「ミスチル世代」とは何なのか? 「批評」が機能しない社会の怖さ
『日本代表とMr.Children』著者対談 宇野維正×レジー 後編
11月28日に発売となった書籍『日本代表とMr.Children』。1998年のワールドカップ初出場を機に国民的コンテンツとなったサッカー日本代表と、モンスターバンドとして90年代からポップシーンを席巻してきたミスチルの関係性を読み解くことで、平成の世が見えてくる――そんな異色作を共著で手がけた音楽ジャーナリストの宇野維正と、音楽ブロガー・ライターのレジーが語り合う特別対談を、前編・中編・後編に分けてお送りする。
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「ミスチル世代」のサッカーと音楽
―― 最後のテーマは「ミスチル世代」です。本にも書いてありますが、このインタビューから読む人のために、「ミスチル世代」の定義から説明してもらえますか?
宇 野 「ロシア大会の日本代表メンバーで言えば、大会時点でちょうど30代に入っていた選手たち、下から言うと、乾貴士、槙野智章、長友佑都、本田圭佑、岡崎慎司、長谷部誠、川島永嗣の世代。香川真司はちょっと下だけど、香川や吉田麻也(編注:大会時は29歳)といった20代後半も含めていいと思います。今の30代からアラサーまでの世代は、ちょうどレジーくんもそうだけど、中高生でMr.Childrenの大ブレイク期を迎えているんです。つまりレジーくんも書いていましたが“音楽の目覚め”がミスチルだった人が大量にいる世代。これはデカいよね」
レジー「一種の“刷り込み”ですよ」
―― そういう世代を指して今回の本の中では「ミスチル世代」と定義してもらいました。この世代はやっぱり特殊なんですかね?
レジー「どうなんでしょう? 自分はその中に含まれているので(笑)」
宇 野 「フリーになるまでずっと音楽や映画の雑誌を作ってきた自分の立場から実感するのは、『外国に憧れなくなった世代』ということ。憧れなくなった、ないしは(憧れの対象を)日本のコンテンツで満たしていった世代。背景には、国内カルチャーの成熟があります。音楽に関して言うなら、宇多田ヒカルや椎名林檎が98年に出てきた。バンドで言えばその前年の97年にDragon AshやTRICERATOPSやGRAPEVINEがデビューしている。今回の本では触れなかったけど、中でもGRAPEVINEはデビュー当初すごくミスチル・フォロワー的な受容のされ方をしていたよね」
レジー「ああ、そうですね。90年代半ばから後半にかけて“ポスト・ミスチル”みたいな触れ込みで出てきたバンドがいくつかありましたが、GRAPEVINEは音楽性を変遷させながら今でも活躍できている数少ない存在ですね」
宇 野 「そういうのがドバッと出てきて、CDもめちゃくちゃ売れて、もちろんそれ以前にも日本には素晴らしいミュージシャンはたくさんいましたが、シーン全体の音楽的なクオリティがその時期にグッと底上げされた。さらに、より洋楽的な文脈を持ったバンドとしては、くるり、SUPERCAR、NUMBER GIRL、クラムボンのようなバンドも出てきた。それ以前、Jポップにのりきれない音楽ファンは洋楽を聴いていたわけだけど、そういうオルタナティブな受け皿も用意されてきたわけです」
―― なるほど。そうなってくると……。
宇 野 「当初は“洋楽と邦楽を分け隔てなく聴く時代”みたいなポジティブな語られ方をしていたけど、次第に海外のポップカルチャーにあまり目を向けなくなっていく人が増えてきた。でも、それはそれで自国のカルチャーが成熟してきた必然だと、当時は感じていました。でも、それがこうして10年経って、20年経ってみると、僕らの世代からすれば明らかに『外を見なくなった』弊害の方が強く感じられるようになってきて。
ミスチルにせよ宇多田ヒカルにせよ、20年前もトップにいたアーティストが今もトップにいるのって、すごく不思議な気持ちになるんですよね。もちろん、ミスチルや宇多田ヒカルは自分たちの表現をずっと更新し続けてきて、それぞれが今年リリースしたニューアルバムも素晴らしい作品でしたが、シーン全体からすると、これまでダイナミックな世代交代が起こってこなかったのは文化的な停滞とも言える。ようやくこの2、3年、状況がちょっと変わってきた兆しはありますが」
レジー「90年代って、国内のカルチャーが強烈すぎた時代だったのかもしれないですね。サッカーでもJリーグが始まってバーンと盛り上がった時代だったし、いろいろなジャンルで国内だけで完結できる状況が生まれていったタイミングだったという気がします。僕より上の世代は、もうちょっと海外に対する憧れがあって、僕らの世代は割と海外との距離が遠かった。それより下は、もう海外も国内もあまり関係ないというか、同じ距離で接している世代ですよね」
―― YouTubeなどですべてフラットに見ることができちゃいますからね。もう1つ聞きたいことがあって、特に初期のミスチルが発信していた「自分探し」のメッセージに感化されるのはミスチル世代特有の現象なんでしょうか? 10代後半~20代前半って普遍的にそうなりやすい時期、という気もしますが……。
レジー「普遍的にそうなりやすい部分があって、その時にミスチルが強烈なインパクトとともに登場したことで、すごくシンクロしすぎちゃった、というような構造なのかなと思いますね」
宇 野 「世代論ってどうしても雑になっちゃうから、あくまでも『そういう人が多かった』ということでしかないんだろうけど、ただミスチルに関しては、レジーくんたちの世代は本当にみんなが聞いていたはずで。その影響力、支配的な感じというのは、片方でアイドルを聴いて片方ではギターロックを聴いて、みたいな今の若い世代にはちょっと想像できないものがあると思うんですよ。自分でCDを買ってない人でも、街やテレビのドラマやCMでいつも流れていたから、その世代の人は当時のミスチルの代表曲のサビは大体歌えるでしょ?
