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ボスニア・ヘルツェゴビナ勢初の欧州カップ戦GS到達。“モスタルの奇跡”を起こしたズリニスキの興亡史

2023.10.08

2023-24シーズンのECLグループステージ開幕節で一躍脚光を浴びたクラブがある。本拠地モスタルにオランダの強豪AZを迎え、前半に負った0-3のビハインドをひっくり返して大逆転勝利を収める“奇跡”を起こしたHŠKズリニスキ・モスタルだ。ボスニア・ヘルツェゴビナ勢として初めて欧州カップ戦本大会に挑んでいる彼らの興亡史を、東欧サッカー事情に精通する長束恭行氏と紐解いていこう。

問題「チャンピオンズリーグ(CL)、ヨーロッパリーグ(EL)、ヨーロッパカンファレンスリーグ(ECL)のいずれにおいても、グループステージにいまだかつてクラブが1つも到達していないUEFA加盟国は10カ国。それをお答えください」

 今年7月1日、私は「海外サッカーカルトQ」と銘打った企画を都内のクイズ専門店で担当した。次々と難問を解く海外サッカー通の猛者たちが一番苦戦したのが上記の問題だった(解答はページ最後に記載)。

 出題時はグループステージ未到達の国が10カ国だったのが、今では7カ国まで減少している。これは21-22シーズンから設けられた「欧州第3の大会」の波及効果だ。いわゆる“メガクラブ”が牛耳るCLはともかく、ELですらマンネリ化しつつある今(2009年の創設以来14シーズンで7クラブしか優勝していない)、一見客を手厚くもてなすECLこそが新たな発見や邂逅を楽しめる大会だ。

 CL、EL、ECLの各予選では、リーグ優勝のクラブだけで戦われる「チャンピオンズパス」というコースが設けられ、ラウンド敗退しても下層大会の次のラウンドに参戦できる。細かいレギュレーションは割愛するが、CL1回戦から参戦する30カ国(+予備予選を勝ち残った2カ国)のクラブは、事実上の4回戦「プレーオフ」までに2度の勝利を収めればECLのグループステージに到達する。この「チャンピオンズパス」と「ECL」の組み合わせで、小国クラブにとってはハードルがグッと低くなった。

 23-24シーズンに新たにグループステージに到達した3つの国は、アイスランド(ブライザブリク)、フェロー諸島(KÍクラスビーク)、そして意外にもボスニア・ヘルツェゴビナ。この記事で取り上げるのは、今季のECLで台風の目になるかもしれない「HŠKズリニスキ・モスタル」(以下、ズリニスキ)だ。

Photo: Yasuyuki Nagatsuka

 メガクラブやCL、大国や主要リーグにしか関心のないような読者にとっては、「ECL」や「ボスニア・ヘルツェゴビナ王者」と聞いただけでお手上げだろう。でも、サッカーの世界は上から下まで、西から東まで、過去から未来まで、政治から経済まですべてが繋がっている。昭和の人気クイズ番組の司会者が毎週のように冒頭で語りかけていた言葉を私は思い出す。

 「“知るは楽しみなり”と申しまして、知識をたくさん持つことは人生を楽しくしてくれるものでございます」(鈴木健二/NHK『クイズ面白ゼミナール』

 私の持論はこうだ。

 「あらゆる国のサッカー事情を知ることは、あなたのサッカーライフを楽しくしてくれる」

 ボスニア・ヘルツェゴビナのズリニスキは「ルカ・モドリッチが初めてトップチームでプレーしたクラブ」と聞けば、俄然、あなたも興味が湧いてくるのではないだろうか?

ディナモ・ザグレブでトップ昇格できなかった17歳のモドリッチは、03-04シーズンにズリニスキへ貸し出された。激しく削られるリーグで才能が開花し、シーズン後はサポーター選出によるクラブ最優秀選手に選ばれている

47年の空白から復活も…スタジアム問題にまで及んだ紛争の余波

 1905年にモスタル市内のクロアチア人学生たちによって結成され、のちに中世クロアチアの名家にちなんで命名されたことで「貴族たち」(Plemići)の愛称を持つズリニスキは、クロアチア色の強さがゆえに極めて複雑な歴史を抱えている。

 今のボスニア・ヘルツェゴビナはボシュニャク人(ムスリム人)、クロアチア人、セルビア人の3民族で構成される国だが、クラブが創設された1905年当時は「オーストリア・ハンガリー帝国」の一部をなしていた。第一次世界大戦後には南スラブ人による「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」、のちの「ユーゴスラビア王国」が誕生。ズリニスキは地元の強豪チームだったが、ユニフォームにクロアチアの国章をつけることを当時の政府当局は良しとしなかった。1941年にはクロアチア人の民族主義者「ウスタシャ」が、クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナを含む一帯にナチス・ドイツの傀儡国家「クロアチア独立国」を建国。クロアチア独立国はFIFAにも加盟し、第二次世界大戦が激しくなるまでズリニスキは同国1部リーグでプレーしていた。

 国内外のあらゆる勢力が関わって血みどろの戦場と化したユーゴスラビアでは、最終的に反ファシストを掲げた共産系のパルチザンが勝利を収める。新たに生まれた「ユーゴスラビア連邦人民共和国」(1963年に「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」と改称)ではチトー大統領が民族主義を厳しく抑え込んだことで、ズリニスキは活動禁止に追い込まれた。多くのクラブ関係者が殺害され、生き残った人物がズリニスキの存続を試みたものの、クロアチアの国章を削除して共産主義のシンボルマーク「赤い五芒星」を使用せよ、という政府当局の条件を拒んだという。それからの空白の歴史は実に47年間に及ぶ。

