アンドレス・イニエスタ、誰にも似ていないフットボーラー
「バルセロナに別れを告げた今、モダンサッカーにおいては稀少極まりないタレントの持ち主だったこの伝説的なスペイン人MFをあらためて称えよう」――イタリアのWEBマガジン『ウルティモ・ウオモ』がイニエスタへのオマージュ記事を公開(2018年5月25日)。この夏日本にやって来た世界屈指の名手の偉大さを解説する。
1984年の春夏シーズン、スペイン中部ラ・マンチャ州の心臓部に位置するフエンテアルビージャ。地元の人々が集まるバル・ルハンを賑わせた最新情報は2つあった。1つは、村の子供たち(だけではない)をかつてないほど狂喜乱舞させたアイスクリーム「カリッポ」(値段は45ペセタ=同通過が廃止された1999年当時のレートで約35円)の登場。フランコ政権による独裁政治から立憲君主制への移行期を終えたばかりだったスペインでは、こんな小さなことも大きなニュースになったのだ。
スペイン現代史の節目となったこの時期、「モビーダ」(マドリッドを中心に広まったカウンターカルチャーの文化芸術ムーブメント)は、先進的な社会運動から、スペイン政界が世界に向けて変化と自由をアピールするための商業的ブランドへと変容しつつあった。スペインがW杯を開催した1982年に政権の座についた社会党は、ライトドラッグの個人的使用を自由化する刑法改正という、世界でも先鋭的な試みに踏み切ったところだった。欧州連合に加盟する上でも、過去との絆を完全に断ち切り、国際的に新しいイメージを打ち出す必要があったのだ。
しかしフエンテアルビージャに、そんな時代の波は及んでいなかった。カリッポの登場に加えてもう1つ、この84年の夏にバル・ルハンの日常を変えた大きな出来事は、両親が経営するこの店を手伝っていたマリア・ルハンが、5月11日に息子アンドレスを授かったことだった。父親のホセ・アントニオ・イニエスタは建設労働者で、情熱的なサッカーマニアでもあった。しかしこの時にはまだ、この小さな赤ちゃんがスペインに、1つの時代を画すもう1つの変化をもたらすことになるとは、誰一人想像すらしなかった。
繊細な少年
Un ragazzo sensibile
当時、スペインの田舎町において、サッカー選手になりたいという夢は真面目に受け止めるべき話だとは考えられていなかった。貧しくつつましやかな家庭においてはなおさらのことだ。それゆえ、小さなアンドレス(身長も体格も本当に小さかった)が、サッカーで特別な才能を見せ始めてアルバセテからスカウトされた時、イニエスタ家はフエンテアルビージャの人々のからかいの的になったほどだった。アンドレスは後に自伝の中で「僕たちは村の愚か者だった」と述懐している。それは、フォードの大衆車で週に3回も100kmの道程を往復したり、3カ月も倹約して貯めた大切なお金で息子に新しいスパイクを買い与えたりしていたからだ。
アンドレスは当時から特別なフットボーラーだった。しかし身体が小さく貧弱で、性格も内向的、プロのサッカー選手になった姿を想像するのは難しかった。実際、8歳でアルバセテにスカウトされた時にも、そう考えた人々は少なくなかった。極端なまでに繊細で言葉少ない子供で、当時を知る人々からは、監督や審判に「はい、セニョール」と答える以外にしゃべるのを聞いたことがない、という声すら聞こえてくるほどだ。
彼がどのように育てられたかは、感情的な側面も含めて、その後のキャリアを理解する上でも根本的な重要性を持っている。7人制サッカーの大会でバルセロナに注目されたのは、まだ12歳の時だった。最初はオファーを断ったが、何週間か後に考え直して(繊細さと疑問は常に相性がいい)、自分から父親にバルサに行く準備はできていると告げた。
1996年9月、ホセ・アントニオ・イニエスタが運転するフォード・オリオンは、はるばるバルセロナに到着する。小さなアンドレス少年は育成部門の寮であるラ・マシアに残され、家族が、そして誰よりも彼自身が不安に苛まれる中、1人で新しい生活に立ち向かわなければならなかった。しかしアンドレスにはまだ、これほど大きな飛躍に耐えるだけの準備はできていなかった。いかなる12歳の子供も、親元を離れて寮生活する準備などできていないし、それを強いられるべきでもない。これは、プロフットボーラーになることがいかに困難かを教えてくれる1つのレッスンでもある。どれだけの親が、決して確率が高いとは言えない夢を追うために、バルセロナのような大都市に12歳の子供を1人で取り残すことを受け入れるだろうか?
