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「50歳を過ぎてまでフットボールをやってきたのは、やっぱり純粋に好きだから」――ザスパクサツ群馬・大槻毅監督インタビュー(後編)

2023.09.14

“組長”とも称された、Jリーグ史に残るインパクト抜群のビジュアルのイメージで捉えては、この男の本質を見誤る。その実はサッカーと人間が大好きな元・高校教師であり、地道に一歩ずつ自分の進む道を踏み固めて、プロの監督へと辿り着いた努力の人でもある。現在はザスパクサツ群馬を率いて、クラブ初のJ1昇格に堂々と挑んでいる大槻毅が、自らのキャリアを振り返るロングインタビュー。後編ではオジェックとフィンケから受けた薫陶、ベガルタ仙台在籍時に体験した東日本大震災、正面から高校生と向き合った浦和ユースでの指導、そして群馬の地で戦ういまの心境を伺っている。

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オジェックとフィンケ。2人のドイツ人監督から学んだこと

――大槻さんは2010年まで浦和のコーチをされていて、2007年からの2年はオジェックさん、2009年からの2年はフィンケさんが監督を務めてらっしゃいましたが、この経験はいかがでしたか?

 「それが一番大きかった。一番大きかったです。オジェックさんの2年目は2試合だけでしたけど、凄く大きかったです。オジェックさんに言われたのは、『オマエは将来どうなりたいんだ?』と聞かれて、『将来は監督になりたいんです。でも、こういう分析を続けていく中で、どうしていったらいいのかなと。ライセンスは獲りたいですけど……・』と言ったら、『オマエはその分析能力という武器のある指導者じゃないか』と。その時に『ああ、そういう考え方もあるのか』と思ったんですよね。オジェックさんはFIFAの分析チームにも任命されるような非常に賢い方で、本当に尊敬しています。去年、阿部勇樹の引退試合でお会いしましたけど、僕は勝手に“サッカーのお父さん”だと思っています。

 フィンケさんは凄く経験豊かで賢い方で、フライブルクで長くやられていましたし、現場監督であると同時に、クラブの経営に影響を与えるような決定権だったり、そこに関わるような仕事をされた方ですよね。中央アジアやアフリカから選手を連れてきて、教育して、自分のところで価値を上げて、外に売却して活躍してもらうようなビジネスモデルの話もしていました。

2009年から2年間、浦和レッズのトップチームを率いたフォルカー・フィンケ

 だから、浦和でもファイサルという選手はそういうケースで連れてきた選手で、身体能力があって、速くて、ちょっとJリーグには馴染まなかったですけど、ああいうことにもトライしましたし、浦和から京都に行った(ウィルフリード・)サヌもそういうケースですよね。コーチも(カルステン・)ナイチェルと(イブラヒム・)タンコという2人を連れてきましたけど、彼らは東ドイツとガーナ出身で、タンコはドルトムントが1997年にチャンピオンズリーグを獲った時に、17歳ぐらいでメンバー登録されていたんですよ」

――へえ。そうなんですか!

 「そのあとに両ひざの前十字靭帯を切ってしまったんですよね。もう役割は完全に分かれていて、タンコは“プレーイングコーチ”として選手と一緒にプレーするんですけど、それがまた上手いんですよ。『前十字切ったから引退したけど、日本に来たら食事と気候が良いから、プレーが調子いいな』って(笑)

 いろいろなお話をしていただきました。チームマネジメントから、クラブとフットボールの関係とか、あとはお2人とも現場のトレーニングの話もしてくれますけど、文化としてのフットボールとはどうあるべきかとか、異国に来てどういうことを考えているかをお聞きすることができて、非常に良い時間でした。あと、フィンケさんは元気でした。よく走っていましたね」

「人生の中で自分の考え方が全部変わるぐらいの経験でした」

――2011年はコーチとしてベガルタ仙台に行かれています。これはどういう経緯と決断ですか?

「契約満了です。それで、次を探した中で仙台に行きました」

――仙台に行かれて、すぐに東日本大震災があったと思うんですね。地元のクラブにある意味で帰られて、そこで震災が起きたことも含めて、この1年はどういう時間でしたか?

 「うーん、人生の中で自分の考え方が全部変わるぐらいの経験でしたね。その前までは『自分がこうなりたい』とか『自分が面白いから』とか、そういう感じでしたけど、そんなことは関係ないんだと。『誰かのために、何かをやった方がいいな』と。完全に考え方が変わりました。それをやっていたら何かいいことがあるだろうと。しんどかったですけど、そういう1年でしたね」

――大槻さんはずっと仙台を離れていたわけじゃないですか。それで1年だけベガルタで仕事をされていた、そのタイミングでああいうことが起きた巡り合わせはどういうふうに感じてらっしゃいますか?

 「そういうことなんですよ。まさに、そういうことだと思っています。39歳か、あの時は。今もあの時にやっていた選手が、リャン(・ヨンギ)も現役で、町田に(中島)裕希がいて、林(卓人)も広島にいて、関口(訓充)が南葛SCにいて、去年までウチにいた(渡辺)広大(VONDS市原)もまだ続けていますけど、言葉にするのが難しいような、凄い1年でしたね」

――僕は再開初戦で等々力でやったフロンターレ戦が、過去のJリーグの中でもトップクラスに印象に残っているんですけど、あの試合は当事者としてどういう試合でしたか?

 「市原でキャンプをやって、初日にいろいろな人が会いに来てくれて、取材も多かったですけど、『サッカーをやっていていいのかな?』って。そっちの方が気持ちとしては大きかったですね。ゴール裏が凄くて、雨が降っていてね。『鎌田次郎のヘディングが入るか!』『太田(吉彰)は足が攣ってたけど、ボールがよく弾んだな』って(笑)

2011年4月23日、J1リーグ第7節川崎フロンターレ対ベガルタ仙台のハイライト動画

 今でも覚えているのは、あの時のチームでは、今は山形にいる丹治(祥庸)と佐藤洋平と僕の3人が同い年だったんです。試合が終わった後にみんな凄くエモーショナルでしたけど、僕と洋平はもう現場の人だから、『OK!次に行こう!』みたいな感じでしたね。次がホームで浦和戦だったので、『さあ、次の準備だ』と。

 (手倉森誠)監督は涙を流して、丹治も他のスタッフも泣いている中で、頭の中は冷静で、洋平と僕は『次、次』という感じだったなあ。もちろん勝って嬉しかったけど、これを続けなくてはいけないという気持ちでしたね。そういうタイプが1人だけじゃなくて良かったです」

「夏休みなんて朝の7時から夕方の5時まで、ずっとレッズランドですから」

――2012年は再び浦和に戻られますね。プロフィールには“強化部スタッフ”というふうに書かれていますが、これも分析担当ですか?……

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フォルカー・フィンケ大槻毅戸嶋祥郎鈴木彩艶

Profile

土屋 雅史

1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!

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