくるのなら、次につながると思う」と言葉を詰まらせながら語ったほどの戦いだった。
広島ユースでも1年生からレギュラーの座を獲得し、高円宮杯の優勝に貢献。シャドーの位置からゴールを積み重ね、アタッカーとしての才能も見せ付けた。しかし、筆者の脳裏には、15歳の川辺駿少年の姿がどうしてもぬぐえない。それはプロに入っても、期限付き移籍先の磐田で評価されても、そして昨年も。「川辺駿」と自分の脳内に打ち込んだ時、最初に検索されるのは2010年の少年だ。
2019年、9年の歳月を積み重ねてようやく、その姿が上書きされそうだ。考えれば、広島ユースの頃はいつも野津田岳人という怪物が中心にいて、その側で彼は自由を満喫していた。野津田の卒業後、3年生となった川辺はユースよりもプロでのトレーニングが日々の中心となり、ユースに戻った時も「リーダー」という雰囲気はそれほどではなかった。磐田では試合に出続けていたが、主役は他にいた。
今は、違う。
まぎれもなく、チームの主役である。
名古屋戦で見せた、精密なアイデアと技術
たとえば4月28日、豊田スタジアムで行なわれた平成最後の公式戦=対名古屋戦、53分の出来事を書いてみよう。
この試合、前半は名古屋のアグレッシブな守備の前にボールを失い続け、広島は劣勢に立たされて失点。しかし後半、名古屋の守備が緩んだところで広島が優位に立つ。データを見ても、広島がボール支配率で遅れをとったのは前半の30分まで。それ以降はずっと、アウェイチームがボールを握り続けた。
53分、松本泰志がボールを奪うと、そこからショーが始まる。フィールドプレーヤー全員がボールに関わり、29本目のエミル・サロモンソンのクロスを柏好文が決定的なシュート。枠内に飛んでいれば、Jリーグのスーバーゴールに選出されるべき美しさを醸し出した。
このシーンの素晴らしさは、後ろの安全地帯でボールを回していたのではなく、相手を押しこみ、バイタルエリアの危険地帯でワンタッチパスをつなぎ続けたことにある。そしてその中心には、まぎれもなく川辺駿がいた。
この時の川辺は、どう動いたか。
当初、彼は最終ラインの前、ボランチとしてのスタート位置に近い場所でボールを待っていた。7本目のパスを松本泰から受け、柴崎晃誠に2タッチでボールを送ったが、それは特に「スイッチ」ではなく、ボールポゼッションの意識が高い。吉野恭平が10本目のパスを受けた時、裏を狙おうとフリーランをスタートさせたが、そこにボールが出てこないと、元の位置に戻った。
しかし12本目、松本泰の縦パスが野津田岳人に出された時、川辺はチームに出てきた前への意識を増幅させるべく、あえてFWの位置にまであがった。そしてその位置で柏の縦パスを受け、ダイレクトでリターン。柏からエミル・サロモンソンへとボールがわたった時はペナルティエリア内に侵入している。
サロモンソンはクロスをいれず、サポートしてきた野津田に戻した時、川辺はゆっくりとペナルティアーク付近から少しボールサイドに近づいた。野津田が野上からのパスを受け、前を向く。位置を少し下げた40番は7番のパスを受けるべく近づいたが、しかしそれはダミーの動き。野津田→松本泰とボールが渡った時、川辺の頭の中には仕上げの物語が構築された。
松本泰志、縦パス。川辺はシミッチを背中に背負いつつも急反転。柴崎の1タッチバックパスを受けた。ドリブルを入れる。吉田豊がプレスをかけるが、ギリギリのタイミングで渡大生にパスを出し、そのまま動きを止めずに横に走った。ペナルティエリア内でDFを背負った渡が落としたボールを受ける。シミッチが刈り取ろうと身体を寄せるが、奪われない。前に丸山祐市が立った。パスの出し所を消されたように見えた。
内でDFを背負った渡が落としたボールを受ける。シミッチが刈り取ろうと身体を寄せるが、奪われない。前に丸山祐市が立った。パスの出し所を消されたように見えた。
しかし、その瞬間、川辺は勝負を仕掛ける。
「股の間だ」
緩いボールであれば股を閉じられるし、カバーの吉田にクリアされる。速過ぎればラインを割る。そのギリギリのところ、サロモンソンのスピードを信頼してのスルーパスで名古屋のブロックを引き裂いた。28本目のパスは完璧な崩しとなり、クロス→シュートでホームチームの肝を芯から凍らせた。その中心にいたのは、紛れもなく背番号40。精密な技術とアイディアの凝縮である。