本にも書いたことですけど、Jリーグがあれだけ盛り上がったのも、日本代表が国民的コンテンツに育ったのも、ミスチルが国民的バンドになったのも、やっぱり当時はまだマスメディアの影響力が強い時代だったというのがすごく大きかった。もっと言うなら、それこそが“平成”だった。メディアミックスもタイアップも昭和にできたシステムだけど、それがより洗練されて、まるで水や空気のような環境として完成したのが平成の、特に前半だったと思うんです」
「日本サッカーの日本化」の是非
―― 先ほど宇野さんがおっしゃっていたように、全体的に成熟してきて内向きになった、それに伴って今あるもので日本らしさを出そう、みたいなミスチル世代のカルチャーの方向性は、日本のサッカー界と重なる部分があるように思います。イビチャ・オシム以降、「日本のオリジナルなスタイルを作ろう」とか、「世界に誇れる日本のサッカーをアピールして国民を勇気づけよう」とか、そういうモチベーションってすごくあったと思うんです。
レジー「オリジナルを作ろうとする動き自体はやるべきだと思うし、そこに対しては総論では賛成です。でも、それを海外の影響を排除した場所でできると思っていた人がいたのではないか、というのは気になります。結局、サッカーってもともとは日本の外で生まれ育ってきたものだから、そこで形成された根本的なルールの上に何をどう乗せるかって話だと思うんです。そういう認識が抜け落ちた状態でいろいろなことが進んでいた側面もあったのかなという印象もあります。(ヴァイッド・)ハリルホジッチとも最後はそういうところでのぶつかり合いでうまくいかなくなくなったんだろうな、とも感じますし。ロシア大会前の一連の流れは“内向き”であることの悪い面が出たとも言えると思いますが、“オールジャパン”という掛け声の中で今後どうやって着地点を見つけるんだろうか、というのはサッカーファンとしてちゃんと追いかけていきたいです」
宇 野 「ちょっと抽象的な話になるけど、自分は『自己評価を正確にできていない人や物事』を見るとすごくイライラするんです。日本のサッカーや、日本のドメスティックな音楽の中にもとても優れた要素はあると思うし、そこはこれからも追求していくべきで、グローバル一色にすべきだとは思いません。ただ、正確に自分がどこにいて、何をやっているかを自覚する上では、絶対に“外”のことも知っておかなくてはいけない。本当にそのプロセスを経た上で“自分たちのサッカー”や“自分たちの音楽”を追求しているのか、というのはよく思うことです。
今回の本でもいろいろな選手について語っていますが、ある時期までの中田英寿や現在の長谷部は自己評価がすごく正確だったんですよね。自分のその時の年齢、実力でどこのクラブに行けば最も輝けるか、みたいなことを、もちろんスタッフやエージェントも含めてなんだけど、正確に測ってきた。それは世界トップレベルに限った話ではなくて、きっとどういうレベルにおいても、いいプレーができるのはそういう選手なんじゃないかと。そこで自己評価がズレる、つまり自分の理想と現実のギャップが激しくなればなるほど、プレーヤーとして停滞していく。そういう点においても、自分のいる世界の“外”のことを知って自分を相対化するプロセスは重要で。その相対化を疎かにしている感じが、特にここ10年くらいの日本社会全体の特徴のように思います。例えば映画にしても、日本は世界の中でも突出して素晴らしい映画の歴史を持っている国だけど、現状はアジアの中でも三流国に甘んじていて、そこで回っているお金もケタが1つ、中国と比べたら下手したらケタが2つ少ない。だから『かつては素晴らしかった』ことを誇りに思うのはいいとして、経済的にも文化的にも優位性なんてもはやないんだってことを自覚した上でないと、優れたオリジナルには行き着かないと思います」
レジー「日本はもう先進国ではないってところから始めないといけないんですよね、きっと」
宇 野 「そう。だから、本にも書きましたが、南アフリカ大会やブラジル大会で日本代表の選手が『W杯優勝』を目標として口にしていたのって、自分は薄気味の悪い自己啓発的な態度だったと思っていて。その選手にとっては自己を奮い立たせるため、あるいは自分の商品価値を上げるためのスローガンみたいなものだったとしても、結果的にチーム全体の自己評価を曇らせることにも繋がったんじゃないかと思うんですよね」
サッカーは自由な言論空間であってほしい
―― 他に、この本で伝えたかったことはどんなことですか?
