1月20日、ブライトンがU-23アルゼンチン代表DFバレンティン・バルコと4年半契約を締結した。2004年7月23日生まれ、9歳からボカ・ジュニオルスでプレーしてきた身長172cmの左SBは、どのようなキャリア、キャラクター、プレースタイルの持ち主なのか。Chizuru de Garciaさんがバルコを発掘した地元クラブの指導者を取材し、その証言を基に成長の軌跡を追った。
「あなた好みのスルド(zurdo=左利き)がここにいますよ」
首都ブエノスアイレスから南西に約200km離れた郊外のクラブ、クルブ・ノルベルト・デ・リエストラ(以下リエストラ)の創設者であり、ジュニアチームの指導を務めていたエドガルド・サンチェスは、電話の向こう側でラモン・マドーニが満足気にうなずく様子を想像しながら“朗報”を伝えた。
マドーニは過去、フェルナンド・レドンド、エステバン・カンビアッソ、ファン・パブロ・ソリン、カルロス・テベス、フェルナンド・ガゴ、レアンドロ・パレデス(現ローマ)といった名選手たちを発掘して育てた目利きとして知られる。サンチェスの下でプレーしていた9歳のスルド、バレンティン・バルコは、そのマドーニの超越した鑑識眼を十分に充たす逸材だったのだ。
8歳の頃から「半端ない気の強さ」
バルコがサンチェスとの接点を持ったのは、隣町ベインティシンコ・デ・マージョのクラブ、クルブ・エスポルティーボ(以下エスポルティーボ)でプレーしていた8歳の時。小柄だが球際に強く、スピードとテクニックにおいても群を抜いており、ある日地元で行われたリエストラとの試合で異彩を放っていたことからサンチェスの目に留まった。
ジュニアサッカーでスカウトを行う者にとって、最初の課題は選手の両親とコンタクトを取り、説得すること。タレントを探すためにスラム街にも潜入するサンチェスにとっては慣れた仕事だが、この時は意外なほど容易に話が進んだ。
「試合を観ていたら、突然“あの赤毛の子をどう思う?”と話しかけられましてね。“巧いですね”と答えると、なんとその子を私のチームでプレーさせたいと言うではありませんか。話しかけてきたのはバルコの父ワルテルだったのです」
エスポルティーボの活動範囲が地元に限られていた一方、アルゼンチン全土にコンタクトを持つサンチェスが指揮を執るリエストラのジュニアチームは頻繁に遠征試合を行っていた。
「バレンティンは当時から気の強い子で――これが半端ない気の強さでして――とにかくどこでもいいからいろんなところに行って試合に出たいと。それがどこのどんなクラブであろうと、空き地のサッカーであろうと、あの子にとってはお構いなしでした」
その頃からプロ選手になることを夢に描き、あふれんばかりの競争心を秘めていたバルコにとって、リエストラのようなクラブでプレーすることは成長の第一歩だったのだ。
「しかもあの頃、リエストラのカテゴリア2004(2004年生まれの選手のチーム)には優れた選手がそろっていたので、バレンティンもすぐチームに馴染みました。口数が少なくて笑顔も滅多に見せないのですが、根はとても優しく、仲間たちからも好かれる子でしたね。ただ、人一倍負けず嫌いで気が強いことから、審判に抗議して退場処分になることもよくありました」
当時のリエストラでは、7歳でレアル・マドリーと契約したアルゼンチン人選手として話題になったレオネル・コイラ(現ゴドイ・クルス)も、母国で過ごす休暇期間を利用してプレーすることがあった。中盤の右サイドにコイラ、左サイドにバルコを擁したリエストラはあらゆる大会で好成績を残し、やがてジュニアサッカーの界隈でもバルコの噂が広がり始めた。そこでサンチェスは、バルコがワンステップ上を目指す時が来たと確信。マドーニに紹介し、ボカ・ジュニオルスのトライアルに連れて行くこととなった。
「ママ、そんなこと気にしないで」
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Profile
Chizuru de Garcia
1989年からブエノスアイレスに在住。1968年10月31日生まれ。清泉女子大学英語短期課程卒。幼少期から洋画・洋楽を愛し、78年ワールドカップでサッカーに目覚める。大学在学中から南米サッカー関連の情報を寄稿し始めて現在に至る。家族はウルグアイ人の夫と2人の娘。