ヴェルディユースを経て、北陸大学に歩みを進めた横山暁之はその後、なかなかプロ入りを叶えられずに流浪した。だが藁をもつかむ思いで掴み取った当時J3の藤枝MYFC入りからキャリアが少しずつ好転していく。そして須藤大輔監督との出会いが今の立場を決定づけた。その逆転のキャリアについて、ヴェルディユース時代から見届けてきたライター、海江田哲朗が本人へのインタビューを交えて書き綴った。
ヴェルディユースでは一番下のグループ
2015年の春、横山暁之は北陸大学フットボールパークのピッチを踏みしめた。
JR金沢駅から車で約30分。人工芝グラウンド2面、クラブハウスと観客スタンドを備える立派な施設だ。丘陵地を切り拓いて築かれ、豊かな緑に囲まれている。サッカーに集中できる環境は望むところだった。
横山は東京都町田市で生まれ、東京ヴェルディのアカデミーで育った。同期の三竿健斗(現・OHルーヴェン)、中野雅臣(現・レイラック滋賀FC)はユースからトップに昇格し、すでにJリーグデビューを果たしている。そのほか昇格が見送られたメンバーは、大半が関東の有名大学に進学した。
過去、北陸大はJリーガーを数名輩出しているが、プロで目立つ成果を挙げた者はいない。周囲からは都落ちと映っただろう。
18歳、生まれ育った東京を離れ、はるばる日本海側までやってきた。心機一転、横山の上を目指す戦いがここから始まる。
「ヴェルディユースでは健斗と雅臣の評価が突き抜けていて、僕は一番下のグループでした。試合には絡めず、ベンチに入れるかどうかというレベルです。その立場に置かれても、あまり抗ってなかったですね。メンタルが子どもで、口ではプロになりたいと言いながら行動がまったく伴っていなかったと思います。自分の将来をきちんと描けない状況で、とりあえずサッカーは好きだから続けていこうと」
育成年代における東京Vユースの看板はハイブランドである。主力クラスともなれば、大学からの引く手あまた。4年後にプロを見据え、希望に合うプレー環境を選べる。横山の場合はそうではなかった。
高3の進路相談の際、冨樫剛一監督(当時。現JFAナショナルコーチングスタッフ)は「どこの大学に進むかは大した問題ではない。結局は自分の取り組み方次第だ」と言った。
「北陸大を紹介していただいたとき、最初は東北地方にあるのかなと思い、北信越にあることすら知りませんでした。練習に参加し、ここでしっかりやって自分はプロを目指すんだという気持ちが固まった感じです。未熟だった僕にそうした気づきを与えてくれた冨樫さんには感謝しています」
北陸大には「関東の強豪を倒ずぞ」という機運が満ちていた
両親は、サッカーを抜きにしても関東の名の通った大学に通ってほしいという考えを持っていたが、懸命に説得した。やるしかない状況に自らを追い込んだとも言える。
北陸大に集まった選手たちの境遇は似通っていた。
「仮にトップレベルの大学に入っていたらBチームや試合に出られない選手が寄せ集まり、関東の強豪を倒してやろうぜという集団。チームメイト、コーチ、スタッフ、大学では人に恵まれたと思います。とにかくサッカーが好きな人たちと寮生活を送り、さまざまな試合を観る機会が増えました。それまで僕は自分のプレーの映像すら見る習慣がなかったんですが、ちゃんと確認するようになりましたね」
大学サッカーのすべり出しは順調だった。1年時に北信越大学リーグを優勝。夏の総理大臣杯に出場し、1回戦は大阪経済大を1‐0で撃破。2回戦、筑波大には延長戦の末に2‐3で敗れた。天皇杯の石川県代表となり、1回戦、ジュビロ磐田に0‐1の惜敗。冬のインカレ(全日本大学サッカー選手権)は1回戦で常葉大浜松キャンパスを1‐0で下し、2回戦、流通経済大とのゲームは延長までもつれ込み2‐3で敗退した。北陸大が全国の舞台で勝利を収めたのは史上初の快挙だった。
しかし、このときをピークに北陸大は目立った成績を残せなくなっていく。北信越リーグでは急速に台頭してきた新潟医療福祉大にトップの座を奪われ、貴重なアピールの場である全国大会にも手が届かない。また、横山はデンソーカップに出場する選抜チームとも縁がなかった。
「早い段階から注目してもらえて、選考会には呼ばれていたんですが、1、2年時は故障の影響で参加できませんでした。3年になって初めて選考会にいったときは落選しましたね。たしかに結果は出せていなかったんですけど、個人としては北信越で圧倒的な存在であると自負していました。ほかの誰よりも自分のほうが巧い。絶対にプロになれる。その自信は揺らがなかったです」
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Profile
海江田 哲朗
1972年、福岡県生まれ。大学卒業後、フリーライターとして活動し、東京ヴェルディを中心に日本サッカーを追っている。著書に、東京Vの育成組織を描いたノンフィクション『異端者たちのセンターサークル』(白夜書房)。2016年初春、東京V周辺のウェブマガジン『スタンド・バイ・グリーン』を開設した。