元日に行われるタイ代表との一戦に挑む日本代表に、とうとう伊藤涼太郎が選出された。ベルギーのシント=トロイデンでも出場機会を掴み取るなど、今やその才能を大きく花開かせた感もあるが、プロ入りからの数年間は常に「サッカー選手でいられなくなるかもしれない」という危機感と隣り合わせの日々を過ごしてきた伊藤にとって、とりわけ2017年からの1年半と2021年の半年と、2度にわたって在籍した水戸ホーリーホックでの日々は、間違いなくキャリアに大きな影響を与えている。今回はその時間を間近で見てきた佐藤拓也が、もがきながらも着実に前へと進んでいった伊藤の“雌伏の時”を振り返る。
「僕ほど波乱万丈なサッカー人生を送っている人はいないと思います」
ベルギー1部・シント=トロイデンに所属する伊藤涼太郎が1月1日に国立競技場で行われるタイ代表戦に挑む日本代表に初選出された。
作陽高校時代から年代別の日本代表に選出されるなど、ピッチ上で見せる高い技術力とアイデア豊富なプレーで大きな注目を集めていた。そして高校卒業後には浦和レッズに加入。サクセスストーリーを歩み出すかと思われた。しかし、伊藤を待っていたのは試練の日々だった。
「僕ほど波乱万丈なサッカー人生を送っている人はいないと思います」
伊藤は苦笑をにじませながら、自らのサッカー人生をそう振り返る。今では海外でプレーし、日本代表に選ばれるようになったものの、そこに至るまでは苦難の連続だった。何度もどん底に落ちる屈辱を味わった。だが、そこで上を目指すことを諦めなかったからこそ、今がある。這い上がるきっかけをつかんだのは、2017年と2021年の2度在籍した水戸ホーリーホックでの日々だった。
2016年に5年ぶりの高卒ルーキーとして大きな期待を背負って浦和に加入した伊藤。開幕戦でベンチ入りを果たし、第9節でデビューを果たすなど順風満帆のスタートを切ったかのように思われた。しかし、その後、出場機会に恵まれなくなり、公式戦はその1試合の出場に留まった。2年目のシーズンも立場が変わることはなく、紅白戦にも出場できないことが珍しくなくなるなど、むしろ、1年目より厳しい立場に置かれた。
それでも、出場機会を求めて、下部カテゴリーのチームに移籍することを考えることはなかったという。
「J2のチームに移籍することに対して、自分の中で抵抗があったんです。『俺はJ1でプレーし続ける』と考えていました」
しかし、そんな伊藤に厳しい現実が突き付けられた。ルヴァンカップの試合に挑むメンバーに選ばれず、ユースの選手が登録されたのだった。その時にはじめて「『このままではヤバイ』と危機感を持ったんです」と振り返る。そして、シーズン途中の9月にオファーが届いていた水戸への期限付き移籍を決断したのだった。
1度目の水戸時代。過信が招いた危機的状況
「水戸でたくさん点を取って、すぐに浦和に帰って、J1の舞台で活躍するイメージを持っていた」
だが、そんな自信は粉々に砕かれた。
3カ月の在籍期間で先発出場は1試合もなく、6試合に途中出場したものの、ゴールもアシストも記録することはできなかった。
「全然自分のプレーができなかったし、点も取れなかった。『J2は甘いリーグじゃない』と思い知らされました」
伊藤は肩を落とした。
だが、それはまだ“底”ではなかった。
翌シーズンも期限付き期間を延長して水戸でプレーすることとなった伊藤だが、チーム始動時、グラウンドに現れたのは体重70kg超の明らかにウエイトオーバー状態の姿だった。
当然、体のキレは出ず、運動量が求められる水戸のサッカーにフィットできないまま、紅白戦や練習試合で主力組に入ることができない状況が続いた。
「伊藤涼太郎は終わったな」
練習試合で対戦した相手チームの監督が低調な動きを見せる伊藤を評した言葉は、その試合を見た者の思いを代弁していた。
プロの世界で今まで何人もの若い選手が自らの才能を過信して消えていってしまった。伊藤もまたその一人になると思われても仕方なかった。
募る危機感。伊藤は一歩踏み出して、アドバイスを求めた
その後も伊藤の状況は変わらず、開幕から2節連続してメンバーから外れた。
「その時、はじめて本気で『このままではプロサッカー人生が終わってしまう』と思うようになったんです。明らかに周りの選手と意識が違った。プレーというより、サッカーに対する意識を変えようとしたんです」
そこで、伊藤は一歩踏み出した。
第2節翌日に行われた練習試合の後、伊藤は西村卓朗GM(当時強化部長)のもとに行き、「今の自分に足りないものは何ですか?」とアドバイスを求めたのだ。……