アメリカの理学療法士ミック・ヒューズは「練習や試合で蓄積した疲労の回復について選手と話をする機会は多いが、『最低でも8時間の睡眠を確保しようとしています』と回答する選手は少ない」と述べている。疲労回復を目的としたクールダウンやアイスバス(水風呂による疲労回復法)、水分補強などの重要性が広く認知される一方で、睡眠という「身近な」プロセスは見落とされやすい。
育成年代では、睡眠が平均8時間以下の選手は同8時間以上を確保している選手と比べて「ケガのリスクが1.7倍になる」という研究があるように、睡眠不足はケガに直結する。また、特に6時間以下の睡眠に着目すると「疲労を原因とした負傷」のリスクが飛躍的に高まることも主張されている。サッカーだけではなく、バスケットボールや陸上競技などでも同様の傾向が示され、様々なスポーツにおいて重要視されている睡眠。さらに、グレゴリー・デュポンを中心とした研究グループが述べるように「トップレベルの選手は長時間の移動が習慣化し、普段とは異なる環境での睡眠が求められているため、それによって概日リズム(一般的には体内時計とも呼ばれるが、約24時間を周期として変動する生理現象)が狂いやすい」ことも事実であり、選手たちの睡眠をコントロールすることは重要な鍵となっている。
クラブ×スポーツ科学者で「習慣」を改善
睡眠時間に着目する研究から一歩踏み込んだ「質」に着目した研究も進んでおり、例えば2015年にフィリップ・ラウクスを中心としたドイツの研究グループが発表した論文では「睡眠の質が不足している場合もケガのリスクは増大する」ことを明らかにしている。選手が環境に適応していない状態での「リフレッシュしたと感じられない睡眠」は、睡眠時間の不足と同様にケガのリスクを高めてしまうのだ。だからこそ、徐々にトップクラブでは選手の睡眠を改善する取り組みをスタートさせている。
そのキーマンの一人、「エリート・スポーツ・スリープ・コーチ」の肩書きで活動するニック・リトルヘイルズは15年以上、睡眠の研究を続けている学者でもあり「睡眠の指導者」として知られている。数々のプロスポーツ選手の睡眠習慣を改善してきた男が、フットボールの世界で着目されるようになったきっかけは1998年、アレックス・ファーガソンからの依頼だった。マンチェスター・ユナイテッドを契機にチェルシー、アーセナル、リバプール、イングランド代表などで選手の睡眠習慣を改善。2014年にはレアル・マドリーにも招へいされている。リトルヘイルズは「朝型の選手」と「夜型の選手」には異なったアプローチを選択し、選手の体型に合わせた寝具を特注する「個別化された指導」によって、個々に適合した方法を柔軟に採用。選手たちには「チェックリスト」を配布することで、睡眠前の習慣を改善させた。
スポーツ科学大国として知られるアメリカでも、興味深い実験に挑んでいるチームが存在する。MLSに所属するシアトル・サウンダーズはスポーツ科学者をそろえ、時計型のウェアラブルデバイスを選手に装着させることによって個々の睡眠時間を計測。分析の結果、「結婚している選手の睡眠時間が独身の選手よりも短くなっていた」ことが判明した。既婚選手たちが「家族との生活スケジュールに慣れてしまっている」ことで、家族と離れる遠征時には十分な睡眠が取れていないというのだ。例えば乳幼児が頻繁に夜泣きをする場合、短い睡眠のサイクルも習慣化されてしまうのである。その結果、結婚した選手は独身の選手に比べて大幅に遠征時の睡眠時間が減り、ケガのリスクを高めていた。多くの男性が経験する生活の変化も、アスリートにとってはキャリアを脅かすケガのリスクに直結してしまうのだ。
過酷なスケジュールに耐えるフットボーラーをサポートすることを目的に、スポーツ科学者とクラブは睡眠習慣の改善に着手している。例えばマンチェスターUは『MLILY(エムリリー)』という寝具メーカーとパートナーシップを結んでおり、移動中には特製のヘッドレストで睡眠を補助している。今後は選手自身もより睡眠の価値を認識し、普段の習慣を改善する必要に迫られてくるだろう。
Photos: Getty Images, Bongarts/Getty Images
TAG
Profile
結城 康平
1990年生まれ、宮崎県出身。ライターとして複数の媒体に記事を寄稿しつつ、サッカー観戦を面白くするためのアイディアを練りながら日々を過ごしている。好きなバンドは、エジンバラ出身のBlue Rose Code。