宇 野 「我われは部外者というか、サッカーは大好きですけど、基本は外野として無責任な言論を展開している。でも、スポーツって本来そういうものじゃないですか。野球だって、甲子園の阪神戦に行くとスタンドのオッサンが野次を飛ばしているみたいな、そういう文化じゃないですか。自分たちとしては野次よりももうちょっと意味のあることをしたつもりですけど(笑)、“野次が許される空間”というのは社会にとって必要だと思うんですよ。今はネットで政治や社会に対する野次が飛び交って、すぐにくだらない論争になってどんどん社会が分断されていますけど、スポーツの世界くらい、外野がワイワイ言う自由で健全な言論空間があってもいいんじゃないかって。
これも本に詳しく書いていますが、ロシア大会では日本代表の選手の側からそれを抑制するような声がいくつも聞こえてきて。実は、個人的にはそれも今回の本を書きたいと思った動機の1つなんです。footballistaから声をかけていただいたことも、自分にとってはすごく大きくて。ちゃんとしたサッカーのクオリティメディアの中で外野からの声を上げられる機会があるなら、ちゃんと上げておきたいと思いました。今は批判=誹謗中傷や罵詈雑言みたいにすぐに捉えられてしまって、社会全体の批判の力がとても弱まっていますからね」
レジー「『じゃあお前がやってみろ』みたいな話にすぐに回収されてしまう雰囲気がありますよね」
宇 野 「本当にそう。ネットの書き込みならまだしも、映画監督でも『じゃあお前が撮ってみろ』とか本当に言う人がいるからね」
レジー「選手がSNSを使うのも良し悪しですよね。この前の乾とGOAL.comの一件も、結局メディア側が謝罪をしたじゃないですか」
―― GOAL.comも、編集長も謝罪をしています。
レジー「もちろん翻訳記事とはいえ事実誤認につながる記事を流したこと自体はどう考えても問題なんですが、『乾が100%正しいのか』というのは実は誰にもわからないですよね。仮に今後似たような出来事があったとして、選手側が嘘は言わないまでも、自分に都合のいいように解釈して何らかのコメントを出したら、それを見た人たちはかなりの確率で『そうだそうだ』『マスゴミが悪い』という反応をすると思うんです。それぞれが何かしら事実を検証したりすることなく」
―― 今回の乾選手がどうこうではなく、SNSは構造的にそういう怖さはありますよね。トランプ問題がまさにそうですが。
宇 野 「選手のSNSでの発言の影響力って、結局当事者の言うことが一番正しい、ファンダムを持っている人が一番強いっていう論理ですよね。その怖さや危なさには、もうちょっとみんな敏感になった方がいい」
レジー「これはサッカーも音楽も似たような状況だと思いますが、SNSで当人が発言することで、批評っていうもの自体が機能しない構造にどんどんなっていますよね。本来の批評って、例えばミスチルに関して言えば、『桜井さんがどう思っているか』だけについて話すものではなくて、『桜井さんが直接コメントしたわけではないけど、こういう側面もあるかもしれない』ということを様々な視点から掘り下げるものだと思うんです。作った当人が意識していなかったことだとしても、作品と受け取った人の関係性から新たに見えてきたものに価値を見出して楽しむことができるはずなのに、今は『本人はそう思っているかどうかわからない』でシャットアウトされてしまうような空気がものすごく強い」
宇 野 「でも、ミスチルの表現自体はそういう社会の変化にも敏感で、最近の作品はこれまで以上に余白を残していますよね。そういうところが一流の証ですよ。サッカーの話でいうと、僕らはこの本でいわゆる『Number文学』みたいな言論に対してちょっと批判的な文脈で論を展開しています。で、最近はその対立項としてあるものが、footballistaとかがやっている戦術論みたいなものとされているようですけど、僕自身はその2つは対立するものじゃなくて、互いに補完し合うものだと考えていて。それって音楽批評の世界でいうと、『ROCKIN’ON文学』と、音楽を作り手の視点で構造的に解説していく楽理派の対立みたいなものによく似ているんですよね。音楽を批評する時の自分は、そのどちらでもない別の道をずっと探っているんですが(笑)」
―― 確かに、その対立は似ていますね。