バルセロナでのキャリアの始まりについて、当時の寮長はこう振り返っている。「毎日22時間、ラ・マシアのあらゆる場所で泣き暮らしている12歳の子供だった」。プロサッカー選手になるという夢は、自らの繊細さによって危機にさらされていた。しかし、ラ・マシアでの生活が、彼の成長の歩みを助ける役割を果たしたことも事実だ。実際、グランデ・バルセロナ(グアルディオラ監督就任以降)が成し遂げた偉業を、人間的な側面を無視して理解することは不可能だ。選手たちの多くは毎日トレーニングをともにしたというだけでなく、ラ・マシアで生活までもともにし、喜怒哀楽を共有しながら育ってきた。プジョルとビクトル・バルデスが、彼らの守護者だった。まだ12歳で身体も小さく、内向的で泣き虫だったイニエスタが、どれだけの保護を必要としていたかは、容易に想像がつこうというものだ。次の年にはセスク・ファブレガスとピケもラ・マシアにやってきた。4年後にはアルゼンチンからメッシも加わることになる。この環境の中でともに育つということは、サッカー的にお互いを理解するというだけでなく、同じ場所で暮らしていくために必要なルールを築き分かち合うということでもある。
「メッシ、シャビ、イニエスタとその仲間たちはくそ真面目な優等生のように振る舞い、世界最高のプレーヤーたちが彼らにかしづいていた。俺には何が何だかさっぱりわからなかった」。自伝でそう振り返ったイブラヒモビッチには、彼らが世界最強のチームになったのは、ラ・マシアでともに育ったおかげだということが理解できなかった。しかし彼らは、人間にとって最も困難な時期である思春期をラ・マシアでともに過ごし、人として、そしてフットボーラーとして成長する上で他者を受け入れることがいかに重要か、そしてプロになるというのがいかに困難なことかを学びつつ育ったのだ。それらすべてを最もよく象徴する存在がいるとすれば、それは間違いなくイニエスタだろう。
早熟のフットボーラー
Un calciatore precoce
あらゆる成功物語がそうであるように、イニエスタも一連の偶然や幸運にその歩みを助けられた。最初の幸運は、ヨハン・クライフがスペインサッカーに大きな影響を及ぼしていた時代に、ボールスキルやプレービジョンを重視する風潮の中で育ったことだ。アルバセテ時代のチームメイトたちですら、イニエスタがプロのアスリートになれるとは思っていなかった。貧弱な体格の少年だった彼にとって唯一の武器はボールを、そしてゲーム全体をコントロールする能力だった。チームメイトたちが彼を探してボールを預けたがったのは、試合を解決してくれるからというだけでなく、自分たちにもいいプレーをさせてくれるからだった。イニエスタのフットボール・インテリジェンスは、本当の意味で生まれ持ったものであり、アルバセテ、そしてバルセロナでは成長の過程でそれを磨き上げただけだったと理解するのが正しいように見える。小さな頃からアンドレスは、ピッチ上の状況を整理し、1つの意味を与え、カオスを秩序に変えようとしながらプレーしていた。そのタレントがどんな種類のものかは、すでにはっきりと見えていた。
バルサB(スペイン3部)でデビューして2シーズンを経たアンドレスの価値がどれほどのものか、すぐに理解したのが当時トップチームを率いていたルイス・ファン・ハールだった。これも彼のキャリアにとっては決定的な追い風となった。ファン・ハールは、自らのプレー原則を教え内面化させる上でより可塑性(かそせい)が高く柔軟だという理由で、若手を好み積極的に抜擢する監督だ。イニエスタは弱冠18歳でトップチームにデビューする。しかもその舞台はCLアウェイのブルージュ戦だった。このシーズンはさらに5試合にスタメン出場。あのリケルメをベンチに追いやったことすらあった。しかし2003年1月、ファン・ハールは解任され、イニエスタもBチームに戻ることになる。
