カタールW杯はアパルトヘイト? 開催地問題の裏にある人権侵害
カタール2022の影で進む悲劇
「カタールは2022年W杯の施設建設に携わる労働者を監禁し差別している。それを明らかにし語るべき時がきた」という書き出しで、イタリアのWEBマガジン『ウルティモ・ウオモ』に衝撃的なレポート(2017年11月9日公開)が掲載された。ITUC(国際労働組合連盟)が「アパルトヘイト」と非難するカタールの外国人労働者への差別的な待遇は、FIFA(国際サッカー連盟)が開催地剥奪を検討している有力な理由の一つでもある。サッカー界がどう対処するのか今、問われている。
2022年W杯のカタール開催が決まってから7年あまりが過ぎた今もなお、その開催と組織運営についての議論は絶えることがない。この大会のあらゆる側面が問題になっているばかりか、その一つひとつが巨大でかつ終わりのない論争を巻き起こし、開催プロセスそのものがいつ無に帰してもおかしくないという印象すら与えている。
まず起こったのは、開催権を手に入れるためFIFAの理事たちを買収したのではないかという疑惑だった。カタールにはこれだけ重要なイベントを開催する資格がないことを示すはずだったこの疑惑は、しかし逆にFIFA首脳陣を総辞職に追いやるという結果をもたらした。
続いてペルシャ湾の猛暑をめぐる議論が起こった。夏季には簡単に摂氏40度を超えるにもかかわらず、カタール首脳は最新のテクノロジーを使って解決すると約束したが(具体的にそれが何なのか示されることはなかった)、FIFAは最終的に開催を夏から冬へと移す決定を下すことを強いられた。
そして今度は、この開催時期移行に絡んでTV放映権をめぐる疑惑が飛び出した。アメリカンフットボールのシーズンとW杯が重なることに抗議した米『FOX』に対して、FIFAは数百億円単位の損害を被ることを承知で、2026年W杯の放映権も2022年大会と同じ金額で譲渡することを約束せざるを得なくなった。さらに、カタールが保有するパリSG、そしてメディアグループ『BeINスポーツ』の会長であるアル・ケライフィが、2026年と2030年の放映権をめぐり、前FIFA事務局長ジェローム・バルケを買収したという問題も飛び出した。
ダメ押しとなったのはもちろん、他の湾岸諸国がカタールに突きつけた、国際テロ組織への資金援助を理由とする国交断絶というカードだった。当初は暗に示唆され、その後はっきりと表明されたのは、2022年W杯の開催権返上がこの問題を解決する鍵だということだった。
私たちは、まるで政治ミステリードラマをリアルタイムで追っているかのように、この一連の出来事の虜になった。砂漠の小国を支配するエキゾチックな王室が、世界の中にその居場所を見出そうと、グロテスクなまでに腐敗した国際組織を舞台に陰謀を仕組み、その中で様々な登場人物が暗躍するという、目が離せないドラマだ。
しかしまさにそれこそが、2022年W杯に向けたカタールの歩みを語ろうとする時に直面する問題だ。『ハウス・オブ・カード』ばりのTVドラマとして語るというのが、おそらく最も簡単でわかりやすいやり方だろう。しかしそれでは、問題のほんの一部分にしかスポットを当てることができない。W杯のようなビッグイベント開催の背景にあるすべて――国が抱く展望、国民の反応、社会の変化――が視野から消えてしまう、というよりも、単に存在していないことになってしまう。
歪んだ人口構成
Il nodo della struttura demografica
存在していないように見えるのは、語るべきこと、読むべきことがそこには何もない、あるいは他にもっと興味を引く側面があるという理由からではない。古代文明のような社会構造が今も温存されているカタールという国において、事実上不可視の存在として扱われている人々に関わっている問題だからだ。
カタールの国土はカンパーニア州よりもちょっと狭く、そのほとんどすべてが砂漠に覆われている。そして、英連邦から独立してから間もない1970年代初頭に、世界最大規模の油田とガス田が地下に埋もれていることが明らかになった。
原油と天然ガスの輸出がもたらす経済成長を支えるため、カタールは他国、とりわけ東南アジアから労働者を輸入するようになった。70年代当時の人口が11万人弱でしかなかったことを考えれば避けられない政策だったが、これが時とともに様々な問題と矛盾をもたらすようになった。現在、外国人はカタール全住民の90%近くに達しており、そのほとんどは建設業とサービス業に従事する単純労働者である。国別に見ると、最も多いのはインド人で住民の約25%を占めている。これはカタール国籍を持つ国民の倍以上にあたる数字である。
この極端に偏った人口構成は、制度的な差別と密接に結びついている。外国人労働者は、自身の社会的地位と待遇を変える可能性をまったく与えられておらず、カタール社会においていかなる権利を享受することも許されていない。カタール国籍の取得は夢のまた夢だ。国籍は血縁によってしか与えられない仕組みになっており、労働者は前時代的な法制度によって自身の雇用主に縛りつけられている。
