ミランラボが実験した“脳トレ”。緊張を支配する「マインドルーム」
ミランのコンディショニングセンター「ミランラボ」では、様々な実験的なメソッドが行われてきた。「バイオフィードバック」というテクノロジーを使ったメンタルトレーニングのシステム「マインドルーム」もその一つだ。
ミランラボのコンセプトが革新的だったのは、選手のパフォーマンスを最大化するためには、テクニックやフィジカル能力を高めることだけでは不十分であり、それを試合という場で最大限に発揮させるメンタル的なコンディションをも整えることが必要だという考え方に立って、フィジカル、メディカル、メンタルという3つの側面を統合したコンディション管理のメソッドを開発・適用したところにある。
簡単な例を挙げれば、PKの成功率は、練習時よりも実際の試合時の方がずっと低くなる。これは、試合という環境がもたらす緊張や不安といったメンタル的なストレスが、マイナスの要因としてプレーに干渉した結果である。普段はトップレベルのパフォーマンスを見せているのに、重要な試合になると突然本来の力を発揮できなくなる選手は少なくないが、これもメンタル的なストレスが原因であることは明らかだ。
「ミランラボ」の立ち上げ(2003年)に際して中心的な役割を果たしたブルーノ・デミケリスは、トップアスリートとしての経験と心理学者としての知見から、このメンタル的なストレスを科学的な方法で計測しモニターするだけでなく、それを低減し除去するストレスコントロールの手法を開発することでパフォーマンスの最大化を実現しようと、長年研究と実践を続けてきた。それが具体的な形になったのが、彼が2005年にミランラボに導入した「マインドルーム」というメンタルトレーニングのシステムだ。
マインドルームで使われているのは、バイオフィードバックとニューロフィードバック(※)というテクノロジーである。これは一言でいえば、被験者の生理的・心理的状態を科学的な方法で計測し、そのデータを視覚化して、被験者自身が認識できるようにするためのシステムだ。具体的には、脳波計、心電図、筋電図、呼吸計、皮膚電気反射測定器といった機器を使って計測した、ストレスの指標となる各種データ(脳波、心拍、筋肉の緊張度、呼吸、皮膚温度、発汗など)を、グラフなどに変換してモニターに映し出す。
ここで計測の対象になっているストレス指標は、いずれも自律神経に支配された生体反応であり、自分の意思によってコントロールすることができない「不随意」な身体活動であると考えられている。しかしこのシステムによってストレスを科学的に計量化できれば、それを低減させるためのトレーニングを開発することで、ストレスを「随意」的にコントロールすることが可能になる、という発想である。
追体験でストレス再現、エクササイズで克服
実際のマインドルームも、リラックスできるリクライニングチェアに座った選手に上で見たような測定機器をセットすることで、ストレス値をリアルタイムで計測し表示できるようになっている。リクライニングチェアの横には、選手が自分のストレス値を見るためのラップトップコンピュータが置かれ、正面には大きなスクリーンが設置されている。
この選手が、例えばフィリッポ・インザーギだとしよう。正面のスクリーンには、彼が簡単なシュートチャンスをミスしてゴールを決められなかった場面の映像が流される。それを見ながらミスした場面を追体験する時、インザーギの脳や身体にはその時に感じたストレスも再現される。脳波や心電図には乱れが出て、筋肉が緊張して呼吸が速くなり、血圧も上がり発汗するといった具合だ。そして彼は、ラップトップのモニターを通じてその変化を視覚的に認識し自覚することができる。イメージとしては、自分を操るための計器がついたフライトシミュレーターのようなものである。
リクライニングチェアがある部屋とガラスで隔てられたモニタールームにも、すべての計測値を表示するスクリーンがあって、ここに陣取ったデミケリスは、どんなインプットを入れると、インザーギの脳と身体のどこがどう反応するかを調査する。このデータを通して、ストレスに対する脳と体の反応を把握した後は、その反応をコントロールするために必要なエクササイズのメニューを準備し、それを繰り返し行うことを通じて、最終的には同じ場面に遭遇してもストレス値が上がらない、つまり冷静かつ集中した精神状態を保てるようになることを目指す。
これは、最も簡単に言えばいわゆる“脳トレ”の一種。緊張や不安、プレッシャーによるストレス(日本語でいう「アガり」の状態)を、各種センサー機器を使って科学的に計測・モニターしながら、それを低減・除去するストレスコントロールの技術を身につけるためのエクササイズを行うというものだ。
エクササイズの多くは、モニターに映し出されたストレス要因をゲーム形式でコントロールするもので、呼吸のリズムと深さによって、画面に表れた動物を前進させたり交代させたりするゲームはその一例。これによって、リラックスした状態と緊張した状態を自分の体に作り出し、それをコントロールする技術を体に学ばせていくわけだ。“脳トレ”ゲームのように作られたエクササイズを繰り返し行うことを通じて、例えば自転車に乗るのと同じようにストレスコントロールの技術を内面化できるのだという。
心拍数コントロールで疲労回復を早める
さらにマインドルームは、試合後のコンディション回復を早めるためにも使われている。
試合を戦った後の選手は、肉体的には極限に近く消耗した状態にある一方で、精神的には極めて高揚した状態にある。ナイトゲームを戦った選手が朝方まで眠れないという話はよく耳にするが(深夜のディスコによく出没するのはそのせいか)、これも試合が終わってからかなりの時間が過ぎてもアドレナリンの分泌が続いて、自律神経系が興奮=高ストレス状態(交感神経系が支配的な状態)を保っているからだ。この状態が続くと、心拍や血圧が高く保たれるためエネルギー消費が大きくなり、いわば燃費の悪い状態が続く。
現在のように中2日、しかも数時間の移動を伴うというハードスケジュールが恒常的になると、この自律神経系の興奮状態をできるだけ早く収束させて身体を燃費のいい状態に戻すことも、次の試合に向けたコンディショニングにおいて、決して小さくない違いを作り出す要因になってくる。クラレンス・セードルフは、マインドルームで呼吸と心拍をコントロールするエクササイズをすることで、試合翌日の心拍数が毎分10拍前後低くなり、回復スピードがその分速くなったのだそうだ。
発案者は元空手家の心理学者
このシステムを考案したブルーノ・デミケリスは興味深い経歴を持っている。ミランで1987年から2009年まで22年にわたってチーム付きの心理セラピストを務めたスポーツ心理学者で、かつて欧州チャンピオンに2度輝いた空手家でもあり、トップアスリートとしての経験と心理学者としての知見に基づき、緊張、不安、恐怖といったストレスを科学的に計測してそれを低減する手法の開発に取り組んできた。
ミランラボにマインドルームを導入した後、2009年アンチェロッティとともに「移籍」したチェルシーでも、コブハムのトレーニングセンター内に「ヒューマン・パフォーマンス・ラボラトリー」を設置して、同様のシステムを導入している。欧州のトップクラブではレアル・マドリーも、デミケリスが監修した「マインドルーム・インターナショナル」社のシステムを導入している(ちなみに同社はこのシステムを能力開発ツールとして企業向けにも売り込んでいる)。
ミランラボ自体は、デミケリスが去った以降はフィジカルコーチのダニエレ・トニャッチーニが主導権を握っており、マインドルームは使われていないが、近年イタリアではフィオレンティーナ、セリエBのピサなどが導入している。
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Profile
片野 道郎
1962年仙台市生まれ。95年から北イタリア・アレッサンドリア在住。ジャーナリスト・翻訳家として、ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を広げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。主な著書に『チャンピオンズリーグ・クロニクル』、『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』『モウリーニョの流儀』。共著に『モダンサッカーの教科書』などがある。