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壊れていたアルゼンチンのW杯。夢破れたメッシは何を想う

2018.09.07


欲しいのは4年前、目前で逃した頂点だけだった。しかし結果は、あまりに早過ぎる終幕。不退転の決意を胸に、最後には監督の責すら背負い込みながら夢破れたメッシの胸には、どんな想いが去来しただろうか。


Lionel MESSI
リオネル・メッシ

1987.6.24 170cm / 72kg ARGENTINA


■ロシアW杯スタッツ
出場試合(時間):4(386分)
得点 / アシスト:1 / 2
シュート(枠内):17(6)
パス(成功):201(170)
ファウル / 被ファウル:4 / 15
走行距離(1試合平均):31.62km(7.90km)

 もしいい結果を残すことができなかったら、僕たちは全員代表チームから出て行かなければいけないことになるだろうね――。

 これは昨年12月、アルゼンチンのスポーツ専門局の取材に応じたメッシが、半年後に控えたW杯ロシア大会について聞かれた際に答えた言葉だ。

 振り返れば、この時すでにサンパオリに対するアルゼンチン代表メンバーの信頼と期待は失われ始めていた。W杯予選と親善試合を合わせてほんの8試合を指揮しただけだったが、統率力と決断力に欠け、何をやりたいのかというアイディアを明確にせず、何かにつけて自分や他の主力選手たちに相談を持ちかける監督に、メッシもこの頃から不安を抱いていたという。

 ある代表番記者は、大会に挑むそんなメッシについて「自分で自分の首を絞めている」と語っていた。アルゼンチン代表の行方は選手たち次第であると認識し、目標も「優勝するチャンスは今回しかない」と高い位置に設定し、それが実現できなければ全員で責任を取る覚悟を決めていたからだ。

 アルゼンチンの主要メディアで代表チームに密着取材していた記者たちは、チームがこのような状態にあったことについて以前から察知していたが、それまではあえて取り沙汰されることもなかった。なぜなら、メッシに自信がみなぎっていたからだ。

 実際、母国での合宿からバルセロナでの事前キャンプを経てロシアに入り、初戦に備えるまでの間、メッシの表情は非常に明るく、自身のInstagramにも移動や練習の様子を頻繁に投稿。メディアの取材にも積極的に応じ、確かな口調で「とてもいい状態で調整できている」と語っていた。アイスランド戦の数日前にはサンパオリもメンバーとフォーメーションを決め、監督に就任してから初めて「5日以上続けて同じ布陣でゲーム練習をする」ことに成功。チーム内にはポジティブな雰囲気が漂っていた。

 だが、アイスランド戦で引き分けた直後から、メッシの頭の中で一気に不安が渦巻き始めた。ミックスゾーンでの「すべての責任は自分にある」というコメントからもわかるように、自分がPKを失敗したために勝利を逃したという罪悪感に襲われていたのだ。

 敗戦に匹敵するほど精神的なダメージを受けたメッシだったが、さらなる苦痛が彼を待っていた。クロアチア戦に向けた練習中、サンパオリがアシスタントコーチのベカセッセと怒鳴り合いの口論となり、構想がまとまらない苛立ちがチーム全体にも浸透してしまったのである。

 クロアチア戦前のアルゼンチン国歌吹奏の時、メッシはうつむいたまま手で額を覆いながら不安を隠すことができなかった。GKカバジェロのミスから失点を招いた後チーム全体が一気に崩れたのは、当然の結果だったとも言えるだろう。

 その後、選手とサンパオリの間にできた亀裂は修復不可能となった。試合中に選手交代のタイミングまでメッシに相談するほど決定権を失った監督のチームが、決勝トーナメントに進出できたことは奇跡に近かったと言っていい。堅守のフランス相手に個の力だけで3ゴールを奪った「メッシのチーム」は4失点を許し、優勝を目指したはずの大会から早々に姿を消した。無言のままロシアを後にしたメッシが、半年前の言葉の通り代表から出て行く決断を下すのかどうかは、敗退から時が経った今もわかっていない。


Photos: Getty Images

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アルゼンチン代表リオネル・メッシ

Profile

Chizuru de Garcia

1989年からブエノスアイレスに在住。1968年10月31日生まれ。清泉女子大学英語短期課程卒。幼少期から洋画・洋楽を愛し、78年ワールドカップでサッカーに目覚める。大学在学中から南米サッカー関連の情報を寄稿し始めて現在に至る。家族はウルグアイ人の夫と2人の娘。

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