「カファラ(kafala)」と呼ばれるこのシステムは比較的知られている。労働者は雇用主の許可なしでは辞職することも転職することも許されていない。不当労働行為や暴力を受けた時ですらそれが変わらないことは、国際人権団体やNGOが集めた匿名の証言からも明らかだ。労働者はパスポートを雇用主に預けることを義務づけられており、いつどのようにカタールを去るかを決める権利すら与えられていない。このシステムは昨年末に是正されたが、それも形の上だけの話であり、ベースにある搾取の論理は事実上まったく手がつけられないまま温存されている。
労働災害死のブラックホール
Il buco nero dei morti sul lavoro
カタールの人口構成とその前時代的な社会システムは、スタジアムをはじめとするW杯関連施設の建設現場における労働災害死がなぜ、他国の劣悪な労働環境に対する単なる義憤というレベルを超えて、この湾岸の小国の社会的な安定を揺さぶるほどの問題であるのかを説明する。ドーハの政府は、全人口のほんの一握りの利害を代表しているに過ぎない。そしてその人々は、数の上では完全な少数派であるにもかかわらず、政治、経済、社会に関わるほぼすべての権力と利権を独占し、しかもそれを現状維持のために使っているのだ。
最大限に搾取されている圧倒的な多数派が目を覚まし、自国の社会が根本から変化を強いられることに対する恐怖は、現実には起こる可能性が低い国際社会によるW杯のボイコットに対する不安よりもずっと大きい。そしてまさにそれが、W杯開催をめぐるカタールの国内状況について我われがほんの少ししか知ることができない理由である。
例えば、『インディペンデント』紙に掲載された、W杯開催に絡んだ労働災害の状況に関する記事は、バングラデシュから好条件の仕事だと偽って連れて来られ、スタジアムの建設現場で半奴隷状態での労働を強いられているスモンという男を主人公とした架空のストーリーから始まっている。この手法には、実在の人物にまつわる、それゆえ我われ読み手に共感、そして憤慨を呼び起こす力を持ち得るストーリーが隠蔽されているカタールの現実に対する抗議の意味が込められている。
この問題にまつわる現実は、それよりもさらに深いところにある。というのも、実際に起こっている悲劇を白日の下にさらす具体的な名前や顔が見えないというだけでなく、この悲劇がどれだけの規模で起こっているのかを理解することすらできないからだ。何よりもまず、開催が決定してから7年以上の時を経てもなお、関連施設の建設現場でどれだけの労働者がその劣悪な労働環境のせいで命を落としているのかという、その数字すらも知ることができないのだ。
2015年5月、『ワシントン・ポスト』紙が掲載したルポルタージュは、2010年12月からその時点までにおよそ1200人の死者が出ていると伝えたが、その後すぐ2022年W杯のためには「一人の命も失われてはいない」というカタール政府の抗議によって削除されることになった。現在その記事は、編集部が自らの無力を認めた「現実問題として、W杯に結びついた死者が(もしいるとすれば)どれだけいるのかについて確かめる術はない」という前文によって、半ば手足をもぎ取られたような状態で再掲されている。
ドーハの政府ができる限り隠蔽しようとしているこの抑圧的なシステムがもたらしている問題は他にもある。ITUC(国際労働組合連盟)のあるレポートには、何カ月分かの給料支払いを求めた労働者が懲役3年、罰金約3000ドルという判決を受けた例が紹介されている。これは数あるうちの一つに過ぎない。
2017年9月には、カタールにおける労働者の就労環境について調査していた国連の労働人権監視組織ILO(国際労働機関)に、自らの状況について報告した別のある労働者が、その面接から数日後に解雇されるという出来事も起こっている。ILOは2016年3月、カタールに対して「カファラ」の法的な要件を見直すよう勧告しているが、すでに見た通りそれは形式的にしか行われていない。にもかかわらずILOは、このほんの小さな譲歩に理解を示し、さる11月8日、2014年から進めていたカタールの強制労働禁止協定違反に関する審査を終了する手続きを取った。カタール政府はそれと引き替えに、向こう3年間の調査に対する協力を約束している。
政治的責任
Le responsabilità politiche
皮肉な話だが、この問題の不透明さには、労働者を送り込んでいる国々との共犯関係も加担している。例えば、カタールのインド大使は少し前に、カタールのインド人コミュニティにおける死者数は一般的な水準であり、「その大部分は自然な原因によるもの」だと表明している。それが何を意味するのかは明らかではないが……。
