一昔前のJ2各クラブはまだまだ環境が未整備でおよそプロが所属する環境とは言えなかった。現代の選手たちが経験せずとも済む環境ではあるが、当時のJ2を渡り歩いた馬場賢治は「嫌だったシーズンは一つもない。それがすべて」と言い切る。馬場は当時のJ2で魂を磨かれ、一流のJ2リーガーとなった。馬場がJ2で出会った超人たちと七転八倒する体験記を前後編に分けて放談。ライター・ひぐらしひなつがストーリーテーラーとしてお届けする。
仲間の意見を集約して北野監督に進言するときも
行く先々でそれぞれの環境に適応しながらそれぞれの監督のサッカーを体現してきた中で、そのときどきに感じることによって、馬場自身の目標も少しずつ変わっていった。
対相手戦術要素よりもプレー強度に重きを置いていた水戸とは一転、グラウンドの関係で対相手戦術ばかりになりがちだった讃岐。
「でも、ブレないんですよ。勝てないことが基準だから。キタさんも勝ち慣れてないもんだから、勝ちはじめると落ち着きがなくなる。自分で言ってましたよ、『勝つと色気が出ちゃう』って」
なかなか勝てずに苦しむ中で、選手とスタッフはいつも本音をぶつけ合っていた。ミーティングで仲間隼斗が「勝ちたいです!」と訴え、北野監督が「じゃあどうやって勝つんだよ!」と切り返して仲間が泣き出したこともある。讃岐に加入した当時、馬場はすでに30歳だったが、それでも馬場より年上の選手が12人もいた。その12人の先輩たちの様子を窺うも誰も動かないので、仕方ない、俺が行くかと馬場がその場を取りなした。仲間の意見を代弁し、これは下手すれば監督への反逆として試合で使ってもらえなくなるかもしれないと馬場は思ったが、北野監督は選手たちの意見を採用し、それが奏功して試合にも勝利した。
「でもキタさんは子供だから、そこから2日間くらいは練習を見ないでグラウンドの周りをイジケて歩いてみせたりしてた。これ実話ですよ(笑)。そこからチームはまとまっていって、5連勝するんです。実際には相手との選手層の差で勝てなかったり、僕らがキタさんの戦術を体現できなかったり、逆にキタさんが僕らに落とし込めなかったりといろんなことがあったと思うんですけど。そこでは監督に対しても先輩に対しても本音のぶつかり合いしかなかったし、逆に言うと1勝の重みをすごく感じることが出来た。難しい環境でみんなで準備して、それがハマって試合で勝ったときの喜びの大きさは、正直、環境の整ったところで練習して勝つときの比じゃなかったですね」
そんな讃岐だったが、2016年には、その年にプレーオフを制してJ1復帰することになるC大阪にリーグ戦2勝を遂げる。
「讃岐って、あんな環境で練習しているあんな小さいクラブが、本来はJ1にいるべきだと言えるC大阪や清水に対して普通に戦って勝てたりするんです。そういうレベルの高い選手たちとマッチアップして勝っていくうちに、自分自身、ラストチャンスとしてもう一度J1にチャレンジしたいという思いが湧きあがってきて。讃岐に加入した当時はそんな思いはもうあまりなかったんですが、そんなふうに思わせてもらえたことが、讃岐での僕のいちばんの収穫でした。そんなときに大分が、最初に声をかけてくれたんです。J1に上がるなら大分だと思って、すぐに移籍を決めました」
鹿島に憧れを持ったときに「あ、終わったなと」
そうやって移籍した2018年の大分で、馬場は自身のキャリアハイとなる12得点を挙げる。シュート3本に1本という高決定率だ。
「あれは周りの選手のおかげです。質の高い選手がたくさんいて、アシストしてくれた。ほとんどワンタッチで点が取れるから、最後の仕上げをしっかりすればよかった。僕ももちろんビルドアップに関わるんですけど、流れがいいと決まるんだなと」
片野坂知宏監督が2016年から構築してきた独特のポゼッションスタイルが完成度を高めていたシーズンでもあった。対相手戦術のトレーニングでのシミュレーションが実際の試合で再現される率も高く、戦術に説得力があったという。
だが、そうやってJ1自動昇格を遂げ、もう一度J1にチャレンジした2019年。馬場は7月に、讃岐時代の恩師・北野監督に請われてJ2で残留争い中の岐阜へと移籍する。……
Profile
ひぐらしひなつ
大分県中津市生まれの大分を拠点とするサッカーライター。大分トリニータ公式コンテンツ「トリテン」などに執筆、エルゴラッソ大分担当。著書『大分から世界へ 大分トリニータユースの挑戦』『サッカーで一番大切な「あたりまえ」のこと』『監督の異常な愛情-または私は如何にしてこの稼業を・愛する・ようになったか』『救世主監督 片野坂知宏』『カタノサッカー・クロニクル』。最新刊は2023年3月『サッカー監督の決断と采配-傷だらけの名将たち-』。 note:https://note.com/windegg