“記事の署名”をチェックしていた学生時代。辿り着いたサッカーダイジェストへの入口。飯尾篤史が「サッカーを描きたい」と思った原点
蹴人列伝 FILE.5 飯尾篤史~前編~
サッカーの世界では、あるいは世間的に見れば“変わった人”たちがたくさん働いている。ただ、そういう人たちがこの国のサッカーを支えているということも、彼らと20年近く時間をともにしてきたことで、より強く実感している。本連載では、自分が様々なことを学ばせてもらってきた“変わった人”たちが、どういう気概と情熱を持ってこの世界で生きてきたかをご紹介することで、日本サッカー界の奥深さの一端を覗いていだだければ幸いだ。
第5回でご紹介するのは各種媒体で健筆を振るうサッカーライターの飯尾篤史氏。『サッカーダイジェスト』のエースからフリーランスへと転身し、その文章を見ない日はないくらいの売れっ子ライターというイメージがある飯尾氏だが、過去にはW杯の取材を目前に控え、この仕事をやめることまで考えるような体験に見舞われたこともあった。前編では「サッカーを描きたい」と思うに至った学生時代から、サッカーダイジェストの編集部で経験を積んだ日々を振り返ってもらう。
金子達仁との衝撃的な“出会い”
――そもそも飯尾さんはどういうきっかけでサッカーと出会ったんですか?
「小学生の頃に一時期、名古屋に住んでいて、時代的にも野球少年だったんです。でも、今思うと特殊だったんですけど、当時の名古屋って野球部の活動が春休みから夏休みまでで、夏休み明けからサッカー部の活動が始まるから、両方に所属できたんですよ。だから、半分くらいの部員は野球部だけ、半分くらいはサッカー部だけ、残りの半分は野球部とサッカー部を掛け持ちしていて。僕自身は中日ドラゴンズファンで、『キャプテン』や『ドカベン』を愛読する野球少年だったんですけど、運動神経がいい方だったので、サッカー部の友だちから『やろうよ』と誘われて、小4からサッカーも始めたという感じです」
――夏まで野球、秋からサッカーって珍しくないですか? そんなこと、あるんですね。
「今も名古屋ではそうなんですかね?校庭が狭かったからかもしれないです。ちょうど『キャプテン翼』が流行っていた頃で、86年にはメキシコW杯もあって、マラドーナの人気も凄くて、サッカーにハマっていきました。ただ、周りはみんなマラドーナやジーコとか、南米サッカーファンばかりだったんですけど、僕はなんとなくプラティニやジレスのフランス代表がカッコよく感じたんですよね。それでヨーロッパのサッカーに興味を持って。
その後、トヨタカップでACミランが来日するじゃないですか。ファン・バステン、フリット、ライカールトのオランダトリオのプレーもそうだし、ドレッドヘアにも衝撃を受けて、にわかミラニスタに(笑)。90年のイタリアW杯ではオランダ代表とイタリア代表を応援していました。バッジョ、ジャンニーニ、マルディーニ、ベルティとか、イタリア代表はカッコいい選手ばかりでしたよね。あと、オランダ対ドイツ戦でライカールトがフェラーに唾をかけて退場になったのは、子どもながらにショックを受けました(笑)。ストイコビッチを知ったのもこの大会で、4年後に名古屋グランパスに加入したときは嬉しかったですね。真っ赤なスーツで来日して」
――サッカー雑誌はいつ頃から読むようになったんですか?
「86年や90年のW杯総集編は買いました。雑誌自体が好きだったし、買ったら基本的に取っておくタイプです。この頃の専門誌、いいですよね。ちゃんと買うようになったのはオフトジャパンが誕生して、Jリーグの前哨戦のナビスコカップが行われた92年くらいからかな。正直当時はマガジン派でもダイジェスト派でもなかったんです。
ただ、サッカーダイジェストは93年のJリーグ開幕から記名原稿で、採点も付けていたんですけど、サッカーマガジンは94年から後追いで採点するようになったんです。だから、93年くらいからサッカーダイジェストを買っていました。金子(達仁)さんがドーハの悲劇の時に書いたオフトの批判記事も読んでいて、そういうのはダイジェストの方がしっかり切り込むというか、それを記名で書くところにジャーナリズム精神を感じて、その頃は完全に意識してサッカーダイジェストを買っていましたね。
金子さんはその1、2年後にサッカーダイジェストをやめるんですけど、名前はなんとなく覚えていて。95年か96年ぐらいにNumberのヨーロッパサッカー特集の中にスペインサッカーの紀行文があったんです。忘れもしないんですけど、ベティスとバルセロナの話で、書き出しがアメリカの映画館のシーン。映画が始まる前って暗くなるじゃないですか。そこで老人がいきなり立ち上がって、『ビバ、ベティス!たとえ敗れようとも!』って叫んだと。
その老人は生粋のベティコで、自分の人生の最後には必ずこの言葉を言おうと思っていたところ、映画館が真っ暗になったから、人生の最後の瞬間が訪れたと思って叫んでしまったという内容で。このエピソードが本当かウソかはわからないんですけど(笑)、その物語にグイグイ引き込まれて、読み終わったあとに泣いていたんです。人生で初めて『これって誰が書いたんだろう?』と思って、ページを前に戻してみたら、そこに“金子達仁”と書いてあって、『あれ?この人ってサッカーダイジェストにいなかったっけ?』って。そのあたりがサッカーを書く仕事をしたいなと思う原点ですね」
――もう大学生の頃にサッカーライターになりたかったんですね。