広島は名古屋戦も含めてJリーグ5連敗。選手たちの多くは下を向き、ミックスゾーンでも「続けるしかない」と言う言葉が重なった。
しかし川辺は違う。常にポジティブな言葉を連ね、前を向き、自信を全く失っていない言葉を続けた。「やれるようになったこともある」という言葉も聞いた。下を向くこともなく、常に顔をあげ、前を見る。「川辺が言うなら、大丈夫かもしれない」。そんな感覚に陥った。
そして、浦和戦。スルーパスが森島司のゴールの起点となり、3点目を生み出すフリックやトドメとなった渡のゴールを生み出すドリブル突破。3点に絡んで勝利の原動力となった。しかも5連勝中の時とは攻撃の内容が違う。崩しのバリエーションが違う。川辺の言葉どおり、できることが増えているのは大きな驚きだった。
主役の座をもたらした、守備の圧倒的な向上
攻撃を司るパサーというだけならば、他にも優れた才能はいる。過去を振り返れば、小野伸二や中村俊輔ら「ファンタジスタ」と言われて世界でもその力を発揮した日本人選手も決して少なくない。
だが、川辺駿が秀逸なのは、そして今季の広島で主役となりえたのは、守備力の圧倒的な向上だ。松本山雅戦では2度にわたって相手のカウンターをストップしてボールを奪い返し、ACLのアウェイ大邱戦では相手の大黒柱・セシーニャの突破を身体を張って止めた。今までの彼からは考えられないシーンである。
昨年、川辺がボランチでポジションをとれなかったのは守備に問題を抱えていたから。10代の彼は守りの意識が希薄で、「自分に守備を求められても」と言ってしまったこともある。
磐田でも守備についてはそれほど多くを求められていなかったようで、広島に戻ってきた時の彼は、経験や自信、試合を読む力は大きく成長していたものの、守備の強度については稲垣祥や青山敏弘と比較しても分が悪かった。
それでも彼の攻撃能力を買っていた城福浩監督は、サイドハーフで彼の良さを引き出そうとする。しかし、その処置は結果として不調に終わった。ボランチのポジションを失った川辺はメンタル的にも追い込まれ、大好きだったはずのサッカーが辛くなった。練習場に向かうことすら、イヤになった。
皮肉にも、川辺が出場していない広島は快進撃を見せた。後半には歴史的な失速劇も演じてしまったが、それでも2位を確保。前年の15位から大きくジャンプアップし、ACL出場権も手に入れた。
「広島から移籍した方がいいのでは」
何度も何度も、そう思った。実際、いくつかのクラブから打診はあったという。移籍したいと言えば、手を上げるクラブは数多だっただろう。だが川辺は、自らの意志で残留を選択した。アジアでの戦い。先輩・野津田岳人の帰還。サッカーの方向性の変換。様々な理由はあるが、「もう1度、広島で勝負して自分の価値を高めたい」と思った。そのための最短距離こそ、守備力の向上だったのだ。
「ハヤオには、昔から守備のセンスがあると感じていた。いい読みからの守備も悪くなかったから」
広島のレジェンドであり、昨年の川辺駿をメンタル面で支えた森﨑和幸(現広島クラブリレーションマネジャー)の言葉である。
「以前の彼の守備は足先で行く感じ。今はガッツリと、身体ごと守備に行けているからボールを奪えるようになった。そうなると、読みの良さからの危機察知能力も活きてくる。
とにかく、守備が飛躍的に成長しましたね。ハヤオに何があったのかはわからないですが、勝つためには守備がいかに重要かを理解してきたのかもしれない。守備がよくなると、攻撃の良さも出てくる。ゴール前まで戻って危険なところも摘み、そこから相手のペナルティエリア内まで入って得点に絡む。言うことないですね」
「絶対的な存在」になるために。
おそらくは、森﨑CRMの言う通りだろう。川辺は守備の大切さを理解し、そこに取り組んだ。ではなぜ、そういう意識になったのか。
答えは彼の奥底にある。だが、容易に想像もできる。
守備ができなければ、城福浩という指揮官はボランチでは起用しない。満を持して広島に戻ってきたのに、そこで何も残せないなんて耐えられない。プロフェッショナルとしての意地と、広島というクラブへの思いが相克していた。