あらゆる点で早熟だったイニエスタはしかし、デビュー直後から爆発的にブレイクするタイプではなかった。それを許してくれるほど強いパーソナリティを持っていなかったからだ。フランク・ライカールトの下で初めての「ドブレーテ」(ダブル)を経験した05-06シーズン、イニエスタはすべてのコンペティションで合わせて49試合にも出場したが、スタメンは23試合に過ぎなかった。アンカーからインサイドMF、ウイングまで、あらゆるポジションでプレーできるイニエスタは、ライカールトにとってスタメンよりも途中出場で使うのに都合がいい存在だった。スペイン語で言う「レブルシーボ」、つまり試合の流れを変えるために投入されるスーパーサブ、展開に応じて試合に新たな味付けを加える食材というわけだ。このシーズンには、おそらくイニエスタが最も消化できずにいるであろう記憶の1つ、アーセナルとのCL決勝でのスタメン落ちという出来事も起こっている。後半に出場して試合の流れを変えチームに勝利をもたらしたが、心から喜ぶことはできなかった。ライカールトとの関係は、この試合が原因でこの後も冷たいものであり続ける。
当時のイニエスタは現在とは別のプレーヤーだったと言っていい。監督の都合に合わせて起用され続けたこともあり、ポジションが明確に定まっていないままだった。当初はトップ下だったが、そのうちしばしば左ウイングで起用されるようになった。短い距離ならば十分にクイックで、2ライン間にポジションを取って仕掛けやアシストを担うことができたからだ。イニエスタはその後のキャリアでも、中盤から上のあらゆるポジションでプレーしながら、与えられたタスクを彼にしかできないやり方でこなしていくことになる。その点から見れば、バルセロナにおける唯一のユニバーサルなMFだったと言うこともできる。歴史的なパートナーであるブスケッツとシャビは、あまりにも攻撃の組み立てに特化しており、サイド、あるいは敵ゴールに近いところでプレーできる適応性の広さは持っていなかった。イニエスタはどんなポジションでプレーしても、チームメイトを助ける「ファシリテーター」として機能することができた。それは、彼のサッカー観がファシリテーターそのものだったからだ。理解しがたい専門用語にわかりやすい定義を与え、ピッチ上のカオスに秩序をもたらす。しかも、他の誰一人として思いつかないようなやり方で。
イニエスタのプレーは、その一つひとつがすべてシンプルで簡単なように見える。というのも、強引なプレーを選択することがほとんどないからだ。プレーの流れ、コンテクストはボールに触れる前の時点であらかじめ定められており、ボールに触れる時にはすでに次に起こることが見えている。それは、ラ・マシアで過ごした少年時代以来、内面化され、バージョンアップされてきた、ポジショナルプレーの考え方に基づくプレー原則と技術的なレパートリーの賜物でもある。
「多重知性理論」を提唱するハワード・ガードナーは、知性を次のように定義する。「ある特定の、あるいは複数の文化的文脈の中で評価を受ける、問題を解決する、あるいは成果物を生み出す能力」。この観点で言えばイニエスタは空間的知性のスペシャリストだ。それは、「時間、空間、移動に関わるもので、1つの対象を異なる角度から観察することを通じて、イメージを認知し、解釈し、変容させる能力である。これは、水平思考、多次元感覚、方向感覚の発達に支えられるタイプの知性であり、プレーの展開を先読みして素早い決断を下す上で本質的な重要性を持つ」(『スポーツ的知性』/ロサ・コバ著より)。知性がそのままフットボーラーの形をなしたようなイニエスタのクオリティを端的に理解する上で、これ以上の描写を見つけるのは難しい。