「そうですね。時代は93年のドーハの悲劇から96年のアトランタ五輪を経て、97年のフランスW杯予選に向かっていく頃で、大学の講義中に多くの男子学生がサッカー専門誌やNumberを読んでいて、居酒屋でもそこかしこでサッカー談義が繰り広げられていて(笑)。そういう場で、僕がその試合について語ると、『そんなところまで見てるんだ』とか、『面白い』とか言われて、『オレほどサッカーをわかっているヤツはいない』と若さゆえの勘違いをしたのがすべての始まりです(笑)
大学卒業後はサッカーマガジンかサッカーダイジェストに入りたいと思うようになって。ただ、今ではそんな事実はなかったとわかるんですけど、当時サッカーマガジンには早稲田の人しか入れないという噂があったんです。当時はその噂を信じていて、無理じゃんと(笑)。それで、確か大学3年の頃に、スポニチ主催で金子さんの文章講座があって、それは1か月に5回ぐらいのものでしたけど、そこに行ったんです」
――へえ。金子塾の前にそういうのもあったんですね。
「そうそう。そこで金子さんと親しくなって、『サッカーダイジェストに入りたいんです』って相談したら、『紹介するよ。大学どこなの?』『明治です』『ああ、ちょうどダイジェスト時代にかわいがっていたヤツが明治出身だから連絡してあげるよ』と言って、その場で編集部に電話してくれたんです。そうしたら『ああ、ちょうどいいねえ。君に用事があって電話したんだよ』って、熊崎(敬)さんが出たんです。それで熊崎さんに会ってもらって、当時の編集長の六川(亨)さんにも会っていただいたんですけど、結局新卒を採ってなくて、経験者の中途採用じゃないと無理だということになって、『ああ、ダメか』と」
「書き手にもともと興味があったんですよね」
――金子さんと言えば、やっぱり『28年目のハーフタイム』ですよね。
「初版で買いました(笑)。金子さんは『最初は3000部しか刷っていない』と言っていたので、けっこう貴重なんじゃないかな。あのスペインの紀行文以降、Numberで金子さんの名前を見かけるたびに読んでいました。もちろんあの本の元になった記事の『断層』や『叫び』も読んでいて、『本にならないかな』と思っていたところだったので、出版の告知を見てすぐに本屋で予約しましたね(笑)」
――ここで重要なのは、『28年目のハーフタイム』が出版される前から金子さんを知っていたことですね(笑)
「その後、サッカーダイジェストの入社試験で作文を書くんですけど、その題材も金子さんのスペイン紀行でしたからね。ただ実は、僕は金子さんが編集部からいなくなったあと、サッカーダイジェスト派からサッカーマガジン派になったんです。サッカーダイジェストのOBなのにこんなことを言うのはあれなんですけど(笑)。伊東武彦さんと北條聡さんの文章のファンだったので。以前、この連載の北條さんのインタビューの回で、北條さんがアナウンサーの金子勝彦さんに『まるで見てきたように喋るね』と言われたという話が載っていましたけど、僕もそう思っていましたよ(笑)。北條さんの連載をまとめた『サッカー世界遺産』ももちろん買いましたから」
――サッカーが好きな人でも、記事を読んだ時に誰が書いたかはそこまで気にしないと思うんですよ。でも、飯尾さんはもう大学生の時にそこに興味があったんですね。
「そうなんです。僕は尾崎豊やBOØWYが好きだったので『ROCKIN’ON JAPAN』とかの音楽雑誌も読んでいたんですけど、渋谷陽一さんのような名前は意識していましたし、高校の時は沢木耕太郎さんの本も読んでいたので、書き手にもともと興味があったんですよね。でも、さっきも話したようにその頃は学生特有の勘違いで『サッカーマガジンもサッカーダイジェストもオレみたいな人材を逃してもったいないな』と思っていました(笑)
それで結局、就職活動は3社しか受けなくて、それはフジテレビと日刊スポーツと朝日新聞。これは僕の主観ですけど、当時の民放で一番サッカーに強かったのがフジテレビで、セリエAダイジェストも欠かさず見ていました。朝日新聞は潮智史さんの記事を熟読していて、一般紙では朝日新聞が面白かったんです。あと、日刊スポーツもスポーツ紙の中で一番サッカーに力を入れているなと思ったんですよね。でも、オレほどサッカーをわかっているヤツはいないという勘違い以外なんの対策もしていないので、当然ダメですよ(笑)。もうその時点で就職活動をやめました」
――サッカーマガジンもサッカーダイジェストも基本的に新卒の採用がなかったわけですよね。
「そうなんですよ。正直、当時はいきなりフリーランスなんてことは考えもしなかったです。日刊スポーツだけ3次試験ぐらいまで行きましたけど、普通に落ちました。でも、その頃にはフランスW杯の開幕が目前で、もちろん見に行ったので就活どころではなくなっていって、それが終わったらトルシエジャパンが立ち上がって、長居までエジプト戦を見に行ったり。そうしたら今度は小野伸二や稲本潤一たち黄金世代のアジアユースが始まり……。結局、就職しないまま大学は卒業しましたけど、塾の講師のバイトをしていたので、契約社員までは行かないまでも、もうちょっと密に塾講師をする感じになったんです。
そんな感じで1年ちょっと過ごしながら、テレビやスタジアムでメチャメチャサッカーを見ていたんですけど、サッカー界への関わりを見出せていなかったので、さすがに何か考えなきゃいけないなって。ただ、せっかくお金も貯まったし、時間もあったので、『とりあえず旅に出よう』と思って(笑)、2000年から2001年に掛けて、8か月ぐらい旅に出たんです。……
Profile
土屋 雅史
1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!