こうした態度の背景にある理由が経済的なものであることは容易に想像がつく。2018年ロシアW杯の建設現場において北朝鮮人労働者が奴隷的な搾取を受けていた一件が示すように、労働力としての人材は二国間の経済関係における一種の通貨として機能している。バングラデシュやネパールのように貧しい小国にとって、労働者たちが自国の家族に送る金が重要な外貨獲得源であることを考慮に入れないとしてもだ。
しかしもちろん、最も大きな責任は、自国における少数民族が手にしている不当に大きな利権を守ることだけを考えている一握りの政治的エリートたちにある。人口1人あたりGNPで世界のトップに立つカタールは、この桁外れの豊かさを全人口のごく一部を占める自国民だけで独占し続けようという目論みを、経済の多角化への執着、そして国際社会における影響力拡大への強い意志と結びつけようとしている。
問題は、サッカーを通じたソフトパワー、ヨーロッパへの巨額の投資、国際的な観光地となるための外交努力の背後に、ITUCが明確に「アパルトヘイト」と定義づけたシステムが存在しているという事実だ。「アパルトヘイト」という単語は、過去の歴史的な事実への言及という意味においてだけでなく、取り扱うべき状況の全体像に明確な法的枠組みを与える目的で選ばれ、使われている。すなわち、国際刑事法廷の条文においては、「構造的な抑圧や、特定の民族集団による他の一つあるいは複数の民族集団に対する一方的支配が、その体制を持続する目的で制度化された政体の下で行われている」人道に対する犯罪が「アパルトヘイト」と呼ばれているのだ。
すでに見たように、この人種隔離政策は社会的レベルでも法的レベルでも現実に、文字通りの形で行われている。2015年10月、カタールの都市計画担当省は、労働者の宿舎(定員をはるかに超え衛生環境も悪い建物)はドーハ中心部の住宅地から離れた場所に建てられなければならないと定めた。東南アジアからやってきた低賃金の労働者は、週末にショッピングセンターへの立ち入りが禁止されているばかりか、例えばカタールの独立記念日のような公的催事への参加も許されていない。
これほどの規模で人道に対する犯罪が行われている可能性があるという疑いだけでも、国際社会にはそれを調査した上で、必要であればこれまで行われたよりもずっと毅然としたやり方で介入することが求められるはずだ。そしてFIFAにとっては、この機会を逃すことなく「国際的に認められた人権を守るために戦う」というFIFA憲章第3条の遵守を打ち出せば、汚名返上と信頼回復への大きな一歩になるはずだ。
国際社会が一致して事に当たれば、南アフリカのケースがそうだったように、実質的な結果をもたらすことが可能だ。南アフリカはスポーツ界においても1964年の東京オリンピックから締め出され、その6年後にはIOCそのものからも除名を受けた。政治的には簡単な選択ではないし、すぐに成果が期待できるわけでもない。そこに無視できないほど大きな経済的利害が絡んでいることは、偽善や買収の可能性を指摘せずとも理解できる。しかし各競技連盟、そしてスポーツ界全体がボイコットや制裁を行えば、カタールを国際的に孤立させ、変化に向けて後押しするだけの影響力を持つことができるはずだ。
しかし現在のところは、イングランド(FA)とドイツ(DFB)が、自分たちの利害に絡んでその可能性を示唆しただけにとどまっている。両国がそれぞれW杯の開催に興味を持っていることは周知の事実だ。しかしいずれにしても、これだけ露骨に人道に反している状況、そこまで言わずともカタール政府がこの件に関して透明性をまったく欠いている現状を黙って受け入れるという態度が最悪であることに変わりはない。
2022年W杯の開催権がカタールの手に渡った意義があるとすれば、この抑圧的な政体に対して関心と注意が集まり始めたことだろう。こんなことでもなければおそらく真剣な検討の対象にはならなかったに違いない。サッカーは国際世論に対して他に類がないほどの影響力を持っている。カタール2022はそれを行使するにはまたとない機会だ。国や国際機関、参加する代表チーム、そして観客はピッチ上で展開されるスペクタクルだけに目を向け、それを生み出し消費することで満足して、専制的な政体の道具にされることに甘んじるのか。それとも自らの持つ影響力を自覚し行使することを通じて、このW杯を理論上起こり得る社会変革のきっかけに変えていくのか。
最後は常に選択と決断の問題である。
Translation: Michio Katano
Photos: Getty Images
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Profile
ウルティモ ウオモ
ダニエレ・マヌシアとティモシー・スモールの2人が共同で創設したイタリア発のまったく新しいWEBマガジン。長文の分析・考察が中心で、テクニカルで専門的な世界と文学的にスポーツを語る世界を一つに統合することを目指す。従来のジャーナリズムにはなかった専門性の高い記事で新たなファン層を開拓し、イタリア国内で高い評価を得ている。媒体名のウルティモ・ウオモは「最後の1人=オフサイドラインの基準となるDF」を意味する。