イニエスタは、それとは異なるいくつかのタイプの知性も非常に発達している。その中で、おそらく最も目に付かないのは「音楽的知性」だろう。彼の場合は、試合展開に応じてプレーのリズムを加速したり緩めたりするそれだ。ゲーム展開があまりにも性急になると、チームが秩序を失うのを怖れて、イニエスタはパススピードを落としたり、相手をおびき寄せたり、いったん後ろに戻して組み立て直したりして、プレーのリズムをスローダウンする。カオスに秩序を与えようとする彼の「性」がそうさせるのだ。しかし、試合が弛緩してリズムが落ちてきた時、バルセロナの8番はまるでビデオゲームのように展開を加速することができる。
イニエスタのボールスキルの高さは明白だ。メッシのようなアジリティを備えていないにもかかわらず、狭いスペースの中で彼の代名詞とも言える「クロケータ(コロッケ)=両足で連続してボールに触り相手を抜き去る技」を効果的に使いこなして、あらゆる状況から完璧なやり方で抜け出してみせる。2ライン間にパスを引き出し、ハーフスペースを使いこなす能力は、常に周囲の味方を使い生かしながらプレーする連係の能力と並んで、グアルディオラのバルセロナに決定的な貢献を果たした。イニエスタのフットボール・インテリジェンスを完璧に理解していたグアルディオラは、彼のキャリアに最大の転機をもたらした監督だった。途中交代時に切るジョーカーとしてではなく、司令塔の鍵を委ねたシャビにとっての基準点という役割を与えたのだ。似たような長所と欠点を持っている2人のプレーヤーを連係させるという選択は、当時、一見すると理に適っていないようにも思われたが、実のところ極めて筋が通っていた。弱点をカバーするのではなく、ピッチ上に秩序をもたらすという長所を増幅することにより、ボールを支配することがディフェンスそのものであるようなサッカーを完成させたのだ。
イニエスタはシャビにとって、自陣でパスコースを作り出すことはもちろん、それ以上に敵陣2ライン間にボールを送り込む上で、理想的なパートナーだった。グアルディオラのシステムにとって、イニエスタは出発点であると同時に、その長所を最大化する増幅装置として機能していた。バルセロナの中で、縦への志向を強く持った唯一のプレーヤーであり、狭いスペースの中で相手に囲まれながら、そこが自分本来の居場所であるかのように自然にボールを扱い、するりと縦に抜け出してみせるのだ。イニエスタほど、バルセロナの中でメッシと対等な存在であり得たプレーヤーは他にいない。その点に関してはネイマールですらも及ばなかった。イニエスタはメッシが頭に描いた楽譜を読み取り、その音楽に合わせて振る舞うことができたからだ。縦方向に繰り返しパスをかわしつつ、まるで糸で繋がれているように連係しながら前進していくプレーは、2人の呼吸がどれだけ合っていたかを象徴する映像だ。
誰もがバットマンになることを望み、ロビンにはなりたくないという時代にあって、イニエスタはそのキャリアを通じて、メッシというバットマンの忠実な盾というロビンの役回りを演じ続けた。にもかかわらず、主役として世界を救わなければならない立場に置かれた時には、平然とそれをやってのけた。さらに言えば、周囲のあらゆるものを惹きつけ自らの重力圏に取り込んでしまうメッシがいないスペイン代表におけるイニエスタは、バルセロナにおいて以上に重要な存在ですらあった。味方も敵も、周囲にいるあらゆるものが彼の周りに惹きつけられ、操られる。敵に囲まれたイニエスタを捉えた写真や映像が意味するのは、まさにそういうことだ。ピッチ上で敵味方に囲まれた空間こそ、イニエスタが生来の内気や繊細さを振り払って、持てるタレントを存分に解き放つことができる唯一の場所なのだ。彼がルイス・アラゴネス、そしてビセンテ・デル・ボスケにとって最も重要な存在であった理由もまたそこにある。
イニエスタの遺産
Il lascito di Iniesta
