松本山雅の再建を託され、2023年に就任した霜田正浩監督は、他のJリーグクラブでは前例のない「チームビルディング」を取り入れた強化プロジェクトに着手した。そのファシリテーターとして霜田監督が白羽の矢を立てたのは、数多くの企業の『組織文化醸成プロジェクト』をサポートしてきた仲山進也氏(仲山考材株式会社 代表取締役/楽天グループ株式会社 楽天大学学長)だった。
後編では、「その時その時の状況に合わせたカリキュラムを行っていた」というシーズン中盤以降に松本山雅のチームの中で起こった変化と成果を聞いた。
監督の「自分たちで考えてやれ」は本当なのか?
――5月の信州ダービー2連戦の後は、どれくらいのペースでカリキュラムを進めていったのでしょうか?
「月1回です。12節の相模原戦は5点取った後に3点返された試合で、DFの選手が試合中、『5バックに変えたいな』と思ったけど言わなかったという出来事があった、と霜田さんから聞きました。霜田さんは選手に『自分たちの判断で動いていい』と伝えてきていましたが、もしかすると選手が『システム変更は監督が判断すること』のように考えたからかもしれない。一方、霜田さんは、システム変更まで選手たちで変えてよいと考えているとのことでした。そこで、6月のセッションは、『どの範囲まで自分たちで動いて良いのか』を話し合うことにしました。
そのDFの選手に話を聞いてみると、彼はこう言いました。『今まで10人以上の監督の下でプレーしてきたが、“自分たちで考えてやれ”と言う監督はいっぱいいた。でも、上手くいかなかったらみんなそれを怒った』と。つまり、その選手は監督の言う『自分たちで考えろ』を真に受ける気にはなれていなかったのです。だから、『システム変更の判断は監督の仕事だと思う』という話が出てきました。
それをみんなで共有した後に『では霜田さんはどう思っているのか?』を聞きました。霜田さんの答えは、『ピッチで起きていることはピッチに立っている選手じゃないとわからないことがたくさんあるのがサッカーだ。だからシステムを変えた方がいいと思ったら、選手たちが自発的に変えていいと思っている。ただ、自分1人だけが動きを変えてもチームとして意思統一ができないので、大事なのは全員にどう伝えるか。チーム全員ですり合わせた上でならありだよ。その結果の責任はもちろん俺が取るよ』というものでした」
――サッカーにおけるものすごくセンシティブなテーマを話し合っているのが興味深いです。今回の仲山さんみたいな第三者のファシリテーターがいないと、監督と選手がそういう話はしにくいかもしれません。各回とも、最初から決められたプログラムを進めるのではなく、その時その時のチームの状況に合わせてやることを決めているんですね。
「はい。チームは生き物なので」
――その出来事を経て、チームにはどんな変化が起こったのでしょうか?
「みんなが練習中に話し合う姿が増えました。それまでは、ベテランの選手や声の大きな選手が若手に指示を出すコミュニケーションが多かったのですが、7月にはいろんなところでそれぞれ2人とかで喋っているシーンが見られるようになりました。
ただ、すり合わせが始まったとはいえ、6月後半から7月の前半戦までは思うような内容のプレーができない試合が続きました。プレーモデルを貫こうとする人と、プレーモデルよりも簡単なプレーに流れてしまう人が混在する状態になっていたので、7月のチームビルディングでは、4月にやった『フープリレー』をもう一度やりました」
――フープリレーとは、どういったアクティビティですか?
「フープリレーは、目標タイムを設定して、みんなで輪になってフープを潜るアクティビティです。潜り方はいろいろあって、正解はありません。4月の時は2グループに分けたのですが、片方のグループが成功して、もう片方のグループは成功できませんでした。
7月の時は、僕が潜り方を指定した上で、ターンを前半と後半に分けました。前半は選手がやり方をすり合わせて、これ以上タイムが短くならないところまで頑張るターン。後半は、僕もチームに入って改善点をみんなにフィードバックするターン。チームの成長ステージでいう第3ステージ『ノーミング』では、徹底度合いでパフォーマンスがグッと伸びるはずなので、後半のターンで記録が伸びるかどうかをみんなで検証するチャレンジです。
この時は33人で、目標タイムが33秒。前半ターンで3回やった段階で35秒でした。選手は『もう、これで良くない?』といった雰囲気になったのですが、僕はもう少しやればタイムが縮まりそうだと感じので、『もう一回だけやってみません?』と伝えたら、いきなり27秒までタイムが縮まりました。そこから後半ターンに入って、僕が気づいたことをフィードバックしました。4回やった結果、タイムは22秒まで縮まりました。……
Profile
浅野 賀一
1980年、北海道釧路市生まれ。3年半のサラリーマン生活を経て、2005年からフリーランス活動を開始。2006年10月から海外サッカー専門誌『footballista』の創刊メンバーとして加わり、2015年8月から編集長を務める。西部謙司氏との共著に『戦術に関してはこの本が最高峰』(東邦出版)がある。