宇 野 「批評の方法は時代ごとに変化していくもので、文芸批評など今読むと驚くほど古くなっているものもある。そういう意味では、もしかしたら『Number』も『ROCKIN’ON』も時代の役割はもう終えているのかもしれません。でも、視点の提示はたくさんあった方がいいし、どれか一つが正解というわけではないと思うんです。例えば僕はインテルが大好きなんですが、(マウロ・)イカルディは戦術的にまったく理解ができないような動きをして、90分間ずっとゲームから消えていたのにアディショナルタイムに決勝点を決めたりするでしょ? 自分が音楽で一番興奮するのもそういうところで、今一番大好きなラッパーのトラビス・スコットも曲の途中でリズムのテンポがバンバン変わって、そのバックではわけがわからない奇声やテープの逆回転の音がして、『一体なんだこれは?』ってなる。その驚きこそが音楽を聴く喜びなんですよ。サッカーでも、音楽でも、そういう普通では考えられないような“魔法”みたいなものとできるだけたくさん出会いたい。で、その“魔法”を同時体験する観客や聴衆が多ければ多いほど興奮が増幅していくから、それを広めていきたい。そんなこと言っていると、戦術派や楽理派からバカにされちゃいそうですけど(笑)」
「国民的2大コンテンツ」で振り返る平成史
―― 最後になぜこの本を作りたかったのか、この本を通してどんなメッセージを伝えたかったのかをお聞きしようと思っていて、宇野さんはほぼ答えてくれました。では、改めてレジーさん。
レジー「まず、今の話に関しては僕もほぼ同意ですね。別に『Number』的なものだろうが『ROCKIN’ON』的なものだろうが、戦術論だろうが楽理の話だろうが、たぶんどっちが上等とかそういう話じゃなく、それぞれの中に面白いものと面白くないものがあるっていうだけだと思います」
宇 野 「そうそう」
レジー「個人的には、今回の本はさっき挙がった2つの言論のあり方を俯瞰しながらまとめたものだと考えています。社会の中で日本代表はどんな役割を果たしてきたのか? ミスチルはどんな意味を持っていたのか? という問いに答えを出すアプローチとして、ちょっとエモーショナルな話もあれば、構造を分析するような話もある、という認識です。日本代表もミスチルも平成を象徴する存在だと思うので、それらを多面的な角度から考察することで、この30年くらいの世の中がどんな時代だったかを考えるとっかかりにしてもらえればいいなと思っています」
―― お2人の想いとしては、これは日本サッカーが強くなるためにとか、ミスチルがどうすべきかではなく、それを見てきた、聴いてきた人たちがこれからどう生きるかという参考に少しでもなれば、というメッセージが込められているわけですね。
レジー「多くの人が自分を投影できるテーマだと思うんですよね。もしかしたらfootballistaを読むような方々は日本代表より好きなサッカーチームがあったりミスチルより好きなミュージシャンがいたりするかもしれないけど、そういう人が読んでも、自分に引きつけて考えられる内容になっていると思います」
宇 野 「この本は平成を振り返るために作られたものではなくて、たまたまこのテーマで盛り上がって語り合っていたら、結果的に平成を振り返ることになったという意味で、すごく健全な平成史だと思います。振り返るための振り返りって、往々にして退屈ですからね(笑)。これで自分は結果的に、宇多田ヒカル、くるり、小沢健二、そして今回はミスチルと、90年代にデビューしたミュージシャンの名前が入った本を続けて書いてきたことになります。パッと見だと、ノスタルジーが動機で本を書いているのかと思われるかもしれませんが、読んでもらえればわかるように、すべての本は現在の問題意識をもとに90年代から現在のことまで書いてきました。今回、レジーくんのおかげもあってサッカーと音楽をクロスオーバーしながらそれができたことで、これまでやってきた仕事の延長上で、より幅広い読者に向けた本になったという実感があります」
―― お2人とも本日は長い時間ありがとうございました。
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Profile
浅野 賀一
1980年、北海道釧路市生まれ。3年半のサラリーマン生活を経て、2005年からフリーランス活動を開始。2006年10月から海外サッカー専門誌『footballista』の創刊メンバーとして加わり、2015年8月から編集長を務める。西部謙司氏との共著に『戦術に関してはこの本が最高峰』(東邦出版)がある。