彼のキャリアのパラドックスは、これだけ偉大なタレントを持ちながらこれだけ目立たない存在だったプレーヤーを思う時、誰もが2つのゴールを頭に浮かべるということだ。1つはいわゆる“イニエスタッソ”、すなわちチェルシーとの08-09CL準決勝の後半ロスタイム(93分)、ローマでの決勝にバルサを導いたゴールだ。グアルディオラ時代のバルサにとって、このゴールは最も重要なエピソードだろう。もう1つは、フットボールそのものの歴史に残る「スペインの時代」の象徴とも言える、オランダとのW杯決勝で母国を世界の頂点に押し上げた、延長後半116分の決勝ゴールだ。どちらの場面でも、シュートの瞬間のイニエスタは、世界で一番落ち着き払っているように見える。実際、これだけ極限的にデリケートな状況の中で決定的な仕事をしたのが彼だったことは、決して偶然ではないだろう。オランダ戦でシュートを打とうというその瞬間、「静寂を聞いた」とイニエスタは言う。あらゆる外部からのノイズを遮断した完璧なコンセントレーションをこれほど豊かに表現する言葉を他には知らない。
彼の人生のパラドックスは、極端なまでの繊細さ、そして周囲で起こるすべてを吸収し解析し処理する能力が、この2つのゴールに挟まれた時期(幸運なことにこの時期のみ)を壊してしまったこと、そしてこの2つのゴールが彼にまつわる記憶と伝説のみならず、彼の人生そのものを規定してしまったことにある。チェルシー戦のゴールの後、イニエスタはかなり深刻な右脚の肉離れ(7カ月で4度目)に襲われた。わずか17日で復帰を果たしたものの、マンチェスター・ユナイテッドとの決勝には、ドクターからシュートを打つのは避けるようにと言われるほど、酷いコンディションで臨まなければならなかった。バルセロナは決勝を制したが、この勝利はイニエスタから何かを吸い取ったかのようだった。夏の間を通して何かがおかしいことに気づき、体調は日増しに悪くなっていった。あらゆるメディカルチェックを受けたが、身体からは何一つ異常が見つからない。そしてプレシーズンキャンプの初日、また同じ箇所に肉離れを起こして、1人で別メニューのトレーニングを強いられることになる。アメリカツアーの最終日、プジョルから伝えられたニュースはショッキングなものだった。エスパニョールのキャプテンで仲のいい友人でもあったダニ・ハルケが、チームが合宿を行っていたイタリア・コベルチャーノのトレーニングセンターで、急性心不全を起こして死亡したというのだ。「その瞬間から、知らない場所へ落ちていくような感覚が襲ってきた。僕は深いクレバスの闇を見た。ドクターに『もう無理です』と言ったのもその時だった」。はっきりと明言されてはいないものの、クレバスとは鬱のことだろう。明言してしまえば問題を認め、それに重みを与えることになる。サッカーの世界においてそれはまだあまりに大きなタブーだった。
また、イニエスタは犠牲者として扱われたくはなかった。「普通の」人々がそれに耐えているのを考えれば、自分があまりに弱い人間であるように映ることは明らかだったからだ。状況がどれだけ深刻だったかを物語るのは、イニエスタが「心と身体がこれだけ傷つきやすい状況に陥っている時には、逆にどんなことでもできるものだ。言い過ぎに聞こえるかもしれないけれど、時に狂気の沙汰に陥る人の気持ちが僕には理解できる」とまで口にしていたという事実だ。その行き着く先は、自殺である。彼をこのクレバスから救い出すためには、心理学者からフィジオセラピストまでを含むチームの仕事が必要だった。しかし、アスリートにとっての問題は、いったん復帰を果たした後に、ピッチ上でかつてと同じようにプレーするために必要な自信や確かさを取り戻さなければならないことだ。イニエスタは、トレーニングでも以前は当たり前だった初歩的なことすらできなくなって、チームメイトを驚かせたと述懐している。事実、真の意味でこの円環を、ほとんど魔術的なやり方で閉じたのは、他でもないW杯決勝でのゴールであり、その後世界に向けて見せた「ダニ・ハルケ、永遠に我らとともに」と書かれたあのTシャツだった。
心理学者たちによるケアの後に生まれたW杯での決勝ゴールは、どんなに狭いスペースの中でもボールを使って解決をもたらし、いかなる汚い手段も使うことなく相手を完全に支配する術を備えた、史上最も偉大なインサイドMFを、我われに送り返してくれた。その強大な力はしかし、常にあまりにも優美なやり方で表現されるがゆえに、避けがたく目立たないものになる。(『グアルディオラ総論』(小社刊)の著者)マルティ・ペラルナウは「影のメッシ」とイニエスタを称し、ずっと目立たないが同じように決定的な仕事を果たす天才であり、2010年のバロンドールを勝ち獲るべきはメッシではなく彼だった、と書いている。
イニエスタはモダンフットボールの海を、巨大な豪華客船のように悠然と渡っていった。雨や嵐に遭ってもそれに妨げられることなく、静かにしかし力強く、自らのペースで進んでいった。彼をめぐる伝説は、彼の知性やタレントと同様に、様々な方向を向いている。超ダイナミックなフットボールにおけるボールコントロールの象徴。決して過剰にならずヒロイズムとも無縁の静かなる王。スペインサッカーの守護聖人。伝統と革新が同居した生けるパラドックス(彼のサッカーは1950年代にも栄光をもたらしただろう)。自らは舞台裏を選びながら表舞台で主役を演じることになった名優――。
彼に与えられたニックネームで最も有名なのは「イルージョニスタ」(手品師)だ。そう呼ばれるのは、すべてのことをあまりに簡単なように見せてしまうからであり、キャリアのほぼすべてを通して単なる脇役であるかのように振る舞いながら、実はバルサとスペイン代表の真のエンジンだったからだ。
21世紀に最も過小評価されたカンピオーネ、あらゆる試合状況に適応してどんなアイディアも形にしてしまう唯一無二の天才。彼のバルセロナにおけるスーパーヒーローであるメッシにすら、それだけの能力は備わっていない。それはアルゼンチン代表でのキャリアを見れば明らかだ。バルセロナが2006年以来戦った4度のCL決勝すべてでプレーした唯一の選手。スペイン代表のビッグトーナメント3連覇(EURO2008、南アフリカW杯、EURO2012)ですべての決勝でスタメンを務めた4人のうちの1人(残る3人はカシージャス、セルヒオ・ラモス、シャビ)。イニエスタはビッグマッチでこそ本領を発揮するプレーヤーでもある。
常によりダイナミックでよりハイスピードな方向に向かうモダンフットボールにおいて、イニエスタのようなプレーヤーを我われが再び見ることができるかどうかはわからない。彼のようなタレントがいたとしても、スカウトたちはそれほど評価しないかもしれない。しかしもし見出されたとしたら、トップレベルのサッカーには欠かせない、そして希少価値を持ったプレーヤーになるだろう。試合のリズムをコントロールし、それを武器に流れを決定づける存在だ。
リーガにおける彼のストーリーに幕が下りた今、スペインを1つにまとめることができる唯一のフットボーラーが舞台を去る。イニエスタは口数が少なく内向的で、削られれば自分の方が謝るような(これはエトーの証言だ)子供であり、キャリアの最後を日本という新たな舞台で過ごした後、おそらくラ・マンチャの地に戻って自らの農園を経営して暮らすことになるのだろう。コパ・デルレイの決勝、セビージャを相手に見せた素晴らしいパフォーマンスは、簡単に決めたように見える難しいゴールも含めて、別れの舞台としては申し分のないものだった。今回ばかりは、真の王は観客席にではなくピッチの上に存在していたということを、すべての人々が理解し、それを心ゆくまで味わったのだった。
Photos: Getty Images
Profile
ウルティモ ウオモ
ダニエレ・マヌシアとティモシー・スモールの2人が共同で創設したイタリア発のまったく新しいWEBマガジン。長文の分析・考察が中心で、テクニカルで専門的な世界と文学的にスポーツを語る世界を一つに統合することを目指す。従来のジャーナリズムにはなかった専門性の高い記事で新たなファン層を開拓し、イタリア国内で高い評価を得ている。媒体名のウルティモ・ウオモは「最後の1人=オフサイドラインの基準となるDF」を意味する。