38歳のサッカー少年が持ち続けている尽きない情熱。「上手くなりたいという部分はまったく衰えていない」 おこしやす京都AC・岩間雄大インタビュー(後編)
初めてJリーグのピッチに立ったのは27歳の時。高校卒業後の1年半は所属チームが決まらなかった。20代の4年間はパン工場のラインに入り、居酒屋の厨房に立ちながら、JFLでサッカーを続けていた。5年前には右ヒザに大ケガを負い、選手生命の危機も迎えた。それでも38歳になった今、その男は地域リーグの舞台でボールを追い掛けている。魂のプロサッカー選手、岩間雄大の波乱万丈なキャリアを振り返るロングインタビュー。後編ではとうとうJリーガーとなったV・ファーレン長崎時代、アルウィンの熱狂に包まれた松本山雅FC時代、思うような時間を過ごせなかった栃木SCと藤枝MYFC時代、そして再びJFLでのチャレンジを決断したラインメール青森FC時代を、それぞれ時系列で振り返ってもらった。
サッカーにだけ専念できる生活になって感じた「プロの責任感」
――V・ファーレンでは移籍していきなりキャプテンをやられていたんでしたっけ?
「1年目の途中から任されましたね。最初は決まったキャプテンがいなくて、いろいろな選手がやっていたんですけど、僕はもともとかなり人見知りな性格なので、移籍した当初は佐野(達監督)さんからも『“お客さん”じゃないんだぞ。もっと自分を出せよ』とかなり言われ続けていたんです。でも、ずっと試合には使ってもらっていた中で、1年目は昇格自体がなかったので、そこでたぶん『もっと自覚を持ってやってくれ』という意味で任されたのかなとは思っています」
――そうか。まだクラブにJ2ライセンスが発行されていなかったんですね。
「そうです。1年目はなくて、2年目でライセンスが獲れて、という形ですね。その時はもうキャプテンはユキさん(佐藤由紀彦)になっていました」
――いわばサッカーだけに専念できて、他の仕事をしなくてもいい生活がやっと訪れたわけじゃないですか。その日常はいかがでしたか?
「まず嬉しいという気持ちとともに、『より一層サッカーに集中できるな』と思いましたし、全員がプロ選手という環境の中でプレーするのは初めてだったので、そういう意味での厳しさや責任感というのは、周りの先輩たちや佐野さんからも凄く教えてもらった気がします。『プロってこうなんだな』と感じました」
――V・ファーレンでの2年目は結果的にJFLで優勝して、Jリーグに昇格したシーズンでしたが、ライセンスも獲れたことで『ここを勝ち抜けばJリーガーだぞ』ということが見えていた1年じゃないですか。やっぱり充実していましたか?
「充実していました。でも、ものすごくキツいシーズンでした。本当に難しかったです」
――どういうことがキツかったんですか?
「JFL自体のレベルがとにかく高かったです。Honda FCがいて、ソニー仙台FCもいて、(AC長野)パルセイロも本当に強かったですし、そういう中で1試合も落とせないような状況がずっと続いて、『負けたら順位が落ちてしまう』『この試合は勝たないといけない』というプレッシャーがものすごかったですし、クラブとしても『今年で上がらないといけない』ということを義務付けられていたシーズンだったので、精神的にも肉体的にも追い込まれつつ、充実したシーズンだったなと思います」
――チームメイトもなかなか凄まじかったですよね。
「かなりのメンツだったと思います」
――特に影響を受けた方はいらっしゃいますか?
「やっぱりベテラン選手の存在は大きかったです。自分もまだ26歳ぐらいで、上にはユキさんがいて、ゴンちゃん(中山悟志)がいて、アリさん(有光亮太)も松橋章太さんもいて、本当に言葉でもプレーでも見せてくれる先輩たちがいてくれたのは、凄く大きなことでした。アリさんには凄くかわいがってもらいましたね。ゴハンに連れて行ってもらったり、家にも呼んでもらったりしました」
――当時のV・ファーレンにはおそらくクラブ自体も、あるいは長崎の街自体も、選手たちにも、まさにJリーグに上がっていこうとするタイミングならではの機運や雰囲気があったと思うんですね。その空気感みたいなものは今から振り返ると、どういうふうに感じていましたか?
「そのパワーは凄く必要だなと思いましたし、実際にものすごいものがありましたけど、それだけのパワーを持っていたからこそ、長崎も初めてJリーグに上がれたんじゃないかなと思いますね。それぐらいギリギリの戦いでしたから」
興奮と、嬉しさと、緊張と。忘れられないJリーグデビュー戦
――そして、V・ファーレンがJリーグに昇格したことで、岩間選手もJリーガーになりました。この時が27歳ですか。
「26歳で上がって、27歳でJリーグのピッチに立ちました」
――これはご自身の中で“ようやく”という感じでしたか?
「はい。“ようやく”ですし、“やっと”という感じですね。『やっとこの舞台に立てたか』と」
――当時の体感としては、やっぱりJリーグのピッチにたどり着くまでは長かったですか?
「長かったですね。やっぱり周りの知り合いの選手や友だちはJリーグの試合に出ていて、それこそジュニアユースの同期だった一柳(夢吾)はオリンピック代表にも選ばれていたわけで、『やっとここに立てたか』という気持ちになりましたし、『ここまで長かったな……』とは思いました」
――Jリーグのデビュー戦はそのシーズンの開幕戦で、アウェイのファジアーノ岡山戦ですね。当時はKankoスタジアムですか。
「ものすごく緊張しました。ものすごく嬉しかったですし、『やっと来たぞ!これがJリーグの舞台か!』という想いもあったんですけど、緊張しすぎて自分の思うようなプレーはほとんどできなかったですね。それは試合後に高木さん(高木琢也監督)にも言われた記憶があります(笑)」……
Profile
土屋 雅史
1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!