だから、守りの意識が高まり、守備力が向上した。とここまで書いて、ちょっとした違和感が生まれる。守備とは意識だけでうまくなるのか。もちろん、意識なくして向上がないのは確かだが、これほど短期間で急激に向上できるほど、甘くはない。つまり、意識一つで守備能力を向上できるほど、川辺のサッカーセンスが図抜けているということだ。
「あまりシーズン中に(選手を)褒めたくはないんですが」
城福浩は笑顔を見せた。
「彼は常に、どういう時でも手を抜くことがない。攻守において、本当にたくましくなった。だから、試合の中で出来・不出来の差が少ない。ハヤオにボールを預ければ(何とかしてくれる)という空気も出てきている。こういう状態を1年間続けることが、彼にとってのチャレンジですね」
昨年、攻撃能力の高い川辺を城福監督はベンチに座らせた。そのことは彼自身にとってもチャレンジであり、戦いでもあった。将来性は疑いない。しかし、守備に目をつむっては、チームも川辺自身にとっても成長にはつながらない。
「昨年の状況は、ハヤオにとっていい学びになったと思っています。どうして、勝ち続けるチームの主役に自分がなれないのか。チームが苦しくなった時の救世主になれないのか。高いレベルで戦い続けるためには、何が必要か。
彼が自問自答していることは、わかります。そのハヤオと円滑な人間関係をつくりたいなら、試合に使い、楽しく会話すればいい。しかし彼にとって私の言葉は、耳が痛いことが80%だったはずです。でも、耳の痛い言葉は、ハヤオに対する期待。彼には学んでほしかった。そして今、ハヤオは昨年学んだことを具現化していると思います」
まだ、本格的なブレイクの兆しが見えているに過ぎない。彼が渇望していた「チームを勝たせるプレーヤー」には近づいてはいるが、チームで絶対的な存在になり日本代表入りが当然というところまでは、たどりついていない。
「やるべきことは、やってくれていると思います。ただ、個人としてのハヤオを考えた時、もっと求めたいことはありますね」
城福監督は、何を求めたいのか。
「曖昧な表現になるんですが、醸し出す雰囲気といいますかね。苦しい時にこそ、身体から発せられるものというか。チームを牽引するような感覚なんです。川崎Fにおける中村憲剛や全盛期の小笠原満男が鹿島を支えたように。それはたしかに難しいこと。でもハヤオには、牽引者とはどういう存在か、そこを考えるようになってほしい。今よりももっと上にいくために」
表現は違うが、森﨑和幸も似たようなことを語ってくれた。
「たとえばFC東京戦のように相手の守備が強くて膠着している時、あるいは劣勢の時に、どれだけ周りを巻き込んでチームを立て直していけるか。個人として輝くだけでなく、チームをどう機能させていけるか」
現役時代の森﨑和幸は、チームが苦しい時ほど背中から雰囲気を発し、ボールを集め、ボールでメッセージを伝えた。まわりはみんな、選択肢がなくなると背番号8を探し、預け、そして走ればよかった。「あとはカズさんが何とかしてくれる」。そうやって広島は、3度の優勝を手にした。
川辺駿もまた、ボールで主張を伝えるタイプである。その主張を聞きたいがゆえに、周りが40番を探し、パスを出し、走る。そういう雰囲気が苦境に立っても出てくれば。「苦しい時こそ俺に出せ」。そんな空気感を身体から発することができれば。
「そうなるのは難しいけれど、どうすればいいと思う?」
川辺駿の答えはシンプルだった。
「プレーを続けること」
続ければできるようになる。
自分の能力を信じているからこそ、こういう答えが出る。こういう感性を持っている人材のことを、才能と呼ぶのだろう。
Edition: Sawayama Mozzarella
Profile
中野 和也
1962年生まれ。長崎県出身。広島大学経済学部卒業後、株式会社リクルート・株式会社中四国リクルート企画で各種情報誌の制作・編集に関わる。1994年よりフリー、1995年からサンフレッチェ広島の取材を開始。以降、各種媒体でサンフレッチェ広島に関するレポート・コラムなどを執筆した。2000年、サンフレッチェ広島オフィシャルマガジン『紫熊倶楽部』を創刊。以来10余年にわたって同誌の編集長を務め続けている。著書に『サンフレッチェ情熱史』、『戦う、勝つ、生きる』(小社刊)。