 圧倒的なカリスマを持ったチトーの死後(1980年)に民族主義が各地で勃興し、6つの共和国による連邦国家のユーゴスラビアは崩壊していく。クロアチアやスロベニア、マケドニアに続き、ボスニア・ヘルツェゴビナが1992年3月に独立を宣言。しかし、3民族が入り組んだ複雑な国情がゆえに「民族浄化」を伴う泥沼の紛争に陥った。

 1992年6月には「クロアチアスポーツクラブ(HŠK)」を冠したズリニスキが復活する。戦時中のサッカーリーグは民族によって3つに分かれており、クロアチア系のクラブによる「ヘルツェグ・ボスナリーグ」の組織化にズリニスキも大きく関わった。

1992年9月30日、ズリニスキが復活して初めての試合がクロアチアのイモツキで行われた。対戦相手はクロアチア・ズミヤブチ。結果は1-2だったという

 ズリニスキ復活により大きな遺恨が生まれたのはスタジアム問題だ。モスタルは市内を縦に流れるネレトバ川の東側地域にボシュニャク人、西側地域にクロアチア人が多数を占めている。街のシンボルである16世紀建造の石橋「スタリ・モスト」が1993年にクロアチア人によって破壊されたように(2004年に再建されて現在はユネスコ世界遺産に指定)、紛争を通して街は大きく分断されてしまった。

 モスタルにはボシュニャク人が支持し、名CFだったヴァイッド・ハリルホジッチがユーゴカップ優勝に貢献した「FKベレジュ・モスタル」という古豪が存在する。第2次大戦後にベレジュが本拠地としていた「ポド・ビイェリム・ブリイェゴム」は西側地域に位置していたがゆえ、クロアチア人がベレジュのトロフィーや書類を破棄してしまい、ズリニスキがスタジアムを占拠した。1995年に紛争は終結。民族融和の歩みは遅いものの、2000年にボシュニャク系とクロアチア系のリーグが合併し、その2年後にはセルビア系も合併して統一リーグ「プレミイェルリーガ」が誕生した。その中でもズリニスキとベレジュのモスタルダービーは同国で一番激しいカードとして知られている。

「白い丘の下」という意味があるズリニスキの本拠「ポド・ビイェリム・ブリイェゴム」。メインスタンド上段にはクラブスローガンの「ズリニスキは人生であり、それ以上のものだ」と書かれている。(Photo: Yasuyuki Nagatsuka)

 耳慣れない固有名詞を連発したこともあって、おそらく読者の頭の中は混乱しているだろう。これでもかなり端折って書いている。ただ、一般的に「ボスニア」と略称されがちな国名を、私が頑なに「ボスニア・ヘルツェゴビナ」と表記しているのには理由がある。モスタルが南部のヘルツェゴビナに位置しているせいだ。ただし、どこまでがボスニアで、どこからがヘルツェゴビナか、という明確な境界線はない。そんな緩さや曖昧さも現地の特徴の1つ。すっかり修復されたモスタルのスタリ・モスト周辺は一級の観光資源であるし、欧州ではアテネと並んで快晴に恵まれている都市だそうだ。ジューシーな肉料理と辛口の白ワインに舌鼓を打った後は、橋の欄干からネレトバ川へとパンツ一丁で飛び込むパフォーマンスを見届けるのもいいだろう。街を歩く限りでは分断を感じることはなく、異国の旅人にはフレンドリー。欧州の奥深くの渓谷でエキゾチックなイスラム社会が堪能できる、そんな旧ユーゴ指折りの観光都市がモスタルだ。

「古い橋」という意味があるモスタルの世界遺産「スタリ・モスト」。オスマン帝国が1567年に建設し、「橋の番人」という意味のモスタルの語源にもなった。水面からの高さは24mで、再建後には伝統の飛び込み大会も再開している(Photo: Yasuyuki Nagatsuka)

地元出身の熱血漢。クロアチア人指導者がもたらした歓喜と遺産

 ズリニスキがプレミイェルリーガを初めて制したのは04-05シーズン。クロアチア本国との結びつきを生かしながら、プレミイェルリーガ最多優勝(8回)を誇るクラブにまで成長したが、どうしても欧州カップの予選突破が叶わなかった。予算の少なさで短期契約やローンの選手往来が激しく、監督交代も頻繁に起こるために継続的なチーム作りは難しい。シーズン終了から予選スタートまでの準備期間が1カ月強と短いこともネックで、チームが仕上がる以前に予選敗退を強いられてきた。クラブの転換点になったのは2020年12月、モスタル生まれのクロアチア人指導者、セルゲイ・ヤキロビッチ(現ディナモ・ザグレブ監督)の到来だ。……

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Profile

長束 恭行

1973年生まれ。1997年、現地観戦したディナモ・ザグレブの試合に感銘を受けて銀行を退職。2001年からは10年間のザグレブ生活を通して旧ユーゴ諸国のサッカーを追った。2011年から4年間はリトアニアを拠点に東欧諸国を取材。取材レポートを一冊にまとめた『東欧サッカークロニクル』(カンゼン)では2018年度ミズノスポーツライター優秀賞を受賞した。近著に『もえるバトレニ モドリッチと仲間たちの夢のカタール大冒険譚』(